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第一章

第1話:金貸し

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 夕暮れの長屋に腹の底に響くような怒声が広がる。

「さあ、借金を払ってもらおうか!」

 田舎相撲で大関を張った事もあると言う金貸しが凄んでいた。
 金貸しの背後にいる凶悪な顔をした四人の子分が、周囲に睨みを利かせている。
 凄まれている相手は、薄幸という言葉が当てはまるとても美しい女性だ。
 その美しさは貧にやつれた姿でも隠しようがないほどだった。
 その美人の背に護られる幼子の姿も、女の薄幸を物語っていた。

「そうは申されましても『困った時はお互い様、有る時払いの催促なし』と言ってくださったのは、鳴子屋さんではありませんか」

 気の弱そう見た目にそぐわない強い言葉が美人から放たれた。
『女は弱し、されど母は強し』を地で行く姿だった。

「はん、そんな事を言った覚えはない。
 証拠はあるのか、証拠は。
 俺様の方はこれが証拠だ」

 長屋の衆が不幸な母子が気になってそれぞれの部屋から顔を出している。
 最も家賃の安い二十軒棟割長屋の一番奥の部屋の戸が音もなく開いた。
 貧乏長屋に相応しくない、こざっぱりとした武士が、騒動の部屋の前に一分の隙も無い足捌きで陣取る。

「確かにその証文に爪印は押しましたが、期限や利息は鳴子屋さんが後で付け加えたのではありませんか!」

「はい、そんな事はやってない。
 証拠はあるのかよ、証拠は!」

「騒がしい奴だ。
 それほど証拠証拠と言うのなら、お奉行様に確かめてもらおう。
 幸いこの月は名奉行の誉れ高い大岡殿の南が月番だ。
 誰が嘘を言っているのか間違いなく裁いてくれるだろう」

「じゃかましいわ!
 関係ない人間が嘴を入れるな!
 ガタガタ言いやがると、この場で叩き斬るぞ?!」

「座頭貸しでもない無許可の金貸し風情が、武士を斬るだと?
 本気で言っているのなら身の程知らずも甚だしい。
 鳴子の田舎相撲で大関を張ったと言って周囲を脅しているようだが、幼い頃から人殺しの鍛錬をしている武士に敵うとでも思っているのか?」

「じゃかましいわ、さんぴん!
 いや、貧乏牢人が一人前の武士を名乗るんじゃねぇ!」

「ほう、無許可の町人金貸しにそこまで言われては、武士としては主家の面目にかけて無礼討ちにせねばならない。
 長屋の衆、奉行所で嘘偽りなく証言してもらえないか?」

「まかせな、新さん」
「どこでも証言してやるぜ」
「今月なら大岡様が月番だ、鳴子屋も賄賂の渡しようがない」
「すっぱりやっておくんなさい、新さん」

「ぐっわっあああああ、表に出やがれ!
 てめぇら、長屋の連中ごと叩きのめしてやれ!」

 鳴子屋はそう言うと母子の部屋から長屋の通路に出て行った。
 鳴子屋の命令を受けた四人の子分が直ぐに長脇差を抜いて斬りかかってきた。
 だが鳴子屋に負けない六尺豊な美丈夫はひらりひらりとかわす。

 凶悪な表情で襲い掛かる子分共など歯牙にもかけず、刀すら抜かない。
 牢人は長屋の衆に被害が出ないように、裏長屋の一角にある厠前の広場に鳴子屋たちを誘導した。

「鬼さんこちら 手の鳴るほうへ」

 四人もの長脇差を抜いた子分に襲われているにもかかわらず、笑みを浮かべながら𠮷原遊郭での遊びをなぞられる余裕が牢人にはあった。
 あまりの怒りに切れた子分共は、周囲にいる長屋の住民に斬りかかろうとした。

「たわけが!」

 同じ長屋の住民が斬られそうになった牢人は一転真剣な表情になった。
 刀は抜かなかったが、鉄扇を振るって子分共を次々と昏倒させた。
 牢人に動きは武芸の達人と言っていいものだった。

「ぐっわっあああああ、もう勘弁ならねぇ、死にやがれ!」

 鳴子屋は六尺豊かな身体を生かすように、長脇差を力任せに振るった。
 子分共が軽く捻られた事で冷静さを欠いたのだろう。
 一方牢人は子分共を相手にした時同様、ひらりひらりとかわす。

 その姿は、物語にある五条大橋の義経と弁慶を思い出させた。
 いや、鳴子屋を弁慶に例えるのは誇大に過ぎる。
 だが牢人の姿は、兵法の奥義、六韜を極めたと言っても信じられる軽やかさだ。

「どうした鳴子屋、もう息が切れたか?
 それでも鳴子相撲の大関を張った男か?
 やはり大関を張ったというのは嘘であろう。
 嘘つき鳴子屋こちら、手の鳴るほうへ」

 ぜい、ぜい、ぜい、ぜい、ぜい

 悪態もつけないほど息の上がった鳴子屋は、自分で足をもつらせて倒れた。

「か、か、かん、かんべんならねぇ。
 叩き斬ってやる。
 今度はもっと多くの子分を率いて皆殺しにしてやる」

 笑みを浮かべていた牢人の顔が鳴子屋の言葉を聞いて鬼の形相に変わった。

「ほう、長屋の住民を皆殺しにすると言うのだな。
 無許可の金貸しの地回りが、お奉行所を恐れずにそこまで言うか?
 どうやら本当に役人に賄賂を贈っているようだな。
 もはや許し難い。
 厳しい詮議で全て白状させてもらおう」

 牢人はそう言うと鳴子屋の顔を鉄扇で叩いた。
 刀にかける価値もないと言う事かもしれない。

「ぎゃあああああ」

 下顎の骨が砕けて、熟した柿のようにぶよぶよとした感じに変化している。
 骨が砕けた痛みは、酒色に溺れて心身の緩んだ鳴子屋には耐えられない。
 あまりに激しい痛みに、自ら動いて逃げるなど不可能だった。

「私は他の子分共が助けに来た時の為にここに残って見張る。
 伊之助はお奉行の所に行って事の次第を伝えて来てくれ」

「承りました」

 牢人は何の躊躇いもなく、担ぎ呉服でしかない伊之助に、南町奉行大岡越前守に事情を説明しろと言っている。
 伊之助の方も、町人ごときが直接お奉行様には会えないと断る事なく引き受ける。
 鳴子屋騒動で気が動転している長屋の衆は気にしていないが、異常な話しだった。
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