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第5章
第44話
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「だって、書道教室の先生って……!」
「しー。声が大きいですよ」
口を大きな手で塞がれて、万葉は言葉を飲み込んだ。師匠がちらりと時計を見て、行かないとだなという顔をする。
「嘘はついていませんよ。お習字の教室は、人手不足の時に行きます」
呟いてから、師匠はにこりと笑う。スーツ姿を初めて見たので、一瞬誰か分からなかったのだが、見れば見るほどに師匠そのものだった。整った顔立ちも、優しげな目元も、そこにある色っぽい泣きぼくろも。
そして、何よりもいつもと同じように、着物に焚くお香か練り香水か分からないのだが、和風な香りが師匠であることを証明している。触れてくる手の温もりも、万葉の名前を呼ぶ声音も、驚くほどによく知る師匠そのものだ。
「万葉さんこそ、こちらで何を?」
口元から手が離れて行き、その手が首筋に触れる。指先が、万葉の耳たぶを摘まんだ。そのまま指先がうなじへと伸びて、首の骨を怪しくなぞる。
「その、総務に手伝いを頼まれて……」
もし、総務がミスをしなかったら。先に会議室を出ていなかったら。万葉は今ここでこうして師匠と会うことはなかった。なんというタイミングなんだと、驚きで汗が吹き出しそうになる。
「そうでしたか。僕はもう行かないとなので……今晩、泊まりに来てください。二連泊の予定で」
ちらりと万葉は首からかけられている名札を見る。〈常務〉と書かれた役職に、頭がパニックになって追いつかない。
「万葉さん、聞いていますか?」
「え、あ、はい……」
「明日、いいところへ連れて行ってあげます。今夜は、きっと僕に聞きたいことがたくさんあるでしょうから、お店じゃなくて、家でお待ちしていますね」
そう言うや否や、師匠は万葉の手首をすくい上げる。そして、手の甲にキスをした。
「ではまた夜に、奥さん――」
鍵を開けて、師匠が出て行く。取り残された万葉は、キスされた腕を下ろすこともできないまま、唖然としてその場で呆けた。
「え、夢? まさかね……?」
万葉が給湯室を出て、資料を持ったままふらふらと自分のデスクに戻ろうと歩いていると、総務部のプレゼンに参加しない女子社員たちとすれ違った。会釈をして通り過ぎると、ひそひそ声ながらに黄色い声が聞こえた。
「田中常務見た!? 今日もめっちゃ格好良かった!」
「見た見た、まだ独身なんでしょ?」
「そうそう、独身貴族で結構なプレイボーイだって噂だよ」
「どんな女性でもことごとく振っているらしいよ。でも田中常務になら告白して振られてみたいー!」
わかるー!という声を聞いて、万葉は思わず振り返って彼女たちの後姿を見つめた。
「常務って、田中常務ってまさか……プレイボーイ? 振られてみたい!?」
ぎょっとして万葉は目を見開いたまま、その場でしばらく止まる。先ほど見た師匠の名札と、自分の今の名字を思い出す。先日、トイレで話をしていた常務の話と、今の田中常務が、イコールで結びつく。
しかし、廊下にいつまでも立ち止まっていると、冬の寒さが忍び寄ってくる。ぶるると寒さに震えて、自分自身を抱きしめた。
「……今夜は、たくさん話が必要みたい……」
フリーズする頭は再起動がきかないようで、万葉はデスクに戻るといったん師匠のことを考えるのを止め、さっさと仕事へと戻った。
「しー。声が大きいですよ」
口を大きな手で塞がれて、万葉は言葉を飲み込んだ。師匠がちらりと時計を見て、行かないとだなという顔をする。
「嘘はついていませんよ。お習字の教室は、人手不足の時に行きます」
呟いてから、師匠はにこりと笑う。スーツ姿を初めて見たので、一瞬誰か分からなかったのだが、見れば見るほどに師匠そのものだった。整った顔立ちも、優しげな目元も、そこにある色っぽい泣きぼくろも。
そして、何よりもいつもと同じように、着物に焚くお香か練り香水か分からないのだが、和風な香りが師匠であることを証明している。触れてくる手の温もりも、万葉の名前を呼ぶ声音も、驚くほどによく知る師匠そのものだ。
「万葉さんこそ、こちらで何を?」
口元から手が離れて行き、その手が首筋に触れる。指先が、万葉の耳たぶを摘まんだ。そのまま指先がうなじへと伸びて、首の骨を怪しくなぞる。
「その、総務に手伝いを頼まれて……」
もし、総務がミスをしなかったら。先に会議室を出ていなかったら。万葉は今ここでこうして師匠と会うことはなかった。なんというタイミングなんだと、驚きで汗が吹き出しそうになる。
「そうでしたか。僕はもう行かないとなので……今晩、泊まりに来てください。二連泊の予定で」
ちらりと万葉は首からかけられている名札を見る。〈常務〉と書かれた役職に、頭がパニックになって追いつかない。
「万葉さん、聞いていますか?」
「え、あ、はい……」
「明日、いいところへ連れて行ってあげます。今夜は、きっと僕に聞きたいことがたくさんあるでしょうから、お店じゃなくて、家でお待ちしていますね」
そう言うや否や、師匠は万葉の手首をすくい上げる。そして、手の甲にキスをした。
「ではまた夜に、奥さん――」
鍵を開けて、師匠が出て行く。取り残された万葉は、キスされた腕を下ろすこともできないまま、唖然としてその場で呆けた。
「え、夢? まさかね……?」
万葉が給湯室を出て、資料を持ったままふらふらと自分のデスクに戻ろうと歩いていると、総務部のプレゼンに参加しない女子社員たちとすれ違った。会釈をして通り過ぎると、ひそひそ声ながらに黄色い声が聞こえた。
「田中常務見た!? 今日もめっちゃ格好良かった!」
「見た見た、まだ独身なんでしょ?」
「そうそう、独身貴族で結構なプレイボーイだって噂だよ」
「どんな女性でもことごとく振っているらしいよ。でも田中常務になら告白して振られてみたいー!」
わかるー!という声を聞いて、万葉は思わず振り返って彼女たちの後姿を見つめた。
「常務って、田中常務ってまさか……プレイボーイ? 振られてみたい!?」
ぎょっとして万葉は目を見開いたまま、その場でしばらく止まる。先ほど見た師匠の名札と、自分の今の名字を思い出す。先日、トイレで話をしていた常務の話と、今の田中常務が、イコールで結びつく。
しかし、廊下にいつまでも立ち止まっていると、冬の寒さが忍び寄ってくる。ぶるると寒さに震えて、自分自身を抱きしめた。
「……今夜は、たくさん話が必要みたい……」
フリーズする頭は再起動がきかないようで、万葉はデスクに戻るといったん師匠のことを考えるのを止め、さっさと仕事へと戻った。
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