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第6章
第59話
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万葉が携帯電話を忘れたと気がついたのは、すでに出勤して会社の前に到着してからだった。鞄をいくら探しても見つからず、これはもう師匠の家に完全に忘れたなと観念する。
合鍵を持っているのだから、もし師匠がいなかったとしても、帰りに取りに行けばいい。今こそ、やっと合鍵の出番だと万葉はのんきに思っていた。
フロアに行くために、エレベーターが到着するまで待っていると、別の部署の女子たちがこそこそと話をしているのが耳に入った。
「ねえねえ、田中常務結婚したんだって!」
「やっぱりその噂本当だったんだ!? すごいショック、ファンだったのに」
「うん、つい最近だって。女性泣かせで有名な人だっていう噂なのに、なんの心境の変化なんだろ?」
万葉はマフラーで顔をおおいに隠すと、到着したエレベーターに黙って乗り込む。ここ数日は、常務が結婚したという噂は瞬く間に広がり、それと同時に〈女泣かせ〉〈遊び人〉というキーワードが、目立って噂となって独り歩きしていた。
(これじゃ、未だに師匠が遊び人のような感じじゃん……)
万葉は気がつかれないようにため息を吐くと、開いたエレベーターの扉から出て行く。万葉が全く気がついていないだけで、師匠は女子社員から絶大な人気を得ていたようで、ショックで泣きだす子もいたという噂まで万葉の耳に入ってきている。
自分が結婚相手になるのはあり得なくても、そうなるかもしれないという、もしもを夢見ていた女子社員たちにとって、師匠の結婚は相当な裏切りだったようで、常務ロスが今のところずっと続いている。
それが悪い方向へと働いて、女遊びが激しいだの女泣かせだの面食いだのという、いらぬやっかみの噂が後を絶たない。
「なんて人気を誇っているんだ、あの人は……っていうか、面食いなら私とは結婚してない」
そんな人と三年も飲み食いしていて、親会社の役員だと一ミリも気づかなかった上に、全くもって恋愛感情を持たなかったのだから、自分はどれだけ人に興味がない生活をしているのだと、万葉自身が自分にあきれる始末だった。
「――恵、ヒアリング」
万葉が出勤してしばらくすると、新海が眉根を寄せてやってきた。すっかり新海とのヒアリングを忘れていた万葉は、慌てて業務を一旦停止する。
「ごめん、忘れてた!」
「スケジュールしっかり入れとけよ。F会議室な」
先に行ってると新海がすたすたと出て行き、万葉は大急ぎで業務の後片付けをして記入事項を叩き込んで入力してから、席を外した。
仕事のスケジューリングを間違えるなどと、本来の万葉なら起こらないことなのだが、日に日に聞こえてくる噂話に疲れていたのだった。
メモを持ってF会議室へ行くと、新海は今日はずっとヒアリングのようで、席にゆったりと腰かけて足を組んでいた。
「おう、遅いぞ」
「ごめんほんとごめん、ちょっとぼけてたみたい」
「ボケてるのはいつもだけどな、仕事でボケかますのは珍しいな。常務の噂話に疲れ切ってますって顔してるぞ」
「はあ……図星。なんであることないこと……噂って怖いわ」
「まあ、お前に嫉妬の矛先が向いてないんだから、まだいいんじゃねーの?」
それもそうだ、と万葉は力なく椅子へと腰を下ろした。
合鍵を持っているのだから、もし師匠がいなかったとしても、帰りに取りに行けばいい。今こそ、やっと合鍵の出番だと万葉はのんきに思っていた。
フロアに行くために、エレベーターが到着するまで待っていると、別の部署の女子たちがこそこそと話をしているのが耳に入った。
「ねえねえ、田中常務結婚したんだって!」
「やっぱりその噂本当だったんだ!? すごいショック、ファンだったのに」
「うん、つい最近だって。女性泣かせで有名な人だっていう噂なのに、なんの心境の変化なんだろ?」
万葉はマフラーで顔をおおいに隠すと、到着したエレベーターに黙って乗り込む。ここ数日は、常務が結婚したという噂は瞬く間に広がり、それと同時に〈女泣かせ〉〈遊び人〉というキーワードが、目立って噂となって独り歩きしていた。
(これじゃ、未だに師匠が遊び人のような感じじゃん……)
万葉は気がつかれないようにため息を吐くと、開いたエレベーターの扉から出て行く。万葉が全く気がついていないだけで、師匠は女子社員から絶大な人気を得ていたようで、ショックで泣きだす子もいたという噂まで万葉の耳に入ってきている。
自分が結婚相手になるのはあり得なくても、そうなるかもしれないという、もしもを夢見ていた女子社員たちにとって、師匠の結婚は相当な裏切りだったようで、常務ロスが今のところずっと続いている。
それが悪い方向へと働いて、女遊びが激しいだの女泣かせだの面食いだのという、いらぬやっかみの噂が後を絶たない。
「なんて人気を誇っているんだ、あの人は……っていうか、面食いなら私とは結婚してない」
そんな人と三年も飲み食いしていて、親会社の役員だと一ミリも気づかなかった上に、全くもって恋愛感情を持たなかったのだから、自分はどれだけ人に興味がない生活をしているのだと、万葉自身が自分にあきれる始末だった。
「――恵、ヒアリング」
万葉が出勤してしばらくすると、新海が眉根を寄せてやってきた。すっかり新海とのヒアリングを忘れていた万葉は、慌てて業務を一旦停止する。
「ごめん、忘れてた!」
「スケジュールしっかり入れとけよ。F会議室な」
先に行ってると新海がすたすたと出て行き、万葉は大急ぎで業務の後片付けをして記入事項を叩き込んで入力してから、席を外した。
仕事のスケジューリングを間違えるなどと、本来の万葉なら起こらないことなのだが、日に日に聞こえてくる噂話に疲れていたのだった。
メモを持ってF会議室へ行くと、新海は今日はずっとヒアリングのようで、席にゆったりと腰かけて足を組んでいた。
「おう、遅いぞ」
「ごめんほんとごめん、ちょっとぼけてたみたい」
「ボケてるのはいつもだけどな、仕事でボケかますのは珍しいな。常務の噂話に疲れ切ってますって顔してるぞ」
「はあ……図星。なんであることないこと……噂って怖いわ」
「まあ、お前に嫉妬の矛先が向いてないんだから、まだいいんじゃねーの?」
それもそうだ、と万葉は力なく椅子へと腰を下ろした。
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