伊勢山田奉行所物語

克全

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第6章:伊勢歌舞伎

第62話:顔見世

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 宝暦十三年の春、まだ完全に寒さが緩んでいない頃は、薩摩藩の抜け荷に関わった商人達は苛烈な取り調べに次々と自白をしていた。

 柘植家と縁のある勘定衆も、噂や証拠を集めるのに奔走しています。
 まだ報奨される前なので、当然柘植平兵衛も大抜擢されていない。

 だが、もう伊勢の柘植家には大慶事が訪れていた。
 ゆうの妊娠が明らかになっていた。
 周りの迷惑を考えずに急いで仮祝言を挙げた甲斐があった。

 柘植家はもちろん、檜垣屋も檜垣河内家も大喜びだった。
 山田奉行所の要、御普請役格組頭柘植家と縁を結ぶ事は、一介の御師だけでなく、神宮家で一の禰宜を務める者にも大きな後ろ盾となるのだ。

 そんな柘植家に、古市で顔見世興行を行う歌舞伎役者が挨拶に来た。
 無事に興行を行うためには、奉行所や会所への挨拶回りは欠かせない。

「澤村宗十郎と申します。
 この度は古市にて歌舞伎興行を執り行いたく思い、御忙しいところ恐縮ですが、御挨拶に参らせていただきました」

 一座の座長をしている二代目澤村宗十郎が深々と頭を下げて挨拶をする。
 後ろに控えていた、一座の主だった役者達も深々と頭を下げる。
 彼らにとって伊勢での興業は役者人生に係わる大切な物だった。

 澤村一座以外の役者達にも、江戸、京都、大坂に次いで歌舞伎が盛んな伊勢古市は、三都興行を成功させる登竜門と言える。

 新し演目の評判を確かめるのに、全国から数十万人もの参詣客が集まる伊勢古市は、格好の場所だった。

 三代目中村仲蔵が評判を呼んだ「伊勢音頭 恋寝刃」が伊勢で大当たりするのはまだまだ先の話だが、多くの歌舞伎役者が伊勢で足掛かりを掴んでいる。

 澤村一座の祖ともいえる初代澤村長十郎は、地方の旅芝居で修行を積み実力を養い、伊勢興業で評判となったことが京都興行の大成功につながった。
 そして名人とまで呼ばれるようにまでなったのだ。

 更に二代目澤村宗十郎の養父であり師匠でもある助高屋高助は、染山喜十郎と名乗り伊勢古市の芝居に出た翌年に、初代澤村長十郎の門人になる事を許されている。

 助高屋高助は、染山喜十郎から澤村善五郎と改名して大阪で演じ、経験を積み実力を養い、澤村惣十郎、澤村宗十郎と名を改めて行った。

 澤村宗十郎の頃に演じた『遊君鎧曽我』の梅の由兵衛が大当りとなり、使っていた頭巾まで『宗十郎頭巾』と評判となり『鞍馬天狗』が使う頭巾として今でも残っているほどだ。

 その後助高屋高助は、初代の名跡である澤村長十郎の三代目となり、芸の位を極めた、特に優れた役者に与えられる真極上上吉にまで上り詰め、助高屋高助と改名して澤村長十郎の名跡を四代目に譲った。

 そんな大名人が七年前に亡くなってしまった澤村一座は、興行的に看板となる役者が育たず、客を呼べる目新しい演目でも苦労をしていた。

 一座を預かる二代目澤村宗十郎と澤村長十郎の名跡を継いだ四代目は、名人と呼ばれた初代と三代の澤村長十郎にあやかり、伊勢興業できっかけを掴みたかった。

「そうか、丁寧な挨拶御苦労。
 私としては特に興行を差し止める理由はない。
 元々古市は伊勢神宮参詣の精進落としをする場所だ。
 目に余るような事をしなければ、少々の事で咎めたりはしない。
 正式な届出があれば、問題なく許可しよう」

「有り難き幸せでございます」

 柘植家に手土産を渡し挨拶を済ませた澤村一座は、次に挨拶をする御普請役格組頭、橋本家に向かった。

 興行先の有力者廻りは絶対に欠かせない重大事だが、まだ昨今の伊勢は楽になったと評判だった。
 
 二年前に裏から古市を牛耳っていた丁子屋重五郎が処罰され、次の博徒や香具師も現れず、奉行所と会所に挨拶すればいいだけだった。

「ゆう、ずっと屋敷に閉じ籠ってばかりでは気が晴れないだろう。
 新しい一座が来たことだし、久しぶりに芝居見物にでも行かないか」

「ありがとうございます。
 お腹の子を案じて神楽を舞わないようにしておりますので、せめて歌舞伎を見られれば、この鬱々とした気持ちも晴れるかもしれません」
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