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第14話:徳川家基

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 下城して屋敷で田沼意次に確かめたのですが、想像していた通り、田沼意次も褒美を与えられていました。
 京橋南井築地鉄砲洲に下屋敷を賜ることになったそうです。
 これは判断に困りますね。
 元々与えられる予定の屋敷だったのか、それとも新たに与えられたのか。

 田沼意次が徳川家治から、京橋南井築地鉄砲洲に下屋敷を賜った事は覚えていますが、時期までは覚えていないので、どれほどの影響があるのか判断できません。
 まあ、私の予想や判断など、役にたつかどう分かりませんけれど、何か考えたり何かやったりしていないと、じわじわと不安と恐怖を感じてしまうのです。
 だから結局、切絵図を見て江戸の地図を頭に叩き込む以外やる事がなくなります。

「神使様、蓮光院様からの御使者が参っておられます」

 徳川家治から褒美をもらった翌日、田沼親子が登城した後で、西之丸にいる蓮光院から、会って相談したい事があるので、時間の都合がつくようなら、西之丸大奥に来て欲しいという使者がやってきました。

 将軍世子の実母が使者を送って来て、会いたいと言っているのに、明日や明後日なら会いに行けますなどと言えるはずもありません。

 何時でも元の世界と行き来できるのなら、飛んで逃げるのですが、そんな事が出来るはずもなく、急いで身支度を整えて登城することになりました。
 可哀想なのはお登勢さんで、そこそこの年齢にもかかわらず、連日登城の付き添いで、駕籠脇を歩かなければいけないのです。
 申し訳ないとは思いながらも、不安と恐怖を克服することが出来ず、お登勢さんについて来なくてもいいとは言えません。

「よくぞ来てくださいました、神使様。
 勝手な願いを聞き入れてくださり、御礼の言葉もございません」

 蓮光院が深々と頭を下げてくれます。

「母上、どこにおられるのですか、母上。
 おお、ここにおられましたか、母上。
 おのれ、お前か、お前が主殿頭の手先だな。
 上様だけでなく、余や母上まで誑かさんとは不埒千万。
 この場で手討ちにしてくれる」

 最悪です。
 誘き寄せられて殺されるのでしょうか。

「なりません、なりませんよ大納言殿。
 この方は、大納言殿を救うために、この世に降臨してくださった神使様です。
 母として、この方に手出しする事は絶対に許しませんよ」

「何を申されるのです、母上。
 この者は、主殿頭が余を誑かそうとして仕立てた偽物ですぞ。
 このような者に騙されてはなりません」

「騙されているのは大納言殿の方です。
 大納言殿を罠に嵌めて殺し、将軍の座を狙う者がいるのです。
 そういう者がいる事を、まだ御分かりにならないのですか」

「何という情けない事を申されるのですか、母上。
 同じ八代様の血を受け継ぐ者を疑い、自らは賄賂を受け取りながら、上様の勝手向きを制限する主殿頭を信じるなど、正気の沙汰ではありませんぞ」

 徳川家基はまだ反抗期なのでしょうか。
 それとも潔癖症なのでしょうか。
 耳障りのよい一橋と松平定信の言葉に騙されているのでしょうか。
 どちらにしても危険ですね。
 上手く騙されて、殺されてしまうかもしれません。

「何と愚かな事を申しているのですか。
 大納言殿は今日まで何を学ばれてきたのですか。
 役方が担当する大名旗本が、民から贈り物を受け取るのは当たり前のことです。
 幕府が与える禄高や役高は、贈り物を受けとる事を前提に決められているのです」

 蓮光院が徳川家基を叱りつけています。
 それも的確な内容で叱りつけています。
 確か旗本の娘だったと思いますが、幕府の仕組みをよく知っていますね。
 それとも、徳川家基のために勉強したのでしょうか。

「そもそもそれがおかしいのです。
 そのような武士にあるまじき汚い事をやっているから、主殿頭のような下劣な奴が成り上がってしまうのです。
 私の代になったら主殿頭一味を幕閣から追放して、そのようなやり方は改めます」

 自分の身を危うくしてまで、徳川家基を助ける義理などないのですが、今田沼意次に没落されては困るのです。
 それに、下手をしたらこの場で手討ちにされてしまうかもしれません。
 今は勇気を振り絞って徳川家基を論破し、考え方を改めさせなければいけません。

「何と愚かな、とても上様の実子とは信じられませんね」

「何だと、余を不義の子だとでも申すのか。
 母上を貶すような事は断じて許さん、手討ちにしてくれる」

「畏れ多くも、東照神君が御作りになられた幕府の仕組みを罵り、八代様ですら手を付けられなかった仕組みを変えるとい言う。
 それを愚かと申さずに、何を愚かと言うのか」

「うっ、主殿頭の手先が何を申すか。
 賄賂で贅沢三昧をしている癖に、上様の勝手向きを減らすような者の手先が」

「それは誰に吹き込まれたのですか。
 私は主殿頭の屋敷で暮らしていますが、贅沢な所は見ていませんよ」

「嘘だ、そのような嘘が余に通用すると思っておるのか、愚か者め」

「ですから、一体誰がそのような嘘を大納言殿に吹き込んでいるのですか」

「そのような事は言えぬ。
 言えばその者が大納言に罰せられるではないか」

「ほう、ほう、ほう、大納言殿は陰に隠れて人の悪口を言う者の言葉を信じて、批判を恐れず表にでて、将軍家のために働いている者を罵りますか。
 よくそれで正義を語りますね。
 自分の言っている事が、醜く愚かだとまだ気がつきませんか。
 それとも気付いているのに気付いていないふりをして、私利私欲で上様の忠臣を処罰し、おのれのが欲を満たしますか。
 その方がよほど汚く醜い事だと、まだ分かりませんか、愚かな事です」

「おのれ、おのれ、おのれ。
 ゆるさん、もう絶対に許さん、そこに直れ、手討ちにしてくれる」

「自らの間違いを諫言してくれた者を、恥ずかしさを誤魔化すために手討ちにするとは、本当に上様の子供とは思えない醜さですね。
 これでは黒幕の思惑通りに、不義の子に仕立て上げられて、蓮光院殿と一緒に詰め腹を切らされるでしょうね」

「なっ、くっ、おのれ、おのれ、何を申しておる」

 だいぶ混乱してくれましたね。
 蓮光院とお登勢さんが、最悪の時には間に割って入る体勢になってくれていますし、今少し論理的に説得しましょうか。

「少し冷静になって考えて見れば分かるでしょう。
 それとも、冷静になっても正誤も分からない愚か者ですか」

「余は愚か者ではない」

「だったら私の話も聞かずに、一方的に悪人扱いするのはどういうことですか。
 一方の話だけ聞いて、もう一方の話を聞かずに処罰しようとする。
 それが愚か者でなくて誰が愚か者ですか」

「くっ、だったら話してみよ」

「では、まずは主殿頭が本当に賄賂を受け取って私腹を肥やしているのか、不意に直接屋敷に行って確かめるべきでしょう。
 その後直ぐにもう一方の屋敷に行って比べなければ、どちらが本当に私腹を肥やしているのか分かりませんよ。
 そんな事も分かりませんか」

「そこまで言うのなら、今直ぐ主殿頭の屋敷に行ってもいいと言うのだな」

「ええ、構いませんよ。
 ですが、その後直ぐに、大納言殿を唆した者の屋敷も行かなければ、比べられませんよ。
 そんな連中はとても狡賢いですから、直ぐに証拠を隠してしまいますよ」

「くっ、余を暗殺するために誘い出しているのではあるまいな」

「屋敷に着て直ぐに大納言殿が死ぬような事があれば、黒幕連中が騒いで、主殿頭は腹を切らされてしまいますよ。
 そして黒幕の子供が、上様の養嗣子となって将軍位を継ぐことになるでしょう」

「なんだと、まだ言うか、分かった、直ぐに屋敷に行こうではないか」

「いえ、その前に、大納言殿が主殿頭を嫌う他の理由も聞かせてください。
 だいたい想像はつきますが、それを聞いて説明しておかなければ、黒幕の屋敷を訪れた時に、大納言殿が毒を盛られかねません」

「なっ、徳川一門を罵るなど不遜が過ぎるぞ」

「やはり想像通りの者達のようですね。
 まだ自分の間違いが認められないですか。
 自分が死ぬか廃嫡になったら、次に誰が将軍を継ぐことになり、主殿頭を追い落として老中首座の地位になり、権力を握ることになるのか、まだ分かりませんか。
 それともわからない振りをして、自分の望む痴夢を見続けますか」

「くっ、分かった、だったら言って聞かせてやる。
 主殿頭は畏れ多くも、八代様が作られた田安家と一橋家を潰そうとして、子供達を次々と養子に出しておる。
 これが将軍家を蔑ろにしている明らかな証拠である」

「それは誰に吹き込まれたのですか」

「言えぬ」

「ではそれが大嘘だと言ったらどうしますか」

「どこが嘘だと申すか。
 事実子弟を大名家の養子に出しているではないか」

「蓮光院殿は、田安家と一橋家の若君が養子に出されている理由を知っていますか」

「はい、上様から御聞きしております」

「では愚かな息子に言って聞かせてやってください。
 私が言っても、愚か者は素直に聞き入れず、私を殺して自分の愚かな行いをなかった事にしようとするでしょうが、それが自分の首を絞めることになります。
 子の命が大切なら、何としても納得させてください」

「分かりました、神使様。
 愚かな大納言の為に貴重な御告げを頂き、感謝の言葉もございません。
 この通りでございます」

「母上!」

 蓮光院が畳に両手をついて深々と頭を下げてくれました。
 徳川家基が絶句しています。

「大納言殿、よく聞くのです。
 一橋と白河に誑かされているのでしょうが、母が真実を話して聞かせてあげます。
 これは上様から御聞かせ頂いた事ですが、八代様が将軍を継がれる時は、本家の血統が途絶えて、尾張家と天下を騒がす大変な争いになりました。
 もう二度とそのような争いが起きないように、田安家と一橋家を御作りになられましたが、これは九代様に世継ぎが生まれるまでの特別な事なのです。
 八代様は、九代様に御子が生まれない場合を恐れられていたのです。
 ですが幸いな事に、九代様には上様と清水公が御生まれになられました。
 こうなると、今度は逆に田安家と一橋家が邪魔になるのです。
 上様に多くの御子が生まれた場合に、次々と新たな家を興すわけにも参りません。
 そんな事をすれば、八代様が何とか立て直された、幕府の勝手向きがまた悪くなってしまいます。
 そこで田安家と一橋家の子供を全て養子に出して、一旦両家潰し、九代様や上様に多くの男子が生まれた場合に、田安家と一橋家を継がせることになったのです。
 八代様がそのように遺言されたのです」

「そんな、嘘です、全部主殿頭が権力を手にするために嘘をついているのです。
 上様も母上も主殿頭に騙されているのです」

「蓮光院殿、私はこれで失礼させていただきます。
 自分が騙されていた事や間違っていた事が認められず、認めるくらいなら父親や母親が自分よりも馬鹿だと言ってしまうような、孝心の欠片もないような者に、これ以上救いの手を差し伸べる気はありません。
 さっさと殺されてしまえばいいのです。
 もう二度と私が西之丸に来る事はありません。
 いえ、この城に来る事もなければ、徳川家を救う事もありません。
 お登勢さん、戻りますから案内の者を呼んでください」

「申し訳ありません、神使様。
 大納言殿には言って聞かせて、必ず詫びさせます。
 ですから、どうか、今一度挽回の機会を与えてやってください」

「それはもう無理ですね。
 主神様が定められた運命を、神使ごときが変える事などできなかったのです。
 最初から無理な話しだったのです。
 大納言は、己の愚かさに相応しい死を迎える定めなのです。
 そしてその愚かさは、徳川家を滅ぼすことになるでしょう。
 蓮光院に出来る事は、懇ろに菩提を弔う事だけです。
 誰かある、私は田沼家の屋敷に戻ります。
 直ぐに案内しなさい、誰かある」

 もうこれ以上、馬鹿の為に命の危険を冒す気はありません。
 もう二度と登城しません。
 もう十分田沼意次との約束は果たしました。
 帰ったら直ぐに稲荷社に参らせてもらいます。
 ええ、絶対に参らせてもらいます。
 何が何でも元の世界に戻って見せます。
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