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第6章
第53話
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居酒屋に到着すると、師匠はまだ来ておらずマスターのいらっしゃいという声が飛んできた。
「あら、万葉ちゃん。どうしたの冴えない顔して……?」
「マスター聞いてよ!」
おしぼりに顔をうずめてから、万葉は今日起こった新海とのやりとりを、かいつまんで説明する。真剣な顔で聞いていたマスターは、最後には「あらぁ」と悩まし気に太い腕を組んだ。
「一つ聞いていい、万葉ちゃん、その同期くんの気持ちに全然気がつかなかったの?」
「うん……鈍感、バカって怒鳴られた」
それにマスターはものすごく複雑な顔をした。
「それは、彼からしてみたら寝耳に水だし、怒りたくなる気持ちも分かるけど……師匠は、滑り込みセーフだったわけね」
「今さら、そんなこと言われても困るし。師匠と結婚しちゃったし」
「でもさ、万葉ちゃん」
マスターが身を乗り出してにこりと笑う。お通しを口に入れながら、万葉はマスターを見つめた。
「その人には、何回も結婚しようって言われていて断っていたのに、師匠はたった一回結婚しようって言っただけで、結婚しちゃったわけでしょ?」
言われて万葉は確かに、と眉根を寄せた。
「どっちも冗談と思っていたかもしれないけれど、何十回も言われて断っていたのと、たったの一回言われてすんなりOKしちゃったのだったら、そのたった一回の方が万葉ちゃんの心に響いたってことよね?」
「うん……どうしてかな、師匠に言われるのは、嫌じゃなかった」
「っていうことは、心は決まっていたってことじゃない? 結婚はタイミングと直感が大事。この人って思えた人とじゃなきゃ、ずっと一緒になんていられないものよ」
だって、死んだ後のお墓まで一緒なんだからね、とマスターが微笑んだ。
「だから、万葉ちゃんが運命だと思った方の絆を、ずっと握っていたらいいんじゃないかしら」
マスターがそう言った時に引き戸が開いて、師匠が顔を出す。寒かったのか、中に入るとほっとした顔をした。
「こんばんは、万葉さん。月がきれいですね」
「こんばんは、師匠。今日のおすすめはお刺身だそうですよ。私、お腹すきました」
「あはは、じゃあお刺身食べましょう。マスター、万葉さんの好きな物、たんまりお願いします」
マスターは甘やかしているわねと笑いながら、厨房へと去って行った。しばらくしておつくりが出てくると、万葉は目を輝かせる。
「いいわねえ、万葉ちゃん。甘やかされて、しかも師匠に毎回のようにアイラブユーって言われて、羨ましいわ」
万葉はお刺身を醤油にくぐらせて、わさびを乗せたところで手を止める。
「師匠がアイラブユーなんて言ったことないけど?」
「あらやだ、夏目漱石よ! アイラブユーを日本語に訳すと、〈月がきれいですね〉っていう話……ちなみに、お返事のしかたは知ってる?」
万葉は目を真ん丸に見開いて、師匠とマスターを交互に見比べる。師匠は相変わらずニコニコしたまま、お刺身を口へと運んで「美味しい」とどこ吹く風だ。
「あらー知らなかったのね! ちなみに、お返事のしかたは〈死んでもいいわ〉が定番よ」
そう言ってマスターは次の注文を作りに厨房へと戻って行く。言うだけ言って逃げられてしまった気がして、万葉はお刺身を食べる前に師匠をじっと見た。
「……師匠、私がさっきの知らないの分かっていて、遊んでいましたね?」
「あはは、そうです。僕はたちが悪いので。いつか万葉さんに、死んでもいいと言われるのを、首を長くして待っていたんですが……」
お返事は?と言いたげに首をかしげられて、万葉は目を一周回してから、「死んでもいいです」と絞り出す。
自分で言ってから耳まで赤くなってしまったのを、師匠は満足そうに目を細めてニコニコとしていた。
「あら、万葉ちゃん。どうしたの冴えない顔して……?」
「マスター聞いてよ!」
おしぼりに顔をうずめてから、万葉は今日起こった新海とのやりとりを、かいつまんで説明する。真剣な顔で聞いていたマスターは、最後には「あらぁ」と悩まし気に太い腕を組んだ。
「一つ聞いていい、万葉ちゃん、その同期くんの気持ちに全然気がつかなかったの?」
「うん……鈍感、バカって怒鳴られた」
それにマスターはものすごく複雑な顔をした。
「それは、彼からしてみたら寝耳に水だし、怒りたくなる気持ちも分かるけど……師匠は、滑り込みセーフだったわけね」
「今さら、そんなこと言われても困るし。師匠と結婚しちゃったし」
「でもさ、万葉ちゃん」
マスターが身を乗り出してにこりと笑う。お通しを口に入れながら、万葉はマスターを見つめた。
「その人には、何回も結婚しようって言われていて断っていたのに、師匠はたった一回結婚しようって言っただけで、結婚しちゃったわけでしょ?」
言われて万葉は確かに、と眉根を寄せた。
「どっちも冗談と思っていたかもしれないけれど、何十回も言われて断っていたのと、たったの一回言われてすんなりOKしちゃったのだったら、そのたった一回の方が万葉ちゃんの心に響いたってことよね?」
「うん……どうしてかな、師匠に言われるのは、嫌じゃなかった」
「っていうことは、心は決まっていたってことじゃない? 結婚はタイミングと直感が大事。この人って思えた人とじゃなきゃ、ずっと一緒になんていられないものよ」
だって、死んだ後のお墓まで一緒なんだからね、とマスターが微笑んだ。
「だから、万葉ちゃんが運命だと思った方の絆を、ずっと握っていたらいいんじゃないかしら」
マスターがそう言った時に引き戸が開いて、師匠が顔を出す。寒かったのか、中に入るとほっとした顔をした。
「こんばんは、万葉さん。月がきれいですね」
「こんばんは、師匠。今日のおすすめはお刺身だそうですよ。私、お腹すきました」
「あはは、じゃあお刺身食べましょう。マスター、万葉さんの好きな物、たんまりお願いします」
マスターは甘やかしているわねと笑いながら、厨房へと去って行った。しばらくしておつくりが出てくると、万葉は目を輝かせる。
「いいわねえ、万葉ちゃん。甘やかされて、しかも師匠に毎回のようにアイラブユーって言われて、羨ましいわ」
万葉はお刺身を醤油にくぐらせて、わさびを乗せたところで手を止める。
「師匠がアイラブユーなんて言ったことないけど?」
「あらやだ、夏目漱石よ! アイラブユーを日本語に訳すと、〈月がきれいですね〉っていう話……ちなみに、お返事のしかたは知ってる?」
万葉は目を真ん丸に見開いて、師匠とマスターを交互に見比べる。師匠は相変わらずニコニコしたまま、お刺身を口へと運んで「美味しい」とどこ吹く風だ。
「あらー知らなかったのね! ちなみに、お返事のしかたは〈死んでもいいわ〉が定番よ」
そう言ってマスターは次の注文を作りに厨房へと戻って行く。言うだけ言って逃げられてしまった気がして、万葉はお刺身を食べる前に師匠をじっと見た。
「……師匠、私がさっきの知らないの分かっていて、遊んでいましたね?」
「あはは、そうです。僕はたちが悪いので。いつか万葉さんに、死んでもいいと言われるのを、首を長くして待っていたんですが……」
お返事は?と言いたげに首をかしげられて、万葉は目を一周回してから、「死んでもいいです」と絞り出す。
自分で言ってから耳まで赤くなってしまったのを、師匠は満足そうに目を細めてニコニコとしていた。
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