幻の十一代将軍・徳川家基、死せず。長谷川平蔵、田沼意知、蝦夷へ往く。

徳川家基毒殺未遂事件

徳川家基

　家基は不安だった。
　身の回りの者が全て、田沼意次の息のかかった者で固められている。
　父・家治は田沼意次に絶大の信頼を寄せているが、家基は意次の政策批判を口にしていた。
　今回の毒殺未遂も、政策批判した家基が将軍に就任するのを嫌った意次が、保身の為に仕掛けたものだという可能性もあると家基は考えていた。
　父・家治や意次が口にしている、一橋家の陰謀である可能性が一番高いと家基も思っている。
　だがその一橋家の家老に、意次の甥がついているのだ。
　意次と一橋家が手を組んでいる可能性もあると家基は疑っていた。
　しかも意次は、家治将軍に側室を設けることを強く勧めていた。
　将軍後継順位の高い家基の弟が産まれれば、家基が狙われる可能性が低くなるというのだ。
　確かに家基の弟が産まれたら、敵は二度暗殺を成功させなければ将軍の座に就けない。
　だがそれは、意次の政策に批判的な家基を殺し、幼君を担いで幕政を思いのままにしたいという、意次の野心の表れという可能性もある。
　だが意次は家治だけではなく、家基にも世継ぎを設けるように強く勧めているのだ。
　幼君を担いで幕政を欲しい侭にするというのなら、家治の子供でも家基の子供でも構わないとは言える。
　しかし殺そうとする相手に、世継ぎを設けるように勧めるだろうかと、家基も悩んでいた。
　しかも一日でも早く家基の正室を決めようと、精力的に動いてくれてもいた。
　だがこのような意次の働きが、清廉潔白な家基には苦々しかった。
　正室を迎える準備をしているというのに、その前に奥女中に手を付けてでも世継ぎを設けろというのだ。
　今回の毒殺騒動で、数多くの男子を設けることが将軍家の務めだと、家基が痛感したのは確かだった。
　しかしだからと言って、正室の迎える手配をしながら側室を勧める意次に、家基は好感を持つことは出来ないでいた。
　確かに将軍家世子の正室を選ぶのはとても難しい。
　特に御三家や御三卿が宮家や五摂家から正室を迎えている場合は、家格を釣り合わせるためには、最低でも五摂家以上の家柄から迎える必要が出てくる。
　どうしても宮家や五摂家に年頃の娘がいない場合は、それなりの家柄の娘を、五摂家の養女にしてから正室に迎えるという手もあるが、出来れば実子の方がいいに決まっている。
　宮家と五摂家で家基と年の釣り合う姫は、閑院宮典仁親王の第二皇女・孝宮様しかおられない。
　家基の暗殺を防ぐために、一日でも早く世継ぎを設けるというのならば、幼過ぎるのも確かではあった。
　家基もその事は理解していた。
　だが理解はしていても、納得出来るのとは違うのだ。
　しかし肌の合わない意次ではあるが、長谷川平蔵を小姓に抜擢した事は、人を見る目があると家基も見直してもいた。
　また毒殺騒動の時に、町医師や蘭学医師を城にあげ、家基を助けた行動力も見直していた。
　意次が毒を盛らせておいて助けたという可能性もあるが、平蔵や蘭学医師の仕え方を見ると、家基もその疑いも低いかもしれないと思い直すこともあった。
　だがそれでも、意次を信用する事が出来ない家基だった。