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武田義信

春 天文13年(1544年)7歳

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 『躑躅ヶ崎館 二郎の部屋』

 「二郎は起きておるか?」
 近習4人と共に弟の部屋を訪れた俺は、部屋の外で警護をしていた女中に小声で聞いてみた。

 「はい、まだ起きておられます。」

 「あにうえ!」
 二郎が部屋から飛び出してきた。

 「あ~~~~飴だ!」

 「お土産だよ。」
 俺は粥に麦芽を加えて一晩寝かせ、煮詰めて作った水飴を入れた小鍋を渡した。

 「あにうえ、ありがとうございます。」

 「乳母よ、二郎は機嫌好く過ごしておるか?」
 俺は二郎の健康を、一番近くで世話をしている乳母に確認してみる。

 「二郎様はいつも機嫌好く過ごされておられます」

 俺は二郎の方に向き直り話しかけた。
 「二郎、身体に異変が有れば直ぐに俺に言うのだぞ。」

 「はい、あにうえ。」

 「乳母も頼み置くぞ。」

 「はい、何か有れば直ぐにお知らせに参ります。」

 「これは皆で食べてくれ。」
 近習から水飴の入った大鍋を受け取り、乳母に渡して部屋を出ようとした。

 「あにうえ、いかないでください」
 遊んで欲しそうな二郎の顔を見ると心が痛む、三郎が産まれた母と別れさせられたのだ、乳母たちに世話をしてもらっていても寂しのだろう。

 「また来るよ、今日は遅い、飴を食べたら寝なさい」

「 はい。。。。。あにうえ。。。」


『躑躅ヶ崎館 三条夫人の部屋』

 「オギャ~~~~、オギャ~~~~~、オギャ~~~~~~。」
 三郎だろう、力強い泣き声が聞こえる。

  「母上は健やかになされておられるか?」
 今度も部屋の前で警護をしている女中に小声で聞いてみる。

 「はい、三郎様の御世話で御疲れですが、病などの心配はございません。」

 「そうか、ならば好い。俺が訪ねても問題無いか?」

 「お尋ねいたしてきます。」

 女中は障子の外から声を掛けてくれた。
 「三条の御方様、太郎善信様がお訪ねでございます。入って頂いて宜しゅうございますか?」

 「何! 太郎が来てくれたのか。直ぐ入って貰っておくれ。」

 嬉しそうな母の声を聴くと、俺も愛されているのだと実感できる。前世の記憶が有る所為で、実母とは思い難いが、それでも訪ねる度に心から嬉しそうにしてもらえると、徐々に愛情が積み重なってくる。

 「母上お土産です」
 今度は俺自身が持ち込んだ、大鍋一杯の水飴を女中に渡す。

 「まあ、まあ、まあ、水飴ですか? 太郎が手ずから作ってくれたのですか! 奥の者は皆大好きで、太郎が作ってくれるのを心待ちにしているのですよ。」

 「母上の為なら、何時でも喜んで作らさせていただきますよ。ところで産後の肥立ちは如何ですか?」
 
 「太郎が日々差し入れてくれる、牛の乳や蘇、猪や鹿の味噌漬け、鯉の餡かけの御蔭で、太郎や二郎の時より随分楽です。」

 「それは何よりです、おかしいと思われたら何でもお話しください、薬を調合いたします。」

 「まあ、ありがとう。大丈夫よ、それより太郎が持って来てくれた水飴を一緒に食べたいわ。」

 「有り難い御言葉なのですが、これから御屋形様の相談したいことが有るのです。」

 「そうなの、残念だわ、今度はいつ来てくれるの?」

 「御屋形様との話次第ですので、約束できないのです。」

「そう。。。。余り間をおかず来てね。」

 「はい母上」
 俺は少し申し訳ない気持ちになりながらも、心を引き締めて部屋を辞した。


 『躑躅ヶ崎館 信玄私室』

 「御屋形様、新しい料理が出来ましたので、試食していただけますか?」

 「わざわざ料理の為に夜分に来たのか?」

 「この料理が普及すれば、甲斐の兵糧確保が楽になります。」

 「ふむ、では出してみろ」

 「入れ」
 俺は部屋の外に控える料理人に声を掛けた。

 「失礼いたします」

 「何だ? 蚯蚓みみずの様な気持ちの悪い物は?」

 「蕎麦の粉を平たく伸ばし包丁で切り茹でたものです、毒味いたしますので。」

 俺は先に箸をつけて見せた、少し塩に付けて食べた。俺が料理人に試作させたのは田舎蕎麦だ、少しでも分量を多くするため、そば殻ごと石臼で粉にした十割粉で作ってみたのだ。俺はよく噛んで味わって見せた。

 「よく噛むと、蕎麦の風味と甘みが判り、とても美味しく食べれます。」

 「蕎麦は飢饉の折に百姓の喰うものだが、それが美味しくなるのか?」

 俺が試作した料理が大好きな信玄は、期待と不安が相半ばした表情を見せる。流石の信玄も食欲には猜疑心も甘くなるようだ。俺はもう1口毒味してみせる。信玄も安心したのか箸をつけて食べ始めた。
更科蕎麦より硬い、好く噛まねばならない蕎麦切りだが気に入ってくれるか?

 「美味い! 風味と言い甘みと言い御馳走ではないか! 蕎麦でこのような料理が出来るとは!」

 「気に入っていただけて幸いです、蕎麦なら荒地や水田に向かない土地でも作れます、冷害の折にも収穫できます。」

 「そこに用意しているのは何だ?」
 信玄は、薬味に用意していた焼き味噌と乾煎りした山椒と唐辛子に、目聡く気が付いたようだ。

 「美味しく食べる為の添え物です、水腫の病に掛からぬように火を通しております」

 「また妙なことをしておるようだな、何のためだ?」

 俺が病の調査をしていることは耳に入っていたのだろう、確認してきた。俺は沸騰させた少量の湯に、焼き味噌を加えて溶き、唐辛子を少量加えて味噌液みそつゆを作り、毒味の為蕎麦を入れて食べて見せた。その上で、信玄に液を入れた深皿を手渡した。

 「甲斐の水腫病は、本来精強であるべき武田の兵を損なうことになります、万が一有力な国衆や武将が掛かれば一大事でございます、原因を突き止め予防か治療法が見つかれば、兵を損なうことが無くなると調べてみました。」

 味噌液に蕎麦切りを付けて、美味しそうに食べていた信玄が聞き返して来た。
 「で、判ったのか?」

 「鉱毒か? 邪気が入ったか? 毒虫に刺されたか? 色々考えてみましたが、田や川に住む毒虫に刺されたせいかと思われます。」

 「で、予防や治療は出来そうか?」
 信玄は、ゼスチャーで料理人に蕎麦切りの御代りを催促しつつ聞いてきた。

 「残念ながら、力及ばず永田徳本先生に後を託しました。」

 俺の言葉を聞いた信玄は心から満足したような表情になった。

 「うむ! よくぞ分別いたした!! 疑問を持ち、より良き方法や対策を求めるのは棟梁には必要なことじゃ、だが1つの事に掛かり切るは無分別じゃ、やれる者に任せるのが棟梁たる者の分別じゃ、やまいの事は医者に任せるがよい。」

 「は! 承りました。」

 「それでな、この料理は何という?」

 「蕎麦切りと申します。」

 「蕎麦をこれだけ美味しくできるなら、蕎麦にも値打ちが出るな。」
 おいおい、反別当たりの年貢の貫高を引き上げる気か?

 「お前たちは戻っておれ。」
 信玄は料理人だけでなく、近習衆も追い払った、何か重大な話があるのか?

 「善信には独力で高遠頼継を攻め滅ぼしてもらう。」
 信玄は声を潜めてとんでもないことを言いだした。

 「飯富虎昌の兵は使えないのですか?」

 「虎昌と近習衆は好いが、甘利信忠勢と曽根昌世勢は別に働いてもらう。」
 なるほど、甘利と曽根の領地は凶作なんだ。

 「時期は何時までですか?」

 「夏過ぎまでには城取を完了しておけ」
 なるほど、他の土地で青田刈りを行うんだね。

 「攻め取った城と領地は誰の物になるのですか?」

 「御前が独力で落とすんだ、御前の物にするがよかろう。」
 気前が好いな、何か裏が有るんじゃないだろうな?

 「小笠原信定の伊那鈴岡城と松尾城も、何れは独力で攻略してもらう。いや天竜川沿いは全て善信が攻略してみよ!」

 俺に独力で天竜川沿いを攻略させて何を得る心算なんだ?
 「何を御考えなのですか?」

 「武田本家の力を高める、家臣の影響力を抑え込む!」
 さて、今晩は長くなりそうだが、俺の睡魔への抵抗力が限界だ。

 「父上、最早眠気に勝てません、明日改めてお伺いしたしたく。。。。。。。」


 「痛って~~~~~~~、うゎっ!!」

 何だよ夢かよ! 夢のくせに本当に痛いよ、あの蜂のやろうが!! うん? 蜂~~~~蜂~~~~~~!!! 養蜂だよ、養蜂! 二郎にも三郎にも母上にも蜂蜜を食べさせて上げれる、うん、信玄にも分けてやるか。

 天文13年1544年5月『躑躅ヶ崎館 善信私室』

 「飛影、交易の方は順調か?」
 雪解けが始まり、間道を使った関所破りの荷が届いたと、飛影が報告に来た。

 「はい、若殿の御指示通り、甲斐を出るときは漢方薬を持ち出し、甲斐に戻るときは塩を持ち込んでおります。」

 「漢方薬の売り上げはどうだ?」

 「若殿が考案された蚯蚓を使った熱さましが好評です、随分高値で売れております。精力剤も男女ともに好く売れております。」

 「女性にも売れているのか?」

 「はい、妻妾も子を産めねば肩身が狭いのでしょう、出来れば跡取りの男子を産みたいと、金に糸目をつけず欲しがるそうです。女がそうでも無くても実家が必死になっている場合も有ります。」

 確かにな、人質も兼ねて送り出した娘や妹でも、万が一跡継ぎを産んでくれれば外戚として権力を振るえる、上手くやれば主家を乗っ取ることも可能だ。

 「持ち込んだ塩は利益を上げているかい?」

 「こちらも若殿の言われた通り、多くの関所を破った御陰で正規の塩売りより随分安く持ち込めております。その上、開拓地の常設市と福与城下の常設市が無税です、多くの店が立ち並び賑わっておりますので、塩も漢方薬もよく売れております。」

 「越後の海や駿河の海、いや、海沿いならどこでもいいのだが、河原者や山窩の拠点に成る村か家は無いか?」

 「調べてはみますが、彼らに中に裕福な者はおらぬかと。」
 寂しそうに、辛そうに飛影は答えた。

 「新しい食材を作らせたかったのだが。」

 「どのような物でございますか?」

 「鯖や秋刀魚、烏賊や蛸を塩漬けにした物を塩辛と言うのだが、それを作らせてから甲斐に運び込めば更に利益が出る。何より保存食として備蓄できるのだがな。」

 「調べさせましょう、無ければ手の者を海近くの山中に潜ませ、そこで作らせましょう」

 「出来るのか?」

 「お任せください、山窩は元々山中で暮らしておりました。」

 「ならば候補の者は俺直々に指導しよう、作り方悪ければ腐ってしまうのでな。」

 「承りました」

 「次に馬と牛の購入なのだが、資金はどれくらいある?」

 「今手元にあるのが6584貫文でございます。交易中の担役が持っている品の価値は含まれておりません。」

 「安い農耕馬の雌が2貫文で買えたな? 牛の雌も2貫で買えたか?」

 「日々の相場で変動いたしますが、牛も馬も2貫文で十分買えます」

 「ならば牛も馬も1000頭買うことしよう。」

 「若殿ならば深い御考えが御有りなのでしょうが、理由を御聞きしても宜しゅうございますか?」

 「ああ、牛や馬は人が食べる事が出来ない草や葉を食べて大きくなる、雌ならば妊娠して乳を出す、乳ならば人が食糧とすることが出来る、飢饉の時は潰して食べる事も可能だ、蘇を作って売ることも可能だしな。何よりも、戦に成れば乗馬として出陣できる。馬上からの方が遠くを見る事が出来る、少しでも高い位置を得た方が早く戦況を把握し指揮することが出来るのだ。」

 「承りました」

 「ああ、だが雌だけだぞ、雄はいらん、繁殖には雄1頭おれば十分だ、種馬は虎昌ところの軍馬の雄を貸してもらう、牛は近隣の農家から種付け時だけ徴発いたせ。値も2貫文を超える牛馬は買わなくていい、年も4歳までだ!」

 「承りました」

 「それと鹿を生け捕りにして、家畜にできないか?」

 「鹿を家畜でございますか? これにも訳が有るのでしょうね?」

 「鹿は牛や馬でも食べないような、落ち葉や樹皮でも餌にして育てる事が出来る、食べきれないほど捕獲出来たら、非常食として肥育しておきたいのだ。」

 「承りました、生け捕り出来た鹿は直ぐ食べずに肥育いたします。」

 「上手く肥育できれば、精力剤の鹿茸を安定的に大量生産できる。」

 「なるほど! 全力を尽くします。」


5月『荒神山城 大広間』

 「難民は何人ほど集まっている?」
 俺は荒神山城の城代を任された男の訊ねた。

 男は見上げるような上背の大男、恐らく180cm以上の身長だろう、服の上からでも隆々な筋肉が窺える、厳しい修験道の修行に耐えてきたのであろう、服から出ている腕も首も丸太のようだ、太腿は大袈裟に言えば樽のようだ、日々屋外で修練した証だろう赤銅色に焼けている。

 「は、572人でございます」

 「男手はあるのか?」

 「殆どか子供と老人でございます、ですが薬草の採取と漁労や養蚕は十分可能でございます、秋に成れば椎茸栽培も行わせます。」

 「うむ、期待しておるぞ、衣食は足りておるか?」

 「十分送って頂いております!」

 「うむ、福与城下の男手を徴発して城の増強を行わせよう、難民が少しでも暮らしやすいように工夫してやってくれ。」

 「承りました」
  
 「今更だがな、名は何という?」

 「剛坊ごうぼうと申します、氏はございません。」

 「そうか、ならば今日から名をかえよ、ごうの字は?」

 「こうかきます」
 剛坊は板の間に大きく書いて見せた。

 俺も板の間に大きく書きながら剛坊に氏名を与えた。
 「俺の善しの字を諱として与える、荒山善剛こうざんよしたかと名乗るがよかろう。」

 「有り難き幸せでございます」

 俺は1日掛けて万が一の場合の細々とした指示を出した。

 翌日は竜ケ崎城に行き同じことを繰り返した。飛影が選抜し城代に任命した男にも諱を与えた。この男も180cm以上の大男だ、荒山善剛よりは少し引き締まった筋肉をしている、四肢は同じように丸太のような筋骨隆々だが、動きに俊敏さが感じられる。

 「俺の善しの字を諱として与える、竜崎善武りゅうざきよしたけと名乗るがよい」


『福与城』

「虎昌、兵の準備は整っておるか?」

 「は、若殿の御指示通り、福与城下の民を狩りに同行させ、獲物を公平に分配いたしましたので、彼らの食生活が好くなったようでございます、また城下の常設市の評判も良く、若殿の命令に従えは生活が好くなると評判でございます。この分では出陣命令にも従いましょう」

 「ならば1500の旧藤沢兵を計算入れても好いな?」

 「はい、旧藤沢兵1500と若殿難民兵1000に我が飯富兵800で3200兵を動員出来ます。」

 「だが、敵味方ともに無駄な死者は出したくない。調べた範囲では耕作に適した土地の3割が放棄されておるではないか! 打ち続く戦乱で人が減り、特に男手が不足したせいだろう。甲斐信濃を安定させ開墾を行えば国力を3割増大できる、武名を轟かせるような手柄などいらぬ、高遠城は策略で落とすぞ。」

 「承りました、ならばこの福与城と同じ手を使われますか?」

 「飛影、どうだ? やれるか?」
 今まで一言も話さず側に控えていた飛影に確認する。

 「城内に配下を送り込んでおります、何時でも高遠頼継の首を献じること可能でございます!」

 「うむ、だが城下の民への示しも有る、暗殺は城攻めと同時に行う、表向きは城攻めの時に討ち取った事にいたせ、問題無ければ潜入して首を取った素破は武士に取り立てるが、まだ素破として働いて貰わねば困るか?」

 「手柄を立てた者の家自体を武士としてやってください、腕の良い素破を現場から外すわけにはいけませんが、子弟が武士に成れるなら本人も、共に働く素破にも励みになります。」

 「では、城下の兵を動員し、飯富の里から兵を動員いたします。」
 虎昌が自分の兵を動員すべく言葉を挟んだ。

 「いや、今回は難民兵だけで攻める。城下に動員を掛けたり飯富の兵を呼び寄せれば高遠も警戒するだろう、それよりは難民兵だけで夜襲する方が双方の損害を減らせる。」

 「承りました、ではその手筈で結構でございますが、日時は何時夜襲いたしましょう?」
 虎昌は何の疑問も文句も言わず従ってくれた。

 「次の新月の夜、4日後じゃ」

 4日後、あっさりと高遠城を夜襲で攻め落とした。俺達が、素破の手筈で損害無く城門を潜った時には、高遠頼継は既に首を取られていた。俺は約束通り、高遠頼継の首を取った素破に40貫の土地を与え、騎乗資格の有る武士に取り立てた。参加した1000兵の難民達には相場通りの玄米2升を支給した。命懸の合戦手当が玄米2升! 戦国時代の命の価値は安すぎる!!
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