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第3章
第22話
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師匠の家の前に立つと、玄関のライトが付けられており、そのオレンジ色の光に万葉は癒された。ドキドキする心臓を押さえて、冷たい空気を一気に肺へと入れる。そしてチャイムへと指を伸ばす。
『――はい』
「師匠、私です。万葉です」
『……開いてます。どうぞ』
何やら不満そうな声に首をかしげながら万葉が玄関の戸を開けて中に入ると、そこに師匠が立っていた。
「こんばんは、師匠」
「こんばんは」
「お邪魔します」
靴を脱いでそろえてから向き直ると、口をほんの少し尖らせた師匠がずい、と万葉を覗き込んだ。
「あの、師匠? 近いんですけど……」
「万葉さん、僕に言うことは?」
「はい?」
むにっとほっぺたを摘ままれて、万葉は分からずに目を白黒させる。師匠の顔が近づいてきて、耳元でぴたりと止まった。
「ヒントです。ここは貴女のお家ですよ?」
吐息が耳に吹きかかり、これ以上近づくと唇が触れそうな距離だということが分かった。万葉は慌てて思考をフル回転させる。
「えっと……ただいま……?」
「正解です。しかも、合鍵もあるのだから、入ってきていいのに。次間違えたら、耳噛みますからね」
耳元でささやかれて、さっと顔に血がのぼる。それを面白がって師匠が万葉の頭をくしゃくしゃと撫でた。何も言えないままマフラーに顔をうずめて、万葉は引っ張られるままにキッチンへと連れられる。
行くと、先日万葉が持って来ていたワインが、テーブルの上に置かれていた。その隣にはナッツとドライフルーツ、チーズと赤ワインに合うおつまみが品よく並んでいる。
「〆はラグーソースのパスタです。ちょっと辛め。大丈夫ですか?」
「師匠、全部私の好きな物ばっかり……!」
「知っていますよ。だから作ったんです。お礼はそうですね……お酒を注いでもらいましょう」
「そんなことであればお安い御用です!」
二人で席に着くと、師匠がワインの栓を開ける。芳醇な香りが広がり、思わずよだれが出そうになるのを万葉はこらえた。
「では師匠。僭越ながらわたくしが」
「あはは、よろしくお願いします」
師匠とお酒を飲むと楽しい。お酒がなくても楽しいが、こうして食事をするのが、万葉にとって何よりも息抜きだった。
師匠の指先がワイングラスのステムを摘まむ。くるくると回しながら香りを楽しむ姿は、うっとりするほどに美しく、映画のワンシーンのようだった。
お酒には強いはずだったのだが、気がつくと万葉は眠くなってしまっていた。時計を見ても、まだいつもよりも早い時間だ。片づけを終えて、二人でソファに座って話をしながらいると、いつの間にかあくびをかみ殺していた。
「……眠いですか、万葉さん?」
「そうみたいです。珍しい」
「外で飲んでいないですからね、ほっとしちゃったんでしょう。お布団を敷きますから、待ってくださいね。先に、お風呂入りますか?」
「いやいやいや、師匠にそんなことをさせるわけには……お風呂も、師匠の後でいいです」
とは言いつつも、眠気が来ていて、万葉は動きが遅い。万葉が止めるのも聞かずに、師匠はソファから立ち上がると、和室の押入れから布団を取り出して敷いた。
畳の部屋にぽつねんと敷かれた布団が、どことなく寂しく見える。そこは、かつて万葉が泥酔して、師匠に連れて帰ってもらった日に寝た場所だった。
「はい、お布団できましたよ」
「すみません、ご老体に鞭を打たせてしまい……」
「ええまあ。じゃあ、お風呂先にいただきますから、そちらでゆっくりしていてくださいね」
「分かりました。あの、何から何までありがとうございます」
ニコニコと去って行く師匠を見送って、万葉は敷いてもらった布団にゴロンと横になる。
「ああ、井草のいい匂い……」
ふと障子窓から外を見ると、きれいな月がのぼっていた。
――月がきれいですね。
「師匠って、ロマンチックだよなあ……」
初めて会った日に言われた詩的な言葉を思い出して、万葉は月を見つめながらぼうっとした。
「きれいな月」
じっと見ているうちに、いつの間にか万葉の瞼は閉じてしまった。
『――はい』
「師匠、私です。万葉です」
『……開いてます。どうぞ』
何やら不満そうな声に首をかしげながら万葉が玄関の戸を開けて中に入ると、そこに師匠が立っていた。
「こんばんは、師匠」
「こんばんは」
「お邪魔します」
靴を脱いでそろえてから向き直ると、口をほんの少し尖らせた師匠がずい、と万葉を覗き込んだ。
「あの、師匠? 近いんですけど……」
「万葉さん、僕に言うことは?」
「はい?」
むにっとほっぺたを摘ままれて、万葉は分からずに目を白黒させる。師匠の顔が近づいてきて、耳元でぴたりと止まった。
「ヒントです。ここは貴女のお家ですよ?」
吐息が耳に吹きかかり、これ以上近づくと唇が触れそうな距離だということが分かった。万葉は慌てて思考をフル回転させる。
「えっと……ただいま……?」
「正解です。しかも、合鍵もあるのだから、入ってきていいのに。次間違えたら、耳噛みますからね」
耳元でささやかれて、さっと顔に血がのぼる。それを面白がって師匠が万葉の頭をくしゃくしゃと撫でた。何も言えないままマフラーに顔をうずめて、万葉は引っ張られるままにキッチンへと連れられる。
行くと、先日万葉が持って来ていたワインが、テーブルの上に置かれていた。その隣にはナッツとドライフルーツ、チーズと赤ワインに合うおつまみが品よく並んでいる。
「〆はラグーソースのパスタです。ちょっと辛め。大丈夫ですか?」
「師匠、全部私の好きな物ばっかり……!」
「知っていますよ。だから作ったんです。お礼はそうですね……お酒を注いでもらいましょう」
「そんなことであればお安い御用です!」
二人で席に着くと、師匠がワインの栓を開ける。芳醇な香りが広がり、思わずよだれが出そうになるのを万葉はこらえた。
「では師匠。僭越ながらわたくしが」
「あはは、よろしくお願いします」
師匠とお酒を飲むと楽しい。お酒がなくても楽しいが、こうして食事をするのが、万葉にとって何よりも息抜きだった。
師匠の指先がワイングラスのステムを摘まむ。くるくると回しながら香りを楽しむ姿は、うっとりするほどに美しく、映画のワンシーンのようだった。
お酒には強いはずだったのだが、気がつくと万葉は眠くなってしまっていた。時計を見ても、まだいつもよりも早い時間だ。片づけを終えて、二人でソファに座って話をしながらいると、いつの間にかあくびをかみ殺していた。
「……眠いですか、万葉さん?」
「そうみたいです。珍しい」
「外で飲んでいないですからね、ほっとしちゃったんでしょう。お布団を敷きますから、待ってくださいね。先に、お風呂入りますか?」
「いやいやいや、師匠にそんなことをさせるわけには……お風呂も、師匠の後でいいです」
とは言いつつも、眠気が来ていて、万葉は動きが遅い。万葉が止めるのも聞かずに、師匠はソファから立ち上がると、和室の押入れから布団を取り出して敷いた。
畳の部屋にぽつねんと敷かれた布団が、どことなく寂しく見える。そこは、かつて万葉が泥酔して、師匠に連れて帰ってもらった日に寝た場所だった。
「はい、お布団できましたよ」
「すみません、ご老体に鞭を打たせてしまい……」
「ええまあ。じゃあ、お風呂先にいただきますから、そちらでゆっくりしていてくださいね」
「分かりました。あの、何から何までありがとうございます」
ニコニコと去って行く師匠を見送って、万葉は敷いてもらった布団にゴロンと横になる。
「ああ、井草のいい匂い……」
ふと障子窓から外を見ると、きれいな月がのぼっていた。
――月がきれいですね。
「師匠って、ロマンチックだよなあ……」
初めて会った日に言われた詩的な言葉を思い出して、万葉は月を見つめながらぼうっとした。
「きれいな月」
じっと見ているうちに、いつの間にか万葉の瞼は閉じてしまった。
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