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第一章
人質と備中侵攻
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秀吉は宇喜多家の動向を注視していた。
万が一にも裏切るようなことがないか、冷徹に見極めていた。
度々の味方の裏切りで窮地に立たされた、秀吉の保身術だった。
戦国の梟雄とも言える主君を失い、幼君を擁するようになり、陣代であった宇喜多春家と宇喜多基家を失った宇喜多家に、秀吉を裏切る余裕はなかった。
毛利家を裏切った宇喜多軍は、毛利家に降伏することも出来ず、八浜城に籠城して秀吉の救援を待つしかなかった。
直家が生きていれば、ここで秀吉や信長を誘い出し、謀殺する事さえしたかもしれないが、今の宇喜多家にその様な謀臣はいなかった。
天正十年(一五八二年)三月十五日、秀吉は遂に二万の軍勢を引き連れて、姫路城から備中へ出陣した。
途中、宇喜多家の旧居城・沼城に入り、再度宇喜多家が裏切ることがないか調べさせたうえで、ようやく宇喜多軍一万と合流した。
「なあに、何も心配することはない」
「どうか、どうか、八郎の事を御頼み申します」
「任せなさい、福殿」
大胆な行動と、細心の注意が同居する秀吉は、岡山城に入って宇喜多八郎を人質とした。
幼君を人質に取り、何があっても宇喜多軍が裏切れない状況を創り出した。
その上で、毛利軍に包囲され苦境に陥っている、八浜城の救援に向かった。
「御次公、無理をすることはないですぞ」
「はい。御父上」
「与一郎は御次公の後見を致せ」
「はい。大殿」
八浜城を助けるには、常山城と麦飯山城に籠る毛利軍を破らなければならなかった。
だが兵農分離が進まず、常に大軍を最前線に派遣できない毛利軍に、三万の大軍に抗することは出来なかった。
秀吉は必勝の戦いを、養子・秀勝の初陣とした。
更に次世代の事も考え、秀勝初陣の後見人に与一郎を選んだ。
与一郎の直属軍七百兵。
将監の率いる弓百五十兵。
与右衛門の率いる鉄砲百五十兵。
三方から秀吉の大軍に攻められた常山城は、残る一方から攻めてきた秀勝軍に対処するこが出来なかった。
見事に秀勝の初陣を飾った秀吉軍は、備前の毛利方諸城を踏み潰し、四月には備中に攻め込んだ。
四月十四日、秀吉は伊予の来島村上水軍を調略して臣従させた。
これによって村上水軍は織田家と毛利家に分裂し、塩飽諸島までが織田家の制海権となった。
四月十五日、秀吉は鍛冶山城に拠点を定め、多方面に調略を使者と攻撃部隊を派遣した。
高松城を三万兵で包囲して、宇喜多軍を先方に、火の出るような勢いで、二度の総攻撃をしたが、頑強な抵抗を受けて撃退されてしまった。
だが秀吉の勢いを恐れた備中勢の中には、秀吉に寝返る者が出てきた。
勿論これは、秀吉と長秀の兄弟による、丁寧な調略の結果であり。
早々に寝返った播磨や但馬の国衆が、重く賞されているからでもある。
事もあろうに毛利元就の娘婿である上原元祐が、羽柴方に寝返ったのだ。
しかもそれだけに留まらず、
日幡城主の日幡六郎兵衛景親にまで寝返りを勧めたのだ。
清廉潔白な六郎兵衛は寝返りの誘いを断ったのだが、城主の座に眼が眩んだ弟と、命を惜しんだ家臣に殺されてしまった。
宮地山城を守る乃美元信達には、峰須賀正勝と黒田官兵衛が何度も降伏を呼びかけたが、元信達の小早川隆景への忠義は揺らがず、矢倉と狭間から弓と鉄砲を撃ち放ち、頑強に抵抗した。
四月十七日、秀吉軍の宇喜多忠家は、林重真の守る冠山城に攻めかかった。
その攻撃は猛攻と言えるモノだったが、重真は獅子奮迅の戦いを繰り広げ、数百の宇喜多兵を討ち取った。
その活躍を見た秀吉は、重真に備中半国を条件に降伏臣従を申し出たが、武人として精一杯戦って敵わなければ切腹すると言って、秀吉の申し出を断ってきた。
宇喜多軍だけでは勝てないと判断した秀吉は、勇将・加藤清正を先駆けとして投入した。
清正の猛攻に防ぎきれないと判断した重真は、家臣を城から逃がして切腹した。
だが家臣達は降伏せず、百三十九人全てが自刃または戦死した。
享年五十一歳、四月二十五日の事だった。
秀吉の大軍を、少数の兵で八日間防いだのだ。
庭瀬城主の井上有景は、孤立した場所に位置していたため、吉川元春と小早川隆景に撤退するように命じられていたが、武士の意地を見せるべく、八百兵を率いて籠城した。
しかし大軍に抗することが出来ずに敗北した。
冠山城の落城を知った宮地山城では、出丸の船木藤左衛門尉が、宇喜多家の信原内蔵允の調略に応じ、城内で話し合った結果、五月二日に降伏開城した。
事ここに至って、加茂城からも裏切り者が出た。
東ノ丸を守っていた生石中務少輔は秀吉の調略に応じ、宇喜多勢を東ノ丸に引き入れ、本丸と西ノ丸の乗っ取りを図るも、忠臣・廣重の頑強な抵抗を受けて失敗した。
「備中境目七城」
宮地山城:本丸は乃美元信・出丸は船木藤左衛門尉、乃美樹興
冠山城:林重真
備中高松城:清水宗治
加茂城:本丸は桂廣重・西ノ丸は上山元忠・東ノ丸には生石中務少輔
日幡城:日幡六郎兵衛景親
庭瀬城:井上有景
松島城:梨羽高秋
どれほど秀吉軍が備中の諸城を攻撃しても、毛利軍は決戦をしようとしなかった。
備中の国衆が必死で籠城するのを、督戦するだけだった。
いよいよ秀吉は、高松城を本気で落とすことにした。
万が一にも裏切るようなことがないか、冷徹に見極めていた。
度々の味方の裏切りで窮地に立たされた、秀吉の保身術だった。
戦国の梟雄とも言える主君を失い、幼君を擁するようになり、陣代であった宇喜多春家と宇喜多基家を失った宇喜多家に、秀吉を裏切る余裕はなかった。
毛利家を裏切った宇喜多軍は、毛利家に降伏することも出来ず、八浜城に籠城して秀吉の救援を待つしかなかった。
直家が生きていれば、ここで秀吉や信長を誘い出し、謀殺する事さえしたかもしれないが、今の宇喜多家にその様な謀臣はいなかった。
天正十年(一五八二年)三月十五日、秀吉は遂に二万の軍勢を引き連れて、姫路城から備中へ出陣した。
途中、宇喜多家の旧居城・沼城に入り、再度宇喜多家が裏切ることがないか調べさせたうえで、ようやく宇喜多軍一万と合流した。
「なあに、何も心配することはない」
「どうか、どうか、八郎の事を御頼み申します」
「任せなさい、福殿」
大胆な行動と、細心の注意が同居する秀吉は、岡山城に入って宇喜多八郎を人質とした。
幼君を人質に取り、何があっても宇喜多軍が裏切れない状況を創り出した。
その上で、毛利軍に包囲され苦境に陥っている、八浜城の救援に向かった。
「御次公、無理をすることはないですぞ」
「はい。御父上」
「与一郎は御次公の後見を致せ」
「はい。大殿」
八浜城を助けるには、常山城と麦飯山城に籠る毛利軍を破らなければならなかった。
だが兵農分離が進まず、常に大軍を最前線に派遣できない毛利軍に、三万の大軍に抗することは出来なかった。
秀吉は必勝の戦いを、養子・秀勝の初陣とした。
更に次世代の事も考え、秀勝初陣の後見人に与一郎を選んだ。
与一郎の直属軍七百兵。
将監の率いる弓百五十兵。
与右衛門の率いる鉄砲百五十兵。
三方から秀吉の大軍に攻められた常山城は、残る一方から攻めてきた秀勝軍に対処するこが出来なかった。
見事に秀勝の初陣を飾った秀吉軍は、備前の毛利方諸城を踏み潰し、四月には備中に攻め込んだ。
四月十四日、秀吉は伊予の来島村上水軍を調略して臣従させた。
これによって村上水軍は織田家と毛利家に分裂し、塩飽諸島までが織田家の制海権となった。
四月十五日、秀吉は鍛冶山城に拠点を定め、多方面に調略を使者と攻撃部隊を派遣した。
高松城を三万兵で包囲して、宇喜多軍を先方に、火の出るような勢いで、二度の総攻撃をしたが、頑強な抵抗を受けて撃退されてしまった。
だが秀吉の勢いを恐れた備中勢の中には、秀吉に寝返る者が出てきた。
勿論これは、秀吉と長秀の兄弟による、丁寧な調略の結果であり。
早々に寝返った播磨や但馬の国衆が、重く賞されているからでもある。
事もあろうに毛利元就の娘婿である上原元祐が、羽柴方に寝返ったのだ。
しかもそれだけに留まらず、
日幡城主の日幡六郎兵衛景親にまで寝返りを勧めたのだ。
清廉潔白な六郎兵衛は寝返りの誘いを断ったのだが、城主の座に眼が眩んだ弟と、命を惜しんだ家臣に殺されてしまった。
宮地山城を守る乃美元信達には、峰須賀正勝と黒田官兵衛が何度も降伏を呼びかけたが、元信達の小早川隆景への忠義は揺らがず、矢倉と狭間から弓と鉄砲を撃ち放ち、頑強に抵抗した。
四月十七日、秀吉軍の宇喜多忠家は、林重真の守る冠山城に攻めかかった。
その攻撃は猛攻と言えるモノだったが、重真は獅子奮迅の戦いを繰り広げ、数百の宇喜多兵を討ち取った。
その活躍を見た秀吉は、重真に備中半国を条件に降伏臣従を申し出たが、武人として精一杯戦って敵わなければ切腹すると言って、秀吉の申し出を断ってきた。
宇喜多軍だけでは勝てないと判断した秀吉は、勇将・加藤清正を先駆けとして投入した。
清正の猛攻に防ぎきれないと判断した重真は、家臣を城から逃がして切腹した。
だが家臣達は降伏せず、百三十九人全てが自刃または戦死した。
享年五十一歳、四月二十五日の事だった。
秀吉の大軍を、少数の兵で八日間防いだのだ。
庭瀬城主の井上有景は、孤立した場所に位置していたため、吉川元春と小早川隆景に撤退するように命じられていたが、武士の意地を見せるべく、八百兵を率いて籠城した。
しかし大軍に抗することが出来ずに敗北した。
冠山城の落城を知った宮地山城では、出丸の船木藤左衛門尉が、宇喜多家の信原内蔵允の調略に応じ、城内で話し合った結果、五月二日に降伏開城した。
事ここに至って、加茂城からも裏切り者が出た。
東ノ丸を守っていた生石中務少輔は秀吉の調略に応じ、宇喜多勢を東ノ丸に引き入れ、本丸と西ノ丸の乗っ取りを図るも、忠臣・廣重の頑強な抵抗を受けて失敗した。
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冠山城:林重真
備中高松城:清水宗治
加茂城:本丸は桂廣重・西ノ丸は上山元忠・東ノ丸には生石中務少輔
日幡城:日幡六郎兵衛景親
庭瀬城:井上有景
松島城:梨羽高秋
どれほど秀吉軍が備中の諸城を攻撃しても、毛利軍は決戦をしようとしなかった。
備中の国衆が必死で籠城するのを、督戦するだけだった。
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