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第2章
第17話
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「こんばんは!」
「いらっしゃい、万葉ちゃん。旦那様がお待ちかねですよー!」
居酒屋に入るなり、マスターの強烈なウインクと共に、挨拶が取んでくる。万葉は苦笑いをして、それからカウンター席を見つめた。
そこには、いつもの着流し姿の師匠がやんわりと佇んでいて、万葉を見るとニコッと笑った。
「師匠!」
「こんばんは、万葉さん。何かいいことがありましたか?」
おしぼりを顔にぼふっと当ててから、万葉は顔を上げる。
「はあ、生き返る……。そうなんですよ師匠、今日はノークレームだったの」
「おや、それは良かったですね」
「あ、でも名字が変わったからとかじゃなくて、たまたまノークレームだっただけで……。その、まだ苗字が変わったこと、会社には伝えていません」
「それでも良かったですね。クレームが無いというのは、やっぱり気持ちがいいでしょう?」
それに勢いよく返事をしてから、万葉は鞄からファイルを取り出す。
「師匠、この紙が会社の提出用なんですけど。記入できないところが多すぎて持って帰ってきました」
師匠に渡すと、ああ、とおかしそうに目を細めた。
「そうですよね。僕の住所や電話番号だけじゃなくて、生年月日も知らないですもんね、万葉さんは」
「参っちゃいました」
「……怖いですか、何も知らない人と結婚して?」
師匠が万葉を覗き込む。出されたお通しに目を瞬かせていた万葉は、弾かれたように師匠を見た。
「それ、同僚にも言われました。でも、怖くはないです。だって、師匠だし……。よく知らなくても、師匠のことは何となくわかっています。三年も毎週顔を突き合わせていたんですから」
「僕も、万葉さんのことは何となくわかっていますよ。とっても食いしん坊でお酒が好きで強くて。今日のおすすめの馬刺しも、貴女の好物だってことを、知っています。食べますよね?」
それに万葉はもちろん、と目を輝かせた。馬刺しは万葉の好物だった。たまに居酒屋にも入ってくる時があり、その時は決まって注文する。
「さすが師匠、私の好みをよくご存じで」
「ええ、もちろんですよ。奥さんのことは、たくさん知っておかないとでしょう?」
万葉はそれに顔を真っ赤にした。歯の浮くような台詞だが、師匠が言うと様になってしまう。
「もう、何でも知っていますよ師匠は私のこと……」
師匠の手が伸びてきて、万葉の耳に触れた。驚いて見つめると、柔らかな、でも有無を言わせない視線がある。
「そんなことありませんよ。貴女の肌があんなに柔らかいなんて、知りませんでしたから」
言われて、泥酔の初夜に、気が付かないうちに着替えさせてもらっていたことを思い出して、万葉の全身が発火する。
「僕の一言にそんなに反応する姿も、見たことがありません。嬉しいなあ、いつも枯れてるとか老い先短いってからかってくるから、男として見られていないかと思いましたが……その様子だと、そうでもなさそうですね」
しれっと涼しげに言われて、万葉は自分がいたたまれなくなって、頼んだ熱燗が来ると一気に飲み干した。
「そんなまんざらでもない顔しないでください。僕の方が嬉しくて照れてしまいます。僕のことも、これからたくさん教えてあげますからね、奥さん」
「師匠、奥さんは恥ずかしい……」
ニコニコと食えない笑みをたたえて、したたかなこの男は、誰がどう見ても万葉を落としにかかっているとしか思えなかった。しかしそのことにさえ気がついていないような万葉が、師匠を華麗にかわすすべを、知るはずもない――。
「いらっしゃい、万葉ちゃん。旦那様がお待ちかねですよー!」
居酒屋に入るなり、マスターの強烈なウインクと共に、挨拶が取んでくる。万葉は苦笑いをして、それからカウンター席を見つめた。
そこには、いつもの着流し姿の師匠がやんわりと佇んでいて、万葉を見るとニコッと笑った。
「師匠!」
「こんばんは、万葉さん。何かいいことがありましたか?」
おしぼりを顔にぼふっと当ててから、万葉は顔を上げる。
「はあ、生き返る……。そうなんですよ師匠、今日はノークレームだったの」
「おや、それは良かったですね」
「あ、でも名字が変わったからとかじゃなくて、たまたまノークレームだっただけで……。その、まだ苗字が変わったこと、会社には伝えていません」
「それでも良かったですね。クレームが無いというのは、やっぱり気持ちがいいでしょう?」
それに勢いよく返事をしてから、万葉は鞄からファイルを取り出す。
「師匠、この紙が会社の提出用なんですけど。記入できないところが多すぎて持って帰ってきました」
師匠に渡すと、ああ、とおかしそうに目を細めた。
「そうですよね。僕の住所や電話番号だけじゃなくて、生年月日も知らないですもんね、万葉さんは」
「参っちゃいました」
「……怖いですか、何も知らない人と結婚して?」
師匠が万葉を覗き込む。出されたお通しに目を瞬かせていた万葉は、弾かれたように師匠を見た。
「それ、同僚にも言われました。でも、怖くはないです。だって、師匠だし……。よく知らなくても、師匠のことは何となくわかっています。三年も毎週顔を突き合わせていたんですから」
「僕も、万葉さんのことは何となくわかっていますよ。とっても食いしん坊でお酒が好きで強くて。今日のおすすめの馬刺しも、貴女の好物だってことを、知っています。食べますよね?」
それに万葉はもちろん、と目を輝かせた。馬刺しは万葉の好物だった。たまに居酒屋にも入ってくる時があり、その時は決まって注文する。
「さすが師匠、私の好みをよくご存じで」
「ええ、もちろんですよ。奥さんのことは、たくさん知っておかないとでしょう?」
万葉はそれに顔を真っ赤にした。歯の浮くような台詞だが、師匠が言うと様になってしまう。
「もう、何でも知っていますよ師匠は私のこと……」
師匠の手が伸びてきて、万葉の耳に触れた。驚いて見つめると、柔らかな、でも有無を言わせない視線がある。
「そんなことありませんよ。貴女の肌があんなに柔らかいなんて、知りませんでしたから」
言われて、泥酔の初夜に、気が付かないうちに着替えさせてもらっていたことを思い出して、万葉の全身が発火する。
「僕の一言にそんなに反応する姿も、見たことがありません。嬉しいなあ、いつも枯れてるとか老い先短いってからかってくるから、男として見られていないかと思いましたが……その様子だと、そうでもなさそうですね」
しれっと涼しげに言われて、万葉は自分がいたたまれなくなって、頼んだ熱燗が来ると一気に飲み干した。
「そんなまんざらでもない顔しないでください。僕の方が嬉しくて照れてしまいます。僕のことも、これからたくさん教えてあげますからね、奥さん」
「師匠、奥さんは恥ずかしい……」
ニコニコと食えない笑みをたたえて、したたかなこの男は、誰がどう見ても万葉を落としにかかっているとしか思えなかった。しかしそのことにさえ気がついていないような万葉が、師匠を華麗にかわすすべを、知るはずもない――。
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