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第二章

第26話:心残り

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 父親と上様から上洛の許可を取った新之丞は、上洛前になすべき事を全て片付けようと、聖天長屋に来ていた。

「新之丞先生、修行は終わったのですか?」

 聖天長屋には、僅かな間に武士らしい言葉使いとなった仙吉がいた。
 伊之助が忙しくなったので、雉之介が新之丞の指図通り教えてくれていた。

「まあ、よくお戻りくださいました、新之丞様。
 新之丞様が何時戻られてもいいように、膳の準備をしていますが、お食べになられますか?」

 新之丞と仙吉の声を聞いて急いで部屋から出てきた房が、少し上気した顔で、いそいそとしか表現しようのない態度で話しかけてきた。

「今日は少々大切な話しをする為に戻ってきました。
 食事はその後で、三人一緒に食べましょう」

「まあ、大切な話しですか……」

「はい、外で話すような事ではないので、中でいいですか?」

「……はい」

 仙吉は何が起こっているのか分かっていないようだが、房は真っ赤になっている。
 長屋に残っていたかみさん連中や、仕事に行かなかった怠け者が、想像を逞しくして、ぞろぞろと長屋の通路に出てきた。
 誰もが新之丞が房に結婚を申し込むものだと思い込んでいた。

 三人は房と仙吉の部屋ではなく新之丞の部屋にいた。
 房は真っ赤な顔で俯いている。
 新之丞の方はとても真剣な表情をしている。
 仙吉はそんな二人を怪訝な表情で交互に見ている。

「急な話しなのだが、実家のしがらみで、しばらく江戸を離れなければいけない。
 もしかしたら、生きて戻って来られないかもしれない」

 本当に急な話しで、仙吉は目を白黒させている。
 房の方は、真っ赤だった顔を真っ青にして新之丞の顔を凝視している。
 新之丞の部屋の前に群がっていた長屋の衆も、驚きのあまり言葉もない。

「私は生きて帰ってくる心算ですが、房殿と仙吉の事が心配なのです。
 今のままでは、どちらかが病気になったら共倒れになりかねません。
 二人にはしっかりとした後ろ盾、主家があった方がいいと思うのです。
 実家の縁で、母子二人で仕えられる家があるのだが、仕官する気はないですか?」

「しかん?
 しかんて、お武家様になれるの?!」

「ああ、仙吉にはある武家屋敷の小姓になってもらう。
 その屋敷には幼い三男と四男がいて、年頃の合う小姓を探しているのだ」

「すごい、すごい、すごい。
 母上、武士になれるのですよ!」

「……新之丞様、私は誰かの妾にさせられるのでしょうか?」

 房は余りにも美味い話しに何か裏があるのだと思ってしまった。
 ずっと親切にしてくれていた新之丞の事を疑うなど、とても失礼なのだが、それだけ嫌な思いも苦しい思いもしてきたからだ。

「その心配はありません。
 大奥ではありませんが、大奥に近い仕来りがあります。
 殿様が手を付ける者はお目見え以上に限られています。
 お目見え以下の奥女中に手を付ける事はありません。
 それに、お目見え以下の奥女中は何時でも辞める事ができます」

「……私と仙吉に都合が好過ぎる気がするのですが」

「向こうのご当主は、とてもいい方なのです。
 私自身が直接会って人柄を確かめているので、何の心配もありません。
 どうしても心配なら、半年か一年の年季奉公にすればいい。
 御公儀の定めも、年季奉公は三年を上限としていますから、心配ありません」

「半年か一年過ぎたら、長屋に戻る事ができるのですね」

「はい、武士の身分に固執されないのでしたら、渡り中間のように、日雇いや季節奉公という方法もありますが、私としては譜代として取立てて貰った方が安心です」

「母上、僕お武家様になりたいよ!」

「急な事なので、直ぐに返事はできかねます」

「房殿が迷われるのも当然です。
 大家さんや名主さんに相談してから決めてください。
 武家に奉公するとなれば、身元保証人になってもらう事になります。
 向こうの御屋敷の方は、私の保証だけで大丈夫なのですが、房さんや仙吉の事を考えれば、大家さんや名主さんの後ろ盾があった方が安心できるでしょう?」

「はい、新之丞様を信用しない訳ではありませんが、仙吉の将来がかかっています。
 鳴子屋さんの時の事もあります。
 大家さんと名主さんに相談させてください」

「ええ、いいですとも。
 では、難しい話はここまでにして、一緒に料理を作りましょうか?」

「新之丞先生、僕に剣術を教えてください。
 お武家様になれるのなら、剣術を覚えたいです!」

 ★★★★★★

 一方、千代田のお城の西之丸では、家重が不安になっていた。
 父親の吉宗と兄の宗哀から、弟の宗武が命を狙ってくるかもしれないと警告されたからだった。

「……」

 不安になったりすると、それでなくても不明瞭な家重の言葉が、更に聞き難くなり、大岡忠光以外の者では何を言っているか全く分からなくなる。
 
「大丈夫でございます、大納言様。
 大納言様の周りには腕自慢の家臣達が控えております。
 お食べになる物もお飲みになる物も、全て毒見役が確認しております。
 大納言様を害する事など不可能でございます」

「……」

「大納言様!」

 家重は少々卑屈になっていた。
 今までは将軍世子の立場だったので、言語不明瞭でも小便が近くても、後々の栄達を見込んで恭しく仕えてくれる者も多かった。

 だが、次期将軍がはぼ兄の宗哀に決まってからは、そう言う輩が蜘蛛の子を散らすように離れて行った。

 将軍としての役目が多いのか、もうはや何の期待もされていないのか、父である上様からの使者や手紙も激減している。

 今までと同じように使者や手紙を送ってくれるのは、兄の宗哀と甥の新之丞だけだが、それも将軍職を奪った事への詫びに思えてしまう。
 そんな卑屈な気持ちを、つい最側近の大岡に漏らしてしまったのだ。

「……」

 新しく小姓となった聾啞者がゆっくりと口を動かして話しかけてくる。
 だが、家重と同じようになにを言っているのか分からない。
 しかし、自分と同じような、明瞭に話せない者が側にいる事で、家重は自分だけが劣っているのではないと安心する事ができた。

「それほど心配でしたら、清水屋敷に行かれてはどうですか?
 清水様が西之丸を訪れないのは、こちらに来て大納言様に害が及ぶ事を恐れての事なので、大納言様が清水屋敷を訪れられるのなら何の問題もありません」

 次に同じく新しく小姓となった者が、大岡忠光しか理解できないはずの家重の言葉を、正確に理解して献策してくれる。

「……」

「大丈夫でございますよ、大納言様。
 清水様も新之丞様も心から歓迎してくれます。
 長らく猿楽を舞っておられないのです。
 久しぶりに一緒に舞われてはいかがですか?
 ああ、もしかしたら、新之丞様は城下に降りられているかもしれません」

「……」

「はい、今でも清水様のお好きな物を買いに城下に降りられています。
 家重様の大好きな脂の乗った秋刀魚の美味しい季節ですよ。
 事前に行く日を知らせておけば、用意してくれるでしょう」

「……」

「お気が晴れられましたか?
 だったら今宵は御簾中の所にお渡りになられてはいかがですか?」

「……」

「申し訳ありません。
 余計な事を申しました。
 では、私が猿楽を舞わせていただきましょう。
 大納言様が舞ってしまわれると、上様の制限にかかってしまいます」

「……」

「大丈夫でございます。
 本格的に舞台で舞うわけではありません。
 食事の間に余興で舞うだけでございます。
 長々と食事をしない限り、上様もお叱りにはなられないでしょう」

 徳川家重は新しい小姓達のお陰で不安の泥沼から抜ける事ができた。
 今までは大岡忠光以外家重の言葉を理解してくれる者はいなかった。
 忠光が側にいないと、何一つ望みを伝える事ができなかった。

 それが、清水家が召し抱えた読唇術や読心術に優れた者、家重と同じようにい言語不明瞭な者を西之丸に移動させた事で、家重の孤独が大いに改善された。

 朝番、夕番、不寝番と、二十四時間何時でも家重の言いたい事を理解してくれる者が側にいるのだ。
 そんな小姓達とは、時に冗談を言い合えるほど親密な関係になっていた。

 唯一問題があるとしたら、小姓達と過ごせる西之丸中奥が快適過ぎて、西之丸大奥に殆ど渡らなくなったことだろうか。
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