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第15話:蟠りと決意

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 昨日は怒りのあまり我を忘れてしまい、蓮光院と徳川家基を激しく罵って、西之丸から田沼意次の屋敷に戻ってきました。
 私の余りの怒り様に、田沼親子もお登勢さんも止めることが出来なかったのでしょう、下城してきた勢いのまま御稲荷様に参詣しました。

 けれど、哀しい事に、元の世界に戻ることが出来ませんでした。
 私はその場で大泣きしてしまい、誰も近づくことが出来ないほどでした。
 私自身も、誰にも近寄って欲しくなかったです。
 そのまま泣きに泣いて、泣き疲れてその場で寝てしまったようです。

 気がつくと、田沼屋敷に来てから与えられた部屋で眠っていました。
 私が起きた事に百合さんが直ぐに気がついてくれて、隣りの部屋から声をかけてくれましたが、誰とも話したくなくて無視してしまいました
 御握りがあるとも言ってくれましたが、食欲が全くわきませんでした。
 だからそのまま無視して布団をかぶっていました。

「神使様、宜しいでしょうか。
 殿と若殿が朝の挨拶に参りたいと申しているのですが、宜しいでしょうか」

 お登勢さんが廊下から声をかけてくれます。
 気分的には無視してしまいたいのですが、このまま無視していたら、田沼親子が廊下の前までやってきてしまいそうです。

「誰とも会いたくありません。
 挨拶は不要だと伝えてください」

「承りました」

 意外と簡単にお登勢さんが引き下がってくれました。
 再度の使者が来るかと思いましたが、一度で諦めてくれました。
 少し肩透かしを食らったような気分です。
 それにしても、今思い出しても昨日は泣き過ぎてしまいましたね。
 あれほど泣いた記憶は、私にはありませんから、もしあれほど泣いたことがあったとしても、それは物心つく前ですね。

 今思い出してもまた大泣きしてしまいそうです。
 母の顔が瞼に浮かびます。
 もう二度と母に会えないのでしょうか。
 そう思うと、きりきりと胸に鋭い痛みが走ります。
 もう一度大泣きしたら、少しは楽になるでしょうか。

「神使様、御食事だけでもなされませんか。
 このままでは身体を壊されてしまいます。
 私が御膳だけ運ばせていただきますから、どうか少しでも御食べくださいませ」

 田沼親子が無理に会いに来ないと分かって安心できたのでしょうか、急激に空腹を感じました。

「分かりました、御膳だけ運んできてください。
 自分で食べますから、誰の給仕もいりません。
 御櫃と汁鍋も一緒に持ってきてください」

「承りました、直ぐに持ってまいります」

 お登勢さんが廊下からそう返事をして、直ぐに離れていきました。
 無理に部屋の中に入ろうとしない事に、大きな安堵と少しの寂しさを感じてしまい、自分の身勝手さにやりきれなくなります。

「御膳を御持ちさせていただきました」

 廊下からお登勢さんが声をかけてくれます。
 お登勢さん以外にも、三人の女中の影が障子に写っています。

「入ってください」

 私がそう言うと、お登勢さんを先頭に順番に入って来てくれました。
 お登勢さんが一の膳と二の膳を一緒に運んできてくれました。
 他の三人は、御櫃、鉄の汁鍋、大きな急須と茶碗を運んで来てくれました。

「直ぐに手炙りに火を熾させていただきます。
 食事以外に何か御用がありましたら、隣の部屋に御声をかけください」

 私は一瞬返事に詰まってしまいました。
 そんな私を置き去りにして、お登勢さん達は部屋を出て行ってしまいました。
 私が最初に拒絶したのに、それに合わせてくれたお登勢さんの態度に哀しむなんて、自分の身勝手さに嫌悪してしまいます。
 自分がこんな性格をしているのに、徳川家基をあれほど激しく罵るなんて、私はなんと身勝手なのでしょうか。

 朝から結構な御馳走を用意してくれていましたが、余り美味しく感じることが出来ませんでした。
 自分の気分が落ち込んでいるせいなのか、それとも一人で食べているせいなのか、どちらも影響しているのか、正確には分かりませんが、美味しくないのは確かです。

 何時までも落ち込んでいるわけにはいきません。
 いえ、自分の弱さと身勝手さを認めなければいけません。
 私は自分の思い通りにいかない事に、拗ねているのです。
 ですが拗ねているだけでは、元の世界に戻る事などできません。
 元の世界に戻りたいのなら、自分から動くしかないのです。

「お登勢さんを呼んでください」

「はい、直ぐに呼んでまいります」

 隣の部屋に控えていた若い女中が、慌てて部屋を出て行きました。

「神使様、何か御用でございますか」

 お登勢さんが急いできてくれました。

「江戸中の御稲荷様に参詣する事にしました。
 警護を御願いしたいので、当麻殿に御助力願いたいと使者を送ってください。
 御礼を御渡ししなければいけないので、奥医師の家督を売り渡す相手を探してください」

「田沼家から駕籠と警護を用意させて頂いてて宜しいのでしょうか」

「それは好きにしてください。
 私はもう徳川家の事に係わる気がありません。
 それでもいいのなら、駕籠も警護も用意してくれて構いません」

 うわ、私にはこんな腐った所があったのですね。
 さっき拗ねるのは止めると決めたのに、まだこんな事を口にしてしまいます。
 徳川家基への苛立たしさを、こんな風に八つ当たりしてしまいます。

「承りました。
 殿に御相談させて頂いて宜しいでしょうか」

「好きにしてください。
 私は直ぐにでも帰りたいのです。
 もうこんな腐った世界はうんざりです。
 徳川の世など、どうなっても構いません。
 精々愚物を後継者に選んで滅べばいいのです」

 うわ、また憎まれ口をきいてしまっています。
 徳川家基に嫌な思いをさせられた事を、他の人にぶつけてしまっています。
 この言葉を聞いた徳川家治と蓮光院が、徳川家基を厳しく叱責するように期待して、こんな嫌味な言い方をお登勢さんにしてしまっています。
 自分で動くと考えていたのに、その為に話し始めたはずなのに、なんて女々しく厭らしい事を口にしてしまっているのでしょうか。

「神使様、入らせていただいて宜しいでしょうか」

 田沼意次に報告に行っていたお登勢さんが、待つ間もなく戻ってきてくれました。
 田沼意次が直接来ない事が、嬉しいような腹立たしいような、なんとも矛盾した複雑な気持ちになってしまいます。

「はい、入って来てください」

 お登勢さんが御盆を重そうに持って部屋に入って来てくれます。

「殿からこれを預かってまいりました。
 殿からは御礼の一部だと伺っております。
 急ぎ御金の手配をしておりますので、必要なだけお申し付けくださいとの事でございます。
 奥医師の家督の件は、急ぎ登城して上様の御裁可を頂いて参るとの事でございますので、今暫く御待ち下さいますようにとの事でした。
 当麻殿へは使者を走らせさせて頂きました。
 田沼家でも駕籠と警護を用意しておりますので、何時でも出立を御命じください」
 
「分かりました、当麻殿が来てくれ次第出立させてもらいます。
 その心算で用意してください」

 本当に嫌な事を口にしてしまっています。
 これでは、田沼家の事など信用していないと言っているも同然です。

「承りました、当麻殿が来て下さったら、直ぐに御案内させて頂きます」

 お登勢さんが私の話しを聞いて戻って行きました。
 恐らく田沼意次に私との会話を報告するのでしょう。
 ここまで意地を張ってしまったら、もう後戻りはできません。
 危険だと分かっていても、屋敷を出て御稲荷様を巡るしかありません。
 一橋と松平定信が襲ってくるかもしれなくても、行くしかありません。

 ですがその前に、わずかな希望でも縋りたくなります。
 私が元の世界から持ってきた荷物は、もう二度と手元から離しません。
 無理矢理登城させられることになっても、絶対に手放しません、
 用を済ませる時も、身の回りから手放しません。
 用を済ませたら、今一度庭の御稲荷様に手を合わせに行ってみます。

 庭に降りた私の後を、若い女中が黙ってついてきます。
 御稲荷様の方に歩いていくと庭を警備している若侍が厳しい目で私を見てきます。
 私が田沼意次に無理難題を言った事を聞いているのでしょう。
 斬られるかもしれないと恐怖を感じましたが、我慢して無視します。
 
 御稲荷様に真摯に祈りました。
 どうか元の世界に戻してくださいと心から祈りました。
 夢なら早く覚めさせてくださいとも願いました。
 でも、願いは叶えられませんでした。
 どれほど真剣に祈り願っても、何も変わりませんでした。

 絶望感が胸に広がっていきます。
 氷のように冷たい痛みが心臓を貫きます。
 はらはらと涙が流れてしまいます。
 若侍と女中が見ているので我慢したいのですが、我慢できずに涙が流れます。
 何とか嗚咽をこらえるだけで精一杯です。

「姫様、当麻殿が来てくださいました」

「姫君、助太刀を御求めと聞いて急ぎ推参致しました。
 どのような事でも、身命を賭して御手伝いさせて頂きます。
 何なりと仰ってください」

 哀しみの余り、当麻殿が来てくれたことにすら気が付けませんでした。
 背後からとはいえ、私が泣いている事は一目瞭然だったでしょうね。
 それでも、正面から涙を見せるのは恥ずかしいです。
 本当なら、直ぐに振り返って挨拶するのが礼儀なのでしょうが、涙をこらえるのに、どうしても時間がかかってしまいました。
 私は涙を拭ってから振り返りました。

「よく来て下さいました、当麻様。
 行く場のなくなった私を助けてください。
 もう心から頼れる方が、何処にもいなくなってしまいました。
 当麻殿以外に頼れる方がいなくなってしまいました」

 当麻殿がちらりとお登勢さんと若侍に目を向けられました。

「私には詳しい事情が分かりません。
 しかしながら、か弱い女性が困っているのを見捨てるような者ではありません。
 武士の誇りにかけて御助力させていただきますので、御安心下さい」

 当麻殿の言葉を聞いて、顔を伏せていたお登勢さんの身体が僅かに動きました。
 若侍が一瞬目をそらしました。

「ありがとうございます、当麻殿。
 私が命を狙われている事は、先の襲撃で知ってくれていると思います。
 命懸けで上様や西之丸様を御救いしようとしましたが、その結果は、西之丸様に罵られて手討ちにされかけるという、情けなく哀しい事でした。
 もう私には当麻殿に御縋りするしかありません。
 私を護って御稲荷様に行って頂けませんか」

 私の言葉を聞いて、お登勢さんの緊張がさらに強くなっています。
 私から視線をそらしていた若侍が、眼を向いてこちらを見ています。

「先ほども申し上げましたが、私には詳しい事情が分かりません。
 ですが何を聞かされようと、か弱い女性を護る気持ちに変わりはありません。
 何があっても姫君を御稲荷様に御連れ致しましょう」

「ありがとうございます、当麻殿。
 しかしこれからは、今までの敵に加えて、西之丸様の手勢まで襲って来るかもしてません。
 それでも護ってくださいますか」

「情けない事を申されますな。
 何時誰がどのような手段で襲って来ようとも、姫君を護り抜いてみせます。
 御安心下さい」

「ありがとうございます、当麻殿。
 私の為に命をかけてくれる事、心から有難く思います。
 失礼な事は重々承知していますが、私の為に死ぬような事があれば、残される方々が路頭に迷うような事になるのではありませんか。
 だからこれを残していく方々に御渡ししてくれませんか」

 私は手元から離さないようにしていたバックパックから、新たに田沼意次から受け取ったばかりの五百両を取り出して、当麻殿の前に置いていきました。
 最初当麻殿は、私が持っているバックパックを物珍しそうに見ておられましたが、二十個の包金を見て眉を顰められました。

「これが武士の誇りを傷つける事だとは重々承知しています。
 ですが先ほども申し上げたように、当麻殿を信じて助太刀してくれる御門弟の方々の中には、妻子がおられる方もいるのではありませんか。
 年老いた父母を残して助太刀してくださる方も、おられるのではないのですか。
 どうかその方々に渡してあげてもらえませんか」

 当麻殿が怒り出さないか、とても心配でした。
 当麻殿が返事をせずに考えられている時間が、永劫のように感じられました。

「確かに少々腹立たしく感じられましたが、姫君の申される事ももっともです。
 門弟の中には妻子がいる者もいます。
 部屋住みで、恋しい者に想いを告げられない者もおります。
 この御金があれば、万が一斬り死にする事があっても、妻子が路頭に迷う事がなくなりますし、部屋住みは家を出て所帯を持つ事もできるでしょう。
 まずは百両受け取らせていただきます。
 姫君を護りきれたら、残りを受け取らせていただきます。
 もし私が斬り死にするような事があれば、姫君が残された者に渡してください」

 当麻殿はそう言われると、包金 を四つ懐に入れられました。
 しかたなく残って四百両をバックパックに戻しました。

「姫様、駕籠と警護の用意が整いました。
 どちらの稲荷社に向かえば宜しいでしょうか」

 当麻殿と話している間に、準備ができたようです。
 久左衛門殿が小走りにやってきて、報告してくれます。

「ありがとうございます、久左衛門殿。
 江戸で一番由緒正しい御稲荷様はどこですか」

「由緒正しいと言うのなら、王子稲荷社でございます」

「ではそこまで連れて行ってください」

「承りました。
 駕籠台までおいで下さいますか」

「ええ、行きますとも。
 当麻殿、付いて来てくれますか」

「はい、どこまでも御守りさせていただきます」
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