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武田義信
譲位の儀・即位の儀・朝敵
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7月『譲位の儀・即位の儀』
全国の大名・国衆の当主または代理が御所に集まった。今の勢力図で鷹司(武田)・足利(三好)・大内(一条)が合意し盛り立てる皇室行事を欠席できる者はいなかった。当主が病弱や暗殺を恐れている者だけが名代を出した。
当然誰もが手ぶらと言う訳にはいかず、銭を掻き集めてやってきた。もし完全無視をしたら朝敵の汚名を着せられ、討伐の対象にされかねない。鷹司・武田を含めて全国の大名・国衆で1万貫文の切手札(観覧券のようなもの)を販売した。同時に堺・博多・近江・公界の商人と庶民からも切手札販売で1万貫文を集め、皇室・朝廷の臨時収入とした。これが前例となり、次代の儀式が皇室・朝廷が独自でやれるようになれば義信の思惑通りだ。
鷹司・武田は御所の警備に総計5万兵を投入した。本来は2万兵の予定だったのだが、支配下の国衆・地侍、特に甲斐譜代衆からの参加希望が強くあったのだ。甲斐譜代衆からすれば、武田家が帝・朝廷を支えたから出来る一代一度の大行事である、自分達が警護に参加するのは当然だと言う思いがある。鷹司支配下で近衛府出仕の国衆・地侍も同じで、近衛府武士団に所属しているのだから、御所の警備に参加するのは当然だと言う思いがある。
本当は綺麗に着色した具足を兵に装備させ、儀式に花を添えるはずだったが、流石に5万兵分の着色具足は無かった。仕方なく皇室・朝廷と相談して馬揃え(閲兵式)を行事に追加して貰って、2万の着色具足を皆で使い回して、交代で晴れの儀式に参加することになった。それなりの地侍でも足軽の具足になるが、皆満足していた。特に希望参加して兵の先頭に立った公家衆は歓天喜地の有様だった。
鷹司が儀式用に揃えた着色具足は、上級大将用の紫を別格として、北条家の五色備・冠位十二階・七色十三階冠を参考に、黄・赤・青・白・黒・緑で揃えた6つの軍団で、それを新たな御所の護りとして創り出した。そしてそれは近衛府出仕の国衆・地侍の見栄を著しく刺激し、自弁で着色武具を揃えるようになった。鷹司家としても持ち出し無しで着色武具を揃えられるのは助かるが、色が混ざった軍は見苦しいので、国元で待機している国衆・地侍の参加軍団も予め決めておかないといけなくなった。
滞りなく譲位の儀・即位の儀・馬揃えが終わり、鷹司は3万兵を国元に帰そうとしたのだが、国元が安定している国衆・地侍が御所残留を希望した。これを無制限に認めれば御所の護りを考えた部隊編成に支障がでる、鉄砲・弓・槍などの部隊配分は大切なのだ。そこで皇室・朝廷・鷹司・足利(三好)・大内(一条)は相談し、1万だった御所常駐兵を6色1万2000兵とし、北近江の鷹司勢力圏に交代部隊を常駐させ毎月2000兵が入れ替わるようにした。
7月『美濃・岐阜城・鷹司義信・織田信長・真田幸隆・黒影』
「将軍家と河越公方・関東管領が接触しておりました。」
黒影の言葉に皆が緊張する。
「何時だ?」
「早くて12月、おそらく1月に動く心算であろう。朝敵の使者が来るまでに北条は攻め滅ぼしたいだろうからな。」
幸隆は信長の言葉を理解できたが、部屋にいた多く者たちは、信長が将軍家・河越公方・関東管領が何時接触したのかを聞いたのだと思っていただろう。信長はそんな無駄な質問はしない、接触したなら何時どういう動きを3者がするかの質問をする。本当に馬鹿とは付き合えない奴だ。
流石に三好長慶は油断ならない、恐らく裏で長慶・実休が動いている。俺達が関東東国を討伐する前に、北条に養嗣子を送り込むと言う情報に対応したのだろう。
北条氏康は馬鹿ではない、皇室・朝廷から詰問使が来た時点で、何の手も打たなければ朝敵として滅ぼされると悟ったのだ。家名と血脈を残すために武田家から養嗣子を迎えたいと、皇室・朝廷・俺・御屋形様に打診してきた。俺と御屋形様だけに来たものなら握りつぶす判断もあっのだが、皇室・朝廷は早期の天下平安達成と俺への好意で受けてしまっていた。特に後奈良上皇は、戦無く関東が鷹司の下で平安になると、有頂天外のありさまで話を勧めようとなされた。これには俺も御屋形様も苦笑するしかなく、氏康にしてやられた思いを隠しながら御受けし、武田信顕が北条家の当主となり北条信顕と成る予定なのだ。
氏康は領民に害をなす河越公方・関東管領の兵を仕方なく討伐したとは言え、皇室・朝廷の矢止めの勅命に違反した事は申し訳なく、五摂家・鷹司の縁者を養嗣子に迎える事で御詫びし、幾久しく皇室・朝廷に御奉公したいと、皇室・公家衆が喜ぶ言上をしてきた。
これに対して勅命を先に破って、罪無き領民を襲った河越公方・関東管領が御咎め無しになる訳が無い。焦った両者は皇室・朝廷に働きかけるも親鷹司の皇室・朝廷は相手にしない、寧ろ早期に鷹司に平定してもらい、奪われた荘園や家職銭上納を正常化して欲しいと望んでいる、当然だろう今まで鷹司が平定した国は正常化しているのだから。
追い詰められた河越公方・関東管領は将軍・足利義冬と三好長慶を頼ったのだろう。義冬は将軍家による天下を夢見ているし、長慶は関東東国を制圧した後で鷹司が畿内を攻めるだろうと考え、河越公方・関東管領に時間稼ぎと鷹司の戦力を削る事を望んでいるはずだ。
「どう動いた?」
「全てを知る事は出来ませんが、堺を通じて鉄砲と玉薬が買えるように仲介しております。」
黒影も信長の唐突な質問を理解してて答えることができている。
「まあそうだろう、今具体的な敵対行動など犯せば朝敵の汚名を着る。だからと言って我らの兵を分断する為に御所警備の兵数増大を認めれば、己の首を絞めることになる。それに身銭を切っての支援などしたら、将軍家も三好も自分達の軍勢を整えられなくなる。」
幸隆の言う通りだろう、義冬も長慶もぎりぎりの選択だ。伊那・諏訪の大鉄砲生産地に続いて近江国友村の鉄砲生産地が鷹司の支配下に入ったのだ。無償で鉄砲や玉薬の支援などできない、何かとんでもない代価を得ていれば別だが。
俺の導入した鉄砲鍛冶増員計画は順調に推移している。農具等を作る野鍛冶に弟子を送り込み初期教育をさせる。優秀な野鍛冶で希望する者を刀鍛冶にし、初期修行を終えた弟子を数打ちの刀鍛冶の弟子にする。数打ち刀鍛冶の中級教育を終えた弟子を鉄砲鍛冶の弟子にする。その御蔭で大量の鉄砲を自給自足できるようになった。
「今後も動きを探れ、特に一向衆の動きに気を付けろ、動くとしたら奴らだ。後は粛々と討伐の準備を整えろ。」
「承りました。」
12月『美濃・岐阜城・鷹司義信・織田信長・真田幸隆』
大嘗祭(だいじょうさい)の儀式が着々と行われる中で俺は軍勢を整えていった。来春に正式配備するはずだった者達を各地の駐屯軍に回し、歴戦の戦士を最前線に配備した。関東方面に配備した飛影の軍団には戦闘準備を命じた。上総の八柏道為の軍団は増強し総大将・滝川一益と総副将・狗賓善狼を送り、八柏道為は軍師大将とした。
大嘗祭の全ての行事が終わって、後奈良上皇から矢止め違反の河越公方・関東管領討伐の院綸旨(いんりんじ)が送られてきた。
皇室・朝廷・俺・御屋形様は色々と対応策を協議する中で、今上帝と朝廷が戦に係るリスクを減らす努力をした。俺に負ける気は毛頭無いが、この世の中に絶対は無い、俺が負けた所為で今上帝が危地に陥るなどあってはならない。そこで矢止めの勅旨を出されて譲位された、後奈良上皇からの院綸旨と言う形で討伐令を出してもらった。
最低でも公式文書としなければならないが、後奈良上皇の御負担にならないように出来る限り軽いものにしたい。そこで院政で出せる一番軽い公式文書の院綸旨での討伐令となった。同時に河越公方・関東管領・佐竹義昭・関東軍諸将への城地没収・半知扶持化・鎮守府出仕の院綸旨も発して頂いた。
今上帝のみが太政官符を添付して発する公文書の勅旨
勅旨を簡略化し印璽なき文章の宣旨
更に簡略し蔵人だけで天皇の意を受けて発給する文書の綸旨
公式とは言えない私信、女房奉書・御沙汰書
12月『各地の状況』
討伐令を受けて最初に動いたのは武田軍だった。雪が降る前に峠を越えて上野・武蔵の武田方国衆の城に詰めていた、甲斐・信濃の武田譜代衆が関東軍を挑発した。同時期に相模・伊豆の北条家城砦に駐屯していた飛影軍団も挑発行動を開始した。
関東諸将の結束は完全に崩壊していた。元々北条憎しと私利私欲で集まった者達だ。しかも御所での儀式観覧と上洛往復旅程で見た鷹司軍の威勢は身に染みている。朝敵の汚名を着てまで必敗の関東公方・関東管領に味方する者は少なかった。
ここで小笠原長時・神田将監がいればまだ抵抗の術もあったのだろうが、2人と小笠原騎馬の幹部達は即位の儀で上洛した時に足利義冬・三好長慶の勧誘説得を受けて幕府・評定衆兼侍所別当として畿内に残っていた。
小笠原長時・神田将監の2人も歴戦の勇者であり、戦場往来の古強者である。矢止めの勅旨違反後の関東軍必敗を理解していた。小笠原騎馬を編成した武士の中で、長時に忠誠を誓い領地を持たない者は、矢止めの間に関東を離れて摂津に居を移した長時の下に参集した。領地を持ち目端の利く者は鷹司義信・武田晴信に降伏臣従の密使を送ったり、御所での儀式で上洛・往復路の間に義信・晴信との謁見を求めてきた。
武田譜代衆は、鷹司軍が合戦で鹵獲した小筒・中筒を買い取って全員が装備していた。御所での馬揃えに参加し、若殿が訓練した兵達に劣る事を自覚し恐怖した、このままでは次代の武田家(鷹司家)で取り残される事に漸く全員が気付いたのだ。今迄も志願援軍として前線に参加して分かってはいたのだが、認める事が出来なかったのだ。
この状態でも河越公方・関東管領・佐竹義昭の忠誠を誓う者はいる。旧小笠原騎馬隊の残存戦力を再編成して迎撃をしようとした。しかしここで風魔忍者が生き残りをかけて動いた。厩を襲って馬を盗み逃がしたのだ、馬を毒殺するだけでは相手の戦力を削ぐだけだが、盗み取る事が出来たら味方の戦力を増強する事が出来る。
武田譜代衆8000兵・飛影軍団2万1000兵に加えて、降伏臣従した関東の国衆・地侍が続々と集まった。そこに一益軍団1万6000騎・1万7000兵が上総から下総に侵攻した。もはや関東東国に鷹司軍に抵抗出来る勢力など存在しなかった。
全国の大名・国衆の当主または代理が御所に集まった。今の勢力図で鷹司(武田)・足利(三好)・大内(一条)が合意し盛り立てる皇室行事を欠席できる者はいなかった。当主が病弱や暗殺を恐れている者だけが名代を出した。
当然誰もが手ぶらと言う訳にはいかず、銭を掻き集めてやってきた。もし完全無視をしたら朝敵の汚名を着せられ、討伐の対象にされかねない。鷹司・武田を含めて全国の大名・国衆で1万貫文の切手札(観覧券のようなもの)を販売した。同時に堺・博多・近江・公界の商人と庶民からも切手札販売で1万貫文を集め、皇室・朝廷の臨時収入とした。これが前例となり、次代の儀式が皇室・朝廷が独自でやれるようになれば義信の思惑通りだ。
鷹司・武田は御所の警備に総計5万兵を投入した。本来は2万兵の予定だったのだが、支配下の国衆・地侍、特に甲斐譜代衆からの参加希望が強くあったのだ。甲斐譜代衆からすれば、武田家が帝・朝廷を支えたから出来る一代一度の大行事である、自分達が警護に参加するのは当然だと言う思いがある。鷹司支配下で近衛府出仕の国衆・地侍も同じで、近衛府武士団に所属しているのだから、御所の警備に参加するのは当然だと言う思いがある。
本当は綺麗に着色した具足を兵に装備させ、儀式に花を添えるはずだったが、流石に5万兵分の着色具足は無かった。仕方なく皇室・朝廷と相談して馬揃え(閲兵式)を行事に追加して貰って、2万の着色具足を皆で使い回して、交代で晴れの儀式に参加することになった。それなりの地侍でも足軽の具足になるが、皆満足していた。特に希望参加して兵の先頭に立った公家衆は歓天喜地の有様だった。
鷹司が儀式用に揃えた着色具足は、上級大将用の紫を別格として、北条家の五色備・冠位十二階・七色十三階冠を参考に、黄・赤・青・白・黒・緑で揃えた6つの軍団で、それを新たな御所の護りとして創り出した。そしてそれは近衛府出仕の国衆・地侍の見栄を著しく刺激し、自弁で着色武具を揃えるようになった。鷹司家としても持ち出し無しで着色武具を揃えられるのは助かるが、色が混ざった軍は見苦しいので、国元で待機している国衆・地侍の参加軍団も予め決めておかないといけなくなった。
滞りなく譲位の儀・即位の儀・馬揃えが終わり、鷹司は3万兵を国元に帰そうとしたのだが、国元が安定している国衆・地侍が御所残留を希望した。これを無制限に認めれば御所の護りを考えた部隊編成に支障がでる、鉄砲・弓・槍などの部隊配分は大切なのだ。そこで皇室・朝廷・鷹司・足利(三好)・大内(一条)は相談し、1万だった御所常駐兵を6色1万2000兵とし、北近江の鷹司勢力圏に交代部隊を常駐させ毎月2000兵が入れ替わるようにした。
7月『美濃・岐阜城・鷹司義信・織田信長・真田幸隆・黒影』
「将軍家と河越公方・関東管領が接触しておりました。」
黒影の言葉に皆が緊張する。
「何時だ?」
「早くて12月、おそらく1月に動く心算であろう。朝敵の使者が来るまでに北条は攻め滅ぼしたいだろうからな。」
幸隆は信長の言葉を理解できたが、部屋にいた多く者たちは、信長が将軍家・河越公方・関東管領が何時接触したのかを聞いたのだと思っていただろう。信長はそんな無駄な質問はしない、接触したなら何時どういう動きを3者がするかの質問をする。本当に馬鹿とは付き合えない奴だ。
流石に三好長慶は油断ならない、恐らく裏で長慶・実休が動いている。俺達が関東東国を討伐する前に、北条に養嗣子を送り込むと言う情報に対応したのだろう。
北条氏康は馬鹿ではない、皇室・朝廷から詰問使が来た時点で、何の手も打たなければ朝敵として滅ぼされると悟ったのだ。家名と血脈を残すために武田家から養嗣子を迎えたいと、皇室・朝廷・俺・御屋形様に打診してきた。俺と御屋形様だけに来たものなら握りつぶす判断もあっのだが、皇室・朝廷は早期の天下平安達成と俺への好意で受けてしまっていた。特に後奈良上皇は、戦無く関東が鷹司の下で平安になると、有頂天外のありさまで話を勧めようとなされた。これには俺も御屋形様も苦笑するしかなく、氏康にしてやられた思いを隠しながら御受けし、武田信顕が北条家の当主となり北条信顕と成る予定なのだ。
氏康は領民に害をなす河越公方・関東管領の兵を仕方なく討伐したとは言え、皇室・朝廷の矢止めの勅命に違反した事は申し訳なく、五摂家・鷹司の縁者を養嗣子に迎える事で御詫びし、幾久しく皇室・朝廷に御奉公したいと、皇室・公家衆が喜ぶ言上をしてきた。
これに対して勅命を先に破って、罪無き領民を襲った河越公方・関東管領が御咎め無しになる訳が無い。焦った両者は皇室・朝廷に働きかけるも親鷹司の皇室・朝廷は相手にしない、寧ろ早期に鷹司に平定してもらい、奪われた荘園や家職銭上納を正常化して欲しいと望んでいる、当然だろう今まで鷹司が平定した国は正常化しているのだから。
追い詰められた河越公方・関東管領は将軍・足利義冬と三好長慶を頼ったのだろう。義冬は将軍家による天下を夢見ているし、長慶は関東東国を制圧した後で鷹司が畿内を攻めるだろうと考え、河越公方・関東管領に時間稼ぎと鷹司の戦力を削る事を望んでいるはずだ。
「どう動いた?」
「全てを知る事は出来ませんが、堺を通じて鉄砲と玉薬が買えるように仲介しております。」
黒影も信長の唐突な質問を理解してて答えることができている。
「まあそうだろう、今具体的な敵対行動など犯せば朝敵の汚名を着る。だからと言って我らの兵を分断する為に御所警備の兵数増大を認めれば、己の首を絞めることになる。それに身銭を切っての支援などしたら、将軍家も三好も自分達の軍勢を整えられなくなる。」
幸隆の言う通りだろう、義冬も長慶もぎりぎりの選択だ。伊那・諏訪の大鉄砲生産地に続いて近江国友村の鉄砲生産地が鷹司の支配下に入ったのだ。無償で鉄砲や玉薬の支援などできない、何かとんでもない代価を得ていれば別だが。
俺の導入した鉄砲鍛冶増員計画は順調に推移している。農具等を作る野鍛冶に弟子を送り込み初期教育をさせる。優秀な野鍛冶で希望する者を刀鍛冶にし、初期修行を終えた弟子を数打ちの刀鍛冶の弟子にする。数打ち刀鍛冶の中級教育を終えた弟子を鉄砲鍛冶の弟子にする。その御蔭で大量の鉄砲を自給自足できるようになった。
「今後も動きを探れ、特に一向衆の動きに気を付けろ、動くとしたら奴らだ。後は粛々と討伐の準備を整えろ。」
「承りました。」
12月『美濃・岐阜城・鷹司義信・織田信長・真田幸隆』
大嘗祭(だいじょうさい)の儀式が着々と行われる中で俺は軍勢を整えていった。来春に正式配備するはずだった者達を各地の駐屯軍に回し、歴戦の戦士を最前線に配備した。関東方面に配備した飛影の軍団には戦闘準備を命じた。上総の八柏道為の軍団は増強し総大将・滝川一益と総副将・狗賓善狼を送り、八柏道為は軍師大将とした。
大嘗祭の全ての行事が終わって、後奈良上皇から矢止め違反の河越公方・関東管領討伐の院綸旨(いんりんじ)が送られてきた。
皇室・朝廷・俺・御屋形様は色々と対応策を協議する中で、今上帝と朝廷が戦に係るリスクを減らす努力をした。俺に負ける気は毛頭無いが、この世の中に絶対は無い、俺が負けた所為で今上帝が危地に陥るなどあってはならない。そこで矢止めの勅旨を出されて譲位された、後奈良上皇からの院綸旨と言う形で討伐令を出してもらった。
最低でも公式文書としなければならないが、後奈良上皇の御負担にならないように出来る限り軽いものにしたい。そこで院政で出せる一番軽い公式文書の院綸旨での討伐令となった。同時に河越公方・関東管領・佐竹義昭・関東軍諸将への城地没収・半知扶持化・鎮守府出仕の院綸旨も発して頂いた。
今上帝のみが太政官符を添付して発する公文書の勅旨
勅旨を簡略化し印璽なき文章の宣旨
更に簡略し蔵人だけで天皇の意を受けて発給する文書の綸旨
公式とは言えない私信、女房奉書・御沙汰書
12月『各地の状況』
討伐令を受けて最初に動いたのは武田軍だった。雪が降る前に峠を越えて上野・武蔵の武田方国衆の城に詰めていた、甲斐・信濃の武田譜代衆が関東軍を挑発した。同時期に相模・伊豆の北条家城砦に駐屯していた飛影軍団も挑発行動を開始した。
関東諸将の結束は完全に崩壊していた。元々北条憎しと私利私欲で集まった者達だ。しかも御所での儀式観覧と上洛往復旅程で見た鷹司軍の威勢は身に染みている。朝敵の汚名を着てまで必敗の関東公方・関東管領に味方する者は少なかった。
ここで小笠原長時・神田将監がいればまだ抵抗の術もあったのだろうが、2人と小笠原騎馬の幹部達は即位の儀で上洛した時に足利義冬・三好長慶の勧誘説得を受けて幕府・評定衆兼侍所別当として畿内に残っていた。
小笠原長時・神田将監の2人も歴戦の勇者であり、戦場往来の古強者である。矢止めの勅旨違反後の関東軍必敗を理解していた。小笠原騎馬を編成した武士の中で、長時に忠誠を誓い領地を持たない者は、矢止めの間に関東を離れて摂津に居を移した長時の下に参集した。領地を持ち目端の利く者は鷹司義信・武田晴信に降伏臣従の密使を送ったり、御所での儀式で上洛・往復路の間に義信・晴信との謁見を求めてきた。
武田譜代衆は、鷹司軍が合戦で鹵獲した小筒・中筒を買い取って全員が装備していた。御所での馬揃えに参加し、若殿が訓練した兵達に劣る事を自覚し恐怖した、このままでは次代の武田家(鷹司家)で取り残される事に漸く全員が気付いたのだ。今迄も志願援軍として前線に参加して分かってはいたのだが、認める事が出来なかったのだ。
この状態でも河越公方・関東管領・佐竹義昭の忠誠を誓う者はいる。旧小笠原騎馬隊の残存戦力を再編成して迎撃をしようとした。しかしここで風魔忍者が生き残りをかけて動いた。厩を襲って馬を盗み逃がしたのだ、馬を毒殺するだけでは相手の戦力を削ぐだけだが、盗み取る事が出来たら味方の戦力を増強する事が出来る。
武田譜代衆8000兵・飛影軍団2万1000兵に加えて、降伏臣従した関東の国衆・地侍が続々と集まった。そこに一益軍団1万6000騎・1万7000兵が上総から下総に侵攻した。もはや関東東国に鷹司軍に抵抗出来る勢力など存在しなかった。
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