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第一章
第2話:罠
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「お嬢さん、あの子が目を覚ましました!」
三日三晩眠り続けていた行き倒れが目を覚ましたという。
行き倒れが目を覚まして直ぐに知らせに来てくれたのだろう。
二十歳を過ぎて卯兵衛の名を貰った手代が少々慌てた様子で知らせにきた。
「そうですか。
それで、あの子は何と言っているのですか?」
「それが……どうやら唖のようなのです……」
言葉が話せない子供。
子供がたった1人で柄杓だけ持ってお伊勢参りをしていたのだ。
障害を持つ子供を育てきれなくなった親が、柄杓だけ持たせて伊勢に旅立たせることが時々あるのだ。
優子もその可能性は考えていた。
問題は単に話せないかだけかどうかだった。
「話せないだけかい?」
「いえ、どうやら耳も聞こえないようで……」
耳も聞こえず話す事もできなくては、御師宿で働くのは難しい。
だが、人と同じように動けるのなら、職人として働く事はできるかもしれない。
「体は普通に動けるの?」
「それはまだはっきりとしません」
「それはそうね。
卯兵衛さんは直ぐに知らせに来てくれたのだものね。
私が直接確かめるから、卯兵衛さんは仕事に戻ってちょうだい」
「はい、お嬢様」
優子は素早く身形を整えると、行き倒れが寝かされている女中部屋に向かったが、それを陰からそっと伺う者がいた。
それは母親であり御師宿の女将でもある鈴だった。
鈴は自分の娘である優子を陥れようと隙を狙っていたのだ。
一人娘の力を完全に奪う事はできなくても、評判だけでも落としたかった。
自分が伊勢で最悪の毒婦だと言われている事を逆恨みしたからだ。
娘に面罵される以前からそう噂されていたにもかかわらず。
「優子、優子、優子」
少しずつ声を大きくして娘の名を呼ぶ。
鈴は優子が確実に離れた事を確信できるまで待ったのだ。
鈴の懐には男物の褌が隠されていた。
不義密通相手の巳之助に渡してやろうと買ってあった褌だった。
それを娘の優子の部屋に隠し、自分で見つけて騒ぎ立てる。
自分に娘を逆恨みして意趣返しをしようとする。
持って生まれた性根の悪さが現れていた。
バチ!
「ひぃいいいいい」
鈴が優子の部屋の障子に手をかけたとたん、激しい音と青い光が放たれた。
普通では考えられないくらい激しい静電気が鈴を襲ったのだ。
激しい静電気を受けた鈴はその場に卒倒した。
とても亭主の物とは思えない派手な褌を手に持って。
しかも娘の部屋の前の廊下で大小便を垂れ流しにして。
★★★★★★
「目が覚めたようね。
お腹が空いているでしょう。
今重湯を持ってこさせるから、それを食べなさい」
卯兵衛の話を信じていない訳ではないが、何でも自分で確かめなければ気がすまないのが優子だった。
優しく話しかけながら、行き倒れの耳が聞こえない事を確かめていた。
行き倒れは確かに耳も聞こえないようだった。
優子が話す口元を必死で見ている。
今までそうやって人の言う事を理解しようとしていたのだろう。
「あ、う、あ、あ、う」
必死で何かを訴えようとしているが、優子には理解できない。
「無理に話さなくても大丈夫よ。
私が必ず貴女を助けてあげるわ」
行き倒れが女の子なのは初日に分かっていた。
幾らお嬢さんの指示でも埃と垢にまみれた者を客布団に寝かせる訳にはいかない。
だから女中や下女が行き倒れの体をお湯で濡らした手拭いで吹き清めた。
その時に女の子だと言う事が分かったのだ。
精も根も尽き果てた状態で行き倒れ、昏倒したまま体を拭かれる。
普通なら体力を奪われて死んでしまっていたかもしれない。
だが行き倒れた子には優子が放った式神がついていた。
体を癒す力を持った元神使の金牛が全力で死なさないようにしていた。
「あ、う、あ、あ、う」
行き倒れが必死で感謝の気持ちを伝えようとしていた。
だが、哀しいかな、言葉にする事ができない。
瞳に溜まった涙が流れて頬を伝って行く。
「お嬢さん、重湯を持ってまいりました」
「ここに置いておいてちょうだい」
「まあ、お嬢さんがお世話をされるのですか?
そのような事は私がいたします」
「いいのよ、ふじには参拝者の皆さんをもてなす仕事があるでしょう。
今暇にしているのは私とおっかさんだけよ」
優子は遠回しに母親の鈴がろくに参拝客をもてなさない事を非難していた。
同時にふじに父親の後添えに成れとけしかけていた。
「ふっふっふっふっ。
お嬢さんには敵いませんね。
ではこの子の事はお嬢さんにお任せして、宿の仕事に戻らせていただきます」
ふじは何も言質を与えずに女中部屋から出て行った。
優子もそれ以上は何も言わずに、最初は必死で身を起こしていたが、今はもうがくりと力を失い、布団に横たわっている行き倒れに話しかけた。
「大丈夫、もう大丈夫よ。
この重湯を食べたら元気になれるわ」
優子はそう言うと左腕を行き倒れの背中に沿えて抱き起した。
その姿勢のままふじが運んで来た重湯を手づから行き倒れに食べさせた。
幼い頃から多くの参拝客を見てきた優子は、行き倒れに与える食事についてもよく理解しており、急にご馳走を食べさせたりはしない。
これが参拝客なら、柔らかくなるまで煮てとても消化に好くなった、伊勢名物のうどんを食べさせるところなのだが、これから檜垣屋で働かせるかもしれない子なので、贅沢な事はせずに重湯を食べさせることにしたのだ。
優子がゆっくりと重湯を食べさせていると、行き倒れがこっくりこっくりと船をかき出してしまった。
生死の境にあった行き倒れには体力がほとんど残されていなかった。
重湯を飲むために起き上がるだけでも重労働だったのだ。
優子は無理に起こすような事はせず、そっと布団に横たわらせた。
「お嬢さん、大変です。
女将さんがお嬢さんの部屋の前で倒れておられます!」
よほど重大な事が起こったのだろう。
参拝客の対応で忙しいはずの角衛門が慌てて女中部屋までやってきた。
だが、こうなる事を予測していた優子は落ち着いたものだった。
「角衛門さん、筆頭番頭の貴男がそんなに慌ててどうするのですか?」
「ですがお嬢さん、また御師宿の恥になる事が起きてしまいました!」
「もう既に家の恥になる噂が広まってしまっています。
これ以上評判を落ちるような事はそうそうありませんよ」
「それが……とんでもない事が起きてしまいまして……」
優子は自分が想定していた以上の事が起こってしまったのかもしれないと思った。
「角衛門さんがそこまで言うのなら急いで戻りましょう」
「お願いします、お嬢さん」
優子が自分の部屋の前に戻った時、矢張りそこは想定以上の様相になっていた。
大小便を垂れ流した母親が、派手な褌を自分の身体の上に広げた状態で卒倒していたのだ。
しかもその姿を、遠巻きにした奉公人達が蔑んだ目で見ている。
優子とすれば痛し痒しの状況だった。
実の母親であろうと、檜垣屋に迷惑を掛けるような鈴は追い出したい。
だけど、これ以上檜垣屋の恥になるような事は表沙汰にはしたくなかった。
前回の鈴を面罵した醜聞は、本人達が気がついていなかっただけで、既にお伊勢様周辺の村々には広く知れ渡っていた。
いや、山田や松阪のような湊町にまで広がっていたのだ。
誤魔化すよりは、鈴と巳之助を追い詰めるのに使った方が好い状況だった。
今回の恥さらしの惨状を表に出すべきかどうか、迷う所だった。
「お爺様と父上がお留守でよかったわ。
気の弱い父上では、おっかさんに言い包められるところでした。
今の内に実家の宮後屋に返してしまいましょう。
向こうのお爺様とお婆様には私から手紙を書きます。
この汚らわしい褌は、卯兵衛さんが証拠として宮後屋さんに渡してちょうだい」
「はい、お嬢さん」
「それと角衛門さん、忙しいでしょうが、娘の私が証言しますから、本家の報告について来て下さい」
「そこまでやられるのですか、お嬢さん」
「そうしておかないと、今度何かあったら、檜垣屋が潰れてしまうかもしれません。
そんな事になったら、各地の講の皆さんに迷惑を掛けてしまいます。
お伊勢様に顔向けできなくなるような事は絶対に許されないのです」
「……承りました。
一緒に本家に行かせていただきます」
三日三晩眠り続けていた行き倒れが目を覚ましたという。
行き倒れが目を覚まして直ぐに知らせに来てくれたのだろう。
二十歳を過ぎて卯兵衛の名を貰った手代が少々慌てた様子で知らせにきた。
「そうですか。
それで、あの子は何と言っているのですか?」
「それが……どうやら唖のようなのです……」
言葉が話せない子供。
子供がたった1人で柄杓だけ持ってお伊勢参りをしていたのだ。
障害を持つ子供を育てきれなくなった親が、柄杓だけ持たせて伊勢に旅立たせることが時々あるのだ。
優子もその可能性は考えていた。
問題は単に話せないかだけかどうかだった。
「話せないだけかい?」
「いえ、どうやら耳も聞こえないようで……」
耳も聞こえず話す事もできなくては、御師宿で働くのは難しい。
だが、人と同じように動けるのなら、職人として働く事はできるかもしれない。
「体は普通に動けるの?」
「それはまだはっきりとしません」
「それはそうね。
卯兵衛さんは直ぐに知らせに来てくれたのだものね。
私が直接確かめるから、卯兵衛さんは仕事に戻ってちょうだい」
「はい、お嬢様」
優子は素早く身形を整えると、行き倒れが寝かされている女中部屋に向かったが、それを陰からそっと伺う者がいた。
それは母親であり御師宿の女将でもある鈴だった。
鈴は自分の娘である優子を陥れようと隙を狙っていたのだ。
一人娘の力を完全に奪う事はできなくても、評判だけでも落としたかった。
自分が伊勢で最悪の毒婦だと言われている事を逆恨みしたからだ。
娘に面罵される以前からそう噂されていたにもかかわらず。
「優子、優子、優子」
少しずつ声を大きくして娘の名を呼ぶ。
鈴は優子が確実に離れた事を確信できるまで待ったのだ。
鈴の懐には男物の褌が隠されていた。
不義密通相手の巳之助に渡してやろうと買ってあった褌だった。
それを娘の優子の部屋に隠し、自分で見つけて騒ぎ立てる。
自分に娘を逆恨みして意趣返しをしようとする。
持って生まれた性根の悪さが現れていた。
バチ!
「ひぃいいいいい」
鈴が優子の部屋の障子に手をかけたとたん、激しい音と青い光が放たれた。
普通では考えられないくらい激しい静電気が鈴を襲ったのだ。
激しい静電気を受けた鈴はその場に卒倒した。
とても亭主の物とは思えない派手な褌を手に持って。
しかも娘の部屋の前の廊下で大小便を垂れ流しにして。
★★★★★★
「目が覚めたようね。
お腹が空いているでしょう。
今重湯を持ってこさせるから、それを食べなさい」
卯兵衛の話を信じていない訳ではないが、何でも自分で確かめなければ気がすまないのが優子だった。
優しく話しかけながら、行き倒れの耳が聞こえない事を確かめていた。
行き倒れは確かに耳も聞こえないようだった。
優子が話す口元を必死で見ている。
今までそうやって人の言う事を理解しようとしていたのだろう。
「あ、う、あ、あ、う」
必死で何かを訴えようとしているが、優子には理解できない。
「無理に話さなくても大丈夫よ。
私が必ず貴女を助けてあげるわ」
行き倒れが女の子なのは初日に分かっていた。
幾らお嬢さんの指示でも埃と垢にまみれた者を客布団に寝かせる訳にはいかない。
だから女中や下女が行き倒れの体をお湯で濡らした手拭いで吹き清めた。
その時に女の子だと言う事が分かったのだ。
精も根も尽き果てた状態で行き倒れ、昏倒したまま体を拭かれる。
普通なら体力を奪われて死んでしまっていたかもしれない。
だが行き倒れた子には優子が放った式神がついていた。
体を癒す力を持った元神使の金牛が全力で死なさないようにしていた。
「あ、う、あ、あ、う」
行き倒れが必死で感謝の気持ちを伝えようとしていた。
だが、哀しいかな、言葉にする事ができない。
瞳に溜まった涙が流れて頬を伝って行く。
「お嬢さん、重湯を持ってまいりました」
「ここに置いておいてちょうだい」
「まあ、お嬢さんがお世話をされるのですか?
そのような事は私がいたします」
「いいのよ、ふじには参拝者の皆さんをもてなす仕事があるでしょう。
今暇にしているのは私とおっかさんだけよ」
優子は遠回しに母親の鈴がろくに参拝客をもてなさない事を非難していた。
同時にふじに父親の後添えに成れとけしかけていた。
「ふっふっふっふっ。
お嬢さんには敵いませんね。
ではこの子の事はお嬢さんにお任せして、宿の仕事に戻らせていただきます」
ふじは何も言質を与えずに女中部屋から出て行った。
優子もそれ以上は何も言わずに、最初は必死で身を起こしていたが、今はもうがくりと力を失い、布団に横たわっている行き倒れに話しかけた。
「大丈夫、もう大丈夫よ。
この重湯を食べたら元気になれるわ」
優子はそう言うと左腕を行き倒れの背中に沿えて抱き起した。
その姿勢のままふじが運んで来た重湯を手づから行き倒れに食べさせた。
幼い頃から多くの参拝客を見てきた優子は、行き倒れに与える食事についてもよく理解しており、急にご馳走を食べさせたりはしない。
これが参拝客なら、柔らかくなるまで煮てとても消化に好くなった、伊勢名物のうどんを食べさせるところなのだが、これから檜垣屋で働かせるかもしれない子なので、贅沢な事はせずに重湯を食べさせることにしたのだ。
優子がゆっくりと重湯を食べさせていると、行き倒れがこっくりこっくりと船をかき出してしまった。
生死の境にあった行き倒れには体力がほとんど残されていなかった。
重湯を飲むために起き上がるだけでも重労働だったのだ。
優子は無理に起こすような事はせず、そっと布団に横たわらせた。
「お嬢さん、大変です。
女将さんがお嬢さんの部屋の前で倒れておられます!」
よほど重大な事が起こったのだろう。
参拝客の対応で忙しいはずの角衛門が慌てて女中部屋までやってきた。
だが、こうなる事を予測していた優子は落ち着いたものだった。
「角衛門さん、筆頭番頭の貴男がそんなに慌ててどうするのですか?」
「ですがお嬢さん、また御師宿の恥になる事が起きてしまいました!」
「もう既に家の恥になる噂が広まってしまっています。
これ以上評判を落ちるような事はそうそうありませんよ」
「それが……とんでもない事が起きてしまいまして……」
優子は自分が想定していた以上の事が起こってしまったのかもしれないと思った。
「角衛門さんがそこまで言うのなら急いで戻りましょう」
「お願いします、お嬢さん」
優子が自分の部屋の前に戻った時、矢張りそこは想定以上の様相になっていた。
大小便を垂れ流した母親が、派手な褌を自分の身体の上に広げた状態で卒倒していたのだ。
しかもその姿を、遠巻きにした奉公人達が蔑んだ目で見ている。
優子とすれば痛し痒しの状況だった。
実の母親であろうと、檜垣屋に迷惑を掛けるような鈴は追い出したい。
だけど、これ以上檜垣屋の恥になるような事は表沙汰にはしたくなかった。
前回の鈴を面罵した醜聞は、本人達が気がついていなかっただけで、既にお伊勢様周辺の村々には広く知れ渡っていた。
いや、山田や松阪のような湊町にまで広がっていたのだ。
誤魔化すよりは、鈴と巳之助を追い詰めるのに使った方が好い状況だった。
今回の恥さらしの惨状を表に出すべきかどうか、迷う所だった。
「お爺様と父上がお留守でよかったわ。
気の弱い父上では、おっかさんに言い包められるところでした。
今の内に実家の宮後屋に返してしまいましょう。
向こうのお爺様とお婆様には私から手紙を書きます。
この汚らわしい褌は、卯兵衛さんが証拠として宮後屋さんに渡してちょうだい」
「はい、お嬢さん」
「それと角衛門さん、忙しいでしょうが、娘の私が証言しますから、本家の報告について来て下さい」
「そこまでやられるのですか、お嬢さん」
「そうしておかないと、今度何かあったら、檜垣屋が潰れてしまうかもしれません。
そんな事になったら、各地の講の皆さんに迷惑を掛けてしまいます。
お伊勢様に顔向けできなくなるような事は絶対に許されないのです」
「……承りました。
一緒に本家に行かせていただきます」
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