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第六章
第52話
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それを取り出すと、塩原に見えないようにしっかりと握り締めたまま、水の中に隠した。
塩原は大きな足場に足を乗せながら、俺を見下ろしていた。
網に捕まっている左手が、限界に近づいてきている。ただでさえ水圧の中で身体を支えるのは大変なことだから、筋肉が痙攣し始めそうだった。
塩原が、岩に引っかかっている網の部分を再度はずそうとしているのが見えた。
「あの鯉には僕の願いを叶えてもらう」
「させない。あの鯉は、俺の願いを運んでいるんだ」
俺は渾身の力を込めて、塩原の足元を笏で薙ぎ払った。
「……うわ!」
網を外そうと前かがみになっていた塩原は、容易に体勢を崩して落ちていった。
「――――!」
塩原の声は、水の音にかき消されて俺の耳には届かなかった。数秒後に、なにかが滝つぼに落ちる音だけは、はっきりと聞こえた。
ひりひりする左手を押さえて、俺は岩をよじ登る。ところが、俺の体重に耐え切れなくなって、網が嫌な音を立てて裂けた。
「まずいっ!」
俺はどうにかもう一段上の、出っ張った岩に腕を伸ばす。水勢がすさまじくて流されそうになるのを、必死に滑る岩肌に爪を這わせて掴んだ。
ぐっと岩に両腕を巻きつけると、鉛みたいに重たい身体を引っぱり上げて崖から這い上がる。鯉を蹴らないよう、慎重に足場を探しつつ滝をのぼった。
崖のてっぺんまで来ると、岸辺までずるずると身体を引きずった。
陸に到着したところで身体を安全な岩場に投げだす。息が上がり、空気を肺に入れるだけで体中が軋んだ。
「いってぇ……」
口の中も切れているのか、錆びた味がじわりと広がる。背中の痛みが尋常ではないから、おそらくでっかい傷になっているはずだ。
斎服はぼろぼろに破けていたし、血が滲んでいる。岩に着物の一部を引っかけて破くと、腕の出血した部分に巻き付けた。
すぐに布が赤くなっていくのを見ていると痛みがぶり返しそうな気がしたので、目をそらした。
背中が熱い。岩で引っかいたのか、横腹からも血が滲み出ていた。左手の爪も二つ割れている。
身体のあちこちが軋むようで、いったどこが痛いのかわからなかった。
そして大切なことを思い出す。
「そうだ……鯉、俺の鯉は……!?」
水の落ちる際まで見に行きたいのだが、身体が疲れていて言うことをきかない。目をつぶって息を整えることしかできなかった。
歩こうとしたのだが、水中に倒れた。ゴホゴホせき込んでいると、視界の右端がやけに明るくなってきた。
倒れた身体を起こしながら、明るくなってきたほうを見た。
朝日だろうか。それとも、来てくれた大人たちの懐中電灯か。
「えっ―――……!」
たぶん十七年間生きてきた中で一番驚いた。
滝面に鯉がいた。
しかし、それはどうみても鯉ではなかった。
鱗のある前足が生えている。それよりも、もっと驚いたのは、鯉の身体が金色に光っていることだった。
「……茅野」
俺はその場でぽかんとしたまま、今ここに居ない少女の名前を呼んだ。
「茅野、聞いて……夢かな? 俺の鯉が金色に光ってるんだ。疲れてて、幻覚でも見てるのかな?」
俺は瞬きするのも忘れて鯉を見守った。
尾ひれは付いているが、前足が生え髭も異様に伸びている。
目の前で鯉の全長が長くなり、硬そうなうろこが身体中に一瞬で生えた。四つの色の混じる、美しい鱗だった。
視界が滲んできて、目をつぶった。再度目を開けると、そこには龍に成った鯉がいた。
「茅野、俺の願いが叶うよ。みんなの幸せな未来が来るよ」
朝日が顔を出したがってうずうずしている。
東の空が眩しい。
朝の白い光を背に、龍はゆっくりと目を開ける。漆黒の瞳が俺を見つめた。
龍は天空に向かって透き通った声で咆哮した。声の余韻がまだ残っているうちに、滝から這い上がってきた三頭も龍に成って横に並ぶ。
最初の龍が、俺に向かって尻尾で水をかけてきた。顔面がびしょびしょになったところで、俺はクスクス笑った。
「このやろう。最後の最後まで、水をかけてきやがって……」
三頭の龍がまた空に向かって吠えた。その声が遠くの空に消えると、朝日が大きく白く辺りを照らして青空が風とともに現れる。
龍の姿が逆光で黒く切り抜かれ、輪郭が金色に輝いていた。龍は身体を一瞬震わせて鱗を立ち上がらせた。
「じゃあな……ありがとう」
龍が光の粉を撒き散らすと、今まで滝を登ってきていた鯉たちが宙に浮き、光に吸い寄せられていく。
きらきらと舞い落ちる光の粉は、あの日の雪と重なって見えた。
――茅野と出会った雪の日だ。
七色の光の跡を残して、龍は鯉たちを引き連れると溶けるようにどこかへ行ってしまった。
俺の願いは、この世のどこかにいる誰かによって叶えられるのだろう。
人々が神様と呼ぶそれに、俺は心を込めて感謝した。
「茅野。鯉が龍になったんだ。この目で見たよ」
見届けると急に俺の身体が軽くなった。
塩原は大きな足場に足を乗せながら、俺を見下ろしていた。
網に捕まっている左手が、限界に近づいてきている。ただでさえ水圧の中で身体を支えるのは大変なことだから、筋肉が痙攣し始めそうだった。
塩原が、岩に引っかかっている網の部分を再度はずそうとしているのが見えた。
「あの鯉には僕の願いを叶えてもらう」
「させない。あの鯉は、俺の願いを運んでいるんだ」
俺は渾身の力を込めて、塩原の足元を笏で薙ぎ払った。
「……うわ!」
網を外そうと前かがみになっていた塩原は、容易に体勢を崩して落ちていった。
「――――!」
塩原の声は、水の音にかき消されて俺の耳には届かなかった。数秒後に、なにかが滝つぼに落ちる音だけは、はっきりと聞こえた。
ひりひりする左手を押さえて、俺は岩をよじ登る。ところが、俺の体重に耐え切れなくなって、網が嫌な音を立てて裂けた。
「まずいっ!」
俺はどうにかもう一段上の、出っ張った岩に腕を伸ばす。水勢がすさまじくて流されそうになるのを、必死に滑る岩肌に爪を這わせて掴んだ。
ぐっと岩に両腕を巻きつけると、鉛みたいに重たい身体を引っぱり上げて崖から這い上がる。鯉を蹴らないよう、慎重に足場を探しつつ滝をのぼった。
崖のてっぺんまで来ると、岸辺までずるずると身体を引きずった。
陸に到着したところで身体を安全な岩場に投げだす。息が上がり、空気を肺に入れるだけで体中が軋んだ。
「いってぇ……」
口の中も切れているのか、錆びた味がじわりと広がる。背中の痛みが尋常ではないから、おそらくでっかい傷になっているはずだ。
斎服はぼろぼろに破けていたし、血が滲んでいる。岩に着物の一部を引っかけて破くと、腕の出血した部分に巻き付けた。
すぐに布が赤くなっていくのを見ていると痛みがぶり返しそうな気がしたので、目をそらした。
背中が熱い。岩で引っかいたのか、横腹からも血が滲み出ていた。左手の爪も二つ割れている。
身体のあちこちが軋むようで、いったどこが痛いのかわからなかった。
そして大切なことを思い出す。
「そうだ……鯉、俺の鯉は……!?」
水の落ちる際まで見に行きたいのだが、身体が疲れていて言うことをきかない。目をつぶって息を整えることしかできなかった。
歩こうとしたのだが、水中に倒れた。ゴホゴホせき込んでいると、視界の右端がやけに明るくなってきた。
倒れた身体を起こしながら、明るくなってきたほうを見た。
朝日だろうか。それとも、来てくれた大人たちの懐中電灯か。
「えっ―――……!」
たぶん十七年間生きてきた中で一番驚いた。
滝面に鯉がいた。
しかし、それはどうみても鯉ではなかった。
鱗のある前足が生えている。それよりも、もっと驚いたのは、鯉の身体が金色に光っていることだった。
「……茅野」
俺はその場でぽかんとしたまま、今ここに居ない少女の名前を呼んだ。
「茅野、聞いて……夢かな? 俺の鯉が金色に光ってるんだ。疲れてて、幻覚でも見てるのかな?」
俺は瞬きするのも忘れて鯉を見守った。
尾ひれは付いているが、前足が生え髭も異様に伸びている。
目の前で鯉の全長が長くなり、硬そうなうろこが身体中に一瞬で生えた。四つの色の混じる、美しい鱗だった。
視界が滲んできて、目をつぶった。再度目を開けると、そこには龍に成った鯉がいた。
「茅野、俺の願いが叶うよ。みんなの幸せな未来が来るよ」
朝日が顔を出したがってうずうずしている。
東の空が眩しい。
朝の白い光を背に、龍はゆっくりと目を開ける。漆黒の瞳が俺を見つめた。
龍は天空に向かって透き通った声で咆哮した。声の余韻がまだ残っているうちに、滝から這い上がってきた三頭も龍に成って横に並ぶ。
最初の龍が、俺に向かって尻尾で水をかけてきた。顔面がびしょびしょになったところで、俺はクスクス笑った。
「このやろう。最後の最後まで、水をかけてきやがって……」
三頭の龍がまた空に向かって吠えた。その声が遠くの空に消えると、朝日が大きく白く辺りを照らして青空が風とともに現れる。
龍の姿が逆光で黒く切り抜かれ、輪郭が金色に輝いていた。龍は身体を一瞬震わせて鱗を立ち上がらせた。
「じゃあな……ありがとう」
龍が光の粉を撒き散らすと、今まで滝を登ってきていた鯉たちが宙に浮き、光に吸い寄せられていく。
きらきらと舞い落ちる光の粉は、あの日の雪と重なって見えた。
――茅野と出会った雪の日だ。
七色の光の跡を残して、龍は鯉たちを引き連れると溶けるようにどこかへ行ってしまった。
俺の願いは、この世のどこかにいる誰かによって叶えられるのだろう。
人々が神様と呼ぶそれに、俺は心を込めて感謝した。
「茅野。鯉が龍になったんだ。この目で見たよ」
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