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第五章 戦場へ
第47話
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「――結局、みんな寝ずじまいだな」
二日間、寝る間も食事も惜しんで作業をした莉美の手は限界を迎えていた。描かねばならぬと、筆を手に布で括りつけて作業した。
それでも疲労で動かなくなってくると、今度は左手を添えて描く。もう限界になって口で筆を加えたところで、さすがに楊梅に止められた。
痛みはとっくになくなっており、重さと痺れしかない。気が付けば身体も岩のようになっていた。
「あともう少しなんです」
「今は休め、まったく、こんなにまでなって」
楊梅は塗り薬を持ってくると、莉美の右手に塗り込んでいく。楊梅にさせるわけにはいかないと思ったのだが、断ったところで手を固定されるだけなので、無駄な抵抗をするのは止めた。
「仮眠を取ろう。わたしもそうする」
「私は大丈夫です、楊梅様はお休みになって」
「こういう時、しっかり休息を取れるのが良い指揮官だ」
言うと、楊梅は分厚い敷物を何重にも敷いた搨牀に、身体を横たえてしまう。座墊を枕にして身体を休めた。
「莉美はわたしの寝台を使っていい」
「否……ここでいいです」
「命令だが?」
莉美はうっと声を詰まらせた後、ならばと、上衣や座墊を引き寄せ、楊梅の近くに腰を下ろすと彼に手を伸ばした。
「手を繋いでいてもらえませんか? 楊梅様の龍の氣のおかげなのか、触れていると安心します」
「わかった」
手当てというのは、人の手を当てると書く。まさしく、楊梅の手に触れていると心地よく、莉美は眠気がやってきた。
「巡り逢わせが、きちんと嵌ったんだ……」
出会った当初、楊梅は巡り逢わせが悪いと言った。今となっては、そんなことがなかったと思える。今やっと、自分の力を最大限発揮する時が来た。
唸りながら起き上がり、鏡の前に顔を突き出すと眉間にくっきり皺が刻まれている。楊梅の姿はなかったが、まだ布団は温かい。ほんの少しだけでも休憩できた。
「……痛みが消えてる」
じくじくと蝕むような右手の痛みも疲れも取れ、またすぐにでも描けるような気がしてくる。眉間の皺を引き延ばすように経穴を押ししながら、莉美は疲れの取れ切れていない身体に鞭打って支度を始める。
窓を開けるともうすぐ夜明けだ。
「六刻(約三時間)は余裕があるはず。すぐに描かなくちゃ……でも今からじゃ北の城壁に間に合わない」
ぱんぱんと両頬を自分の手のひらで叩いてから、莉美は急いで支度をする。外に出ると、莉美のために御者と馬車が待ってくれていた。
乗り込むなり、莉美は筆を手に取る。絶対に大丈夫だと自分に言い聞かせ、馬車の中で絵を描き始める。
集中して描いていたので、カリカリ引っ搔く音に気付いた時には、空が白んでいた。なんの音だろうと立ち上がり、入り口に近づくと『きゃん!』という甲高い可愛らしい鳴き声が聞こえてきた。
「この声、まさか」
馬車の中をあちこち探すと、紙が出てくる。一枚は白宝のものだ。しかし、白宝の画面に彼はいない。
「白宝?」
焦ったところで、『きゃん!』と可愛い声が聞こえてきた。
後ろを振り返ると、そこには短い尻尾を千切れるくらい振り続けている白い毛にも似た仔犬がいた。手を差し伸べると、しゃがんだ膝の上に乗っかってきて甘え始める。
よしよしと撫でていると、首になにかが巻き付いていた。もふもふとした毛並みを掻き分けて首に巻かれたそれを手に取ると、首輪に紙が巻き付けてある。
「通信文……?」
開けてみてみると、凱泉から兵の準備が整ったことが記されている。一昨日の夜、急遽凱泉に頼まれて莉美が描いたものがあった。その設置が終わったらしい。
文末には短く、感謝の意が書き添えてある。いかにも凱泉らしい、几帳面な文字に莉美はくすっと笑ってしまった。
「まさか、これを届けるために最後の力を使って出てきてくれたの?」
白宝は絵に戻ってしまっていたはずだ。しかし、生まれ出てすぐ莉美に飛びついた時に、ほんの少しの擦り傷から出た血を舐めていたのだろう。
『きゃん!』
楽しそうに尻尾を振る姿が、だんだんぼんやり霧散していく。莉美は慌てて台紙を近づけた。
莉美は紙に戻って行く白宝に顔をうずめた。柔らかくて温かい温もりが伝わってくる。
「白宝、私の絵から生まれてくれてありがとう」
莉美は再度、仔犬を抱きしめた。めいっぱい撫でまわしてから、莉美は彼を紙の中に座らせる。『きゃん!』と人無きすると、そこには丸くてふわふわな白い犬の絵になった。
「楊梅様の許可が取れたら、あなたたちをもっと確実なものにしてあげる。待っていてね」
楊梅ももう城壁に向けて発っただろう。
今からは、自分のやるべきことを最後まできっちりするだけだ。
あんなに賑やかだった街には人気がない。城も兵たちは出払っているし、下女たちも避難した。
何気ない日常が、こんなにもすぐに壊れるなんて。そして、自分たちの暮らしを守ってくれている人がいること、支えあって生きていくことの大事さを、今やっと莉美は感じている。
美味しい食事も、使う道具も、来ている着物も。莉美一人ではどうにもできない。それらを作る人がいて、お互いが得意なことでできることで、お互いの人生を支えて豊かになっていく。
だから莉美は、今までこの暮らしを支えてくれた彼らを守りたいと思った。自分の力で、できる限り。求められたのなら、応えるまでだ。
今日は、長い一日になるだろう。
「うん、頑張ろう」
莉美は再度筆を握りしめる。そして最後の絵を完成させると、楊梅の元に急いだ。
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