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第1章

第9話

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「師匠、やっぱり夢じゃなくて――」

「もう一度見ますか? マスターも喜んでいましたよ。ちなみに婚姻届はコピーを取ってありますので、見たかったら僕の」

「大丈夫です、充分理解できました!」

 万葉はティッシュで顔を拭きながら、目の前に出されたフルーツの盛り合わせとヨーグルト、温かいお茶へと視線を移した。食べましょうと言われて、手を合わせていただきますと呟く。

 師匠をちらりと見ると、コーヒーに小さなビスコッティが二つ置いてあるだけだった。朝はあまり食べないのかなと思っていると、師匠がコーヒーから視線を上げずに口を開いた。

「……嫌、でしたか? 僕と結婚するのは」

 呟いてから師匠の視線が万葉を見つめる。急に男性として意識してしまって、万葉の心臓が鼓動を速めた。

「いや、その、嫌とかじゃなくて。なんていうか、びっくりしちゃって……」

「結婚してくれないかなって言っていたのは、万葉さんの方です。僕は、その希望に応えただけ」

「それは、そうですし、ありがたいんですけど……そもそも、師匠は私と結婚して大丈夫なんですか?」

 師匠のことはよく知らないが、風の噂で女性には困っていないどころか、モテすぎて困るという話を聞いたことがある。さらには四十を越えて未婚。結婚しないのではなく、できない何かがあるのではないかと、疑ってしまうお年頃でもあった。

「何か、心配事でも?」

 見透かされたように言われて、万葉は苺をポロリとフォークから滑り落とした。

「僕が、この年まで未婚だということが、気がかりですか? 遊んでいるだとか、性格に難あり、借金があるなど、不安に思うことがある……」

「ええと……その……大当たりです」

「そう顔に書いてありますから」

 師匠はニコニコと微笑んで、コーヒーにつけたビスコッティを口へと運ぶ。その所作の一つ一つが、今思えば大変に美しく、そして色っぽい。万葉は目のやり場に困って、苺をもう一度フォークの先へ装着して食べた。

 いつもは夜に、薄暗い間接照明の中で話し合う相手が、陽光の下にさらされてその存在がはっきりしてきた感覚だった。訳の分からなかった幻のような印象の人物が、今まさに息をして存在し始めている。

「……借金はありません。遊んでいたのは若い頃でしょう。性格に難ありと言えば、人によってはそう捉えるかもしれませんね」

 急に真顔で話し始めて、万葉はもぐもぐと口を動かしながら師匠を見た。

「なんで結婚しなかったか――したくなかったからですよ」

 ごくんとフルーツを飲み込んでから、万葉は首をかしげた。

「でも、師匠はたしか一昨日、私とだったら結婚してもいいって言いましたよね? 急に結婚したくなったってことですか?」

「さあ、それはどうでしょうね」

「な……ちょっと、ここははぐらかすところじゃなくないですか!?」

「万葉さんはどうなんですか?」

 間髪入れずに言われて、万葉はちょっとしょげた。

「苗字を変えたいって思っていましたけど、いざこんなに簡単に変わっちゃうと、狐に化かされたみたいな感覚というか……つまりは、よく分かりません」

 師匠は穏やかな表情のまま、万葉をじっと見つめていた。
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