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第四章 戦いの始まり
第36話
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「調子はどうだ?」
莉美は首を横に振る。描いても描いても猩々が出てきてくれないので、手がかりを求めて書物を読み漁っているがさっぱりだ。
小部屋に移動し、猩々を描いた後をみせつつ、莉美は肩を落とした。
「いずれ、必ず手がかりが見つかるはずだ」
「だといいのですが……楊梅様、ちょっと近くに来てくれませんか?」
莉美は楊梅の手を握る。長手甲で隠されているが、その下の皮膚には美しい金色の鱗があるのだ。それを思い出しながら莉美は小さな蝶を描く。
途端、紙から抜け出してきてヒラヒラ空中を舞い始めた。窓の外に逃げて行ったそれを、天天が追いかけ始める。
「楊梅様がお近くにいるだけで、能力が安定します。楊梅様は、やっぱり貴族ですよね? それか、仙星のどちらか……なぜ、お隠しになるんでしょう?」
莉美は意を決して楊梅に向き直った。
「宮廷に行けば、私の力が安定する可能性はないでしょうか?」
「――ならぬ」
頭ごなしに即座に却下されて、莉美はがっかりした。
「そんな所を訪ねて、莉美の能力が露見したらどうする?」
楊梅はさらに眉根を寄せる。
「皇太后は、裏で権力と金を使って臣下を買っている。だから優秀な官が多く集まっているように見えているが、胸の内は打算的な者ばかりだ。確実にお前は利用されて潰える。兄上はそうじゃないと思うが……」
つまり、莉美の能力が知られたら、悪用されかねないと楊梅は忠告しているのだ。
「危険かもしれないですが、なにかわかることが少しでもあれば。ごたごたが落ち着いてからでもいいですし」
「駄目だ莉美。宮廷に近づくことは禁じる」
「命令ですか?」
楊梅は頷く。
「お前のことを、喉から手が出るほど欲しいと思う輩はごまんといる」
「でも、私に能力の制御をお命じになったのは楊梅様です」
「もちろんそうだが、それとこれは別の話だ」
納得いかないが、命令とあらば「わかりました」と言うほかない。莉美が口を閉じると、楊梅は気まずそうに身じろぎをした。
「すまない莉美……お前を他の人に奪われたくない」
この命は楊梅のものだ。だから、楊梅は正当に所有しているわけで、獲られたくないという主張もよくわかる。しかし同時に、力の制御を求めてきたのも楊梅だ。
「……楊梅様が玉座に就いてくれたらいいのに」
お印だってあるのにと呟くと、楊梅は明らかに動揺した。
莉美は楊梅を見上げた。
「楊梅様の右手はお印ですよね」
黄龍の姿は、絵師であればだれでも描くものの一つだ。莉美だって、右手がこうなる前には幾度となく描いていた。だから、楊梅の右腕の鱗が黄龍に似ていることなどすぐにわかる。
橡は灰汁を使って染めれば黄色になり、楊梅も黄色の染め物になる。どちらも黄色に通ずることから、楊梅自身に黄龍を投影しているのではないだろうか。
「それに今、璿環皇帝のことを、兄上と」
「わたしは、お前のことを愚かだと思ったことは一度もない。自分のことは愚かでどうしようもない奴だと思っているが」
ため息を吐きながら、楊梅は小さな搨に腰を下ろす。どうやらもう、隠す気はないようだ。莉美は彼が口を開くのを待った。
「どこから話そうか……。きっかけはそう、母が亡くなった時だ」
三番目の皇子として生まれた楊梅は、『瀏琰』と名付けられた。長男である璿環の次に生まれた男児で喜ばれるかと思いきや、そうではなかった。
なにしろ瀏琰を生んだのは、弼皇帝が巡業中に出会った雑技団の射手だったのだから。妃として後宮に召し上げられたものの、待遇は最下位もいいところ。侍女さえつけてもらえない、貧相な暮らしだった。
瀏琰の母はそんなことを気にする性格ではなかった。いつも後宮の壁の隙間から抜け出し、裏手の山に入って自作の弓矢で獣や鳥を射っては、息子とともにのびのび暮らしていた。
宮廷のしきたりにも従わず、陰湿ないじめにも見向きもしなかった彼女はやがて居ないものとして扱われるようになった。
それで彼女は気が楽だったし、瀏琰も不満はなかった。だが、無いものとして扱われただけであって、実際に居ないわけではない。
皇后はずっと瀏琰の母のことを覚えていて、ある日突然、彼女を殺した。本当に無いものにし、そして瀏琰をすぐさま廃太子として処理し、投獄した。
だが当時の掖庭(宮城内の警察)は、あまりにもやせ細った幼い瀏琰を哀れに思ったのか、皇后の言いつけよりも軽く鞭を打った後、言われた通り裏山に放り出した。
獣に喰われてしまえという皇后の願いはかなわず、瀏琰は生き延びた。さ迷い歩くうちに人買いに拾われ、それがたまたま違法な商いをしていた輩だったため、鄧将軍の監視網に引っ掛かり、楽芙にたどり着くことになる。
身分を隠し、名前を変え、楊梅として生きることに慣れるまで、そう時間はかからなかった。
「作法も軍法も勉学も、鄧将軍はすべて享受してくれた恩人だ。だからこそ、わたしを匿っていると露呈するわけにはいかない。この印が現れ始めた時に、莫迦を演じることを決めたのだ」
それで、楊梅はぼんくらになった。もちろん、自分や育て親を守るためだけではなく、鄧将軍の大事にしている民を守る意味もあって。
「それに、鄧将軍は優秀すぎる。留守をわたしが預かることで、抑圧されたものが噴き出す……摘発するのにもちょうど良い」
燕青の言っていた通り、楊梅は様々なものを隠し、自分を偽り生きてきた。
あまりにも壮絶な過去に、莉美は言葉を失くしていた。
そんなことを経験した楊梅に対し、玉座に就いてほしいなどと言った自分の安易な思考を恥じるしかない。
彼が玉座を望むということは、多くの死者が出るということだ。だから、楊梅はそれを望まない。
莉美が口を開くより先に、楊梅が大きなため息を吐く。
「楊梅様、申し訳――」
名前を強く呼ばれ、両肩に楊梅の手が乗せられる。
「とにかく皇太后や宮廷に近づくことはやめてくれ。危険以外の何物でもない」
切実な声音で囁かれ、莉美は頷く。
「……ほかに方法がないか調べます」
「そうしてほしい」
楊梅は重たく息をつくと、莉美の手をぎゅっと握ってから府庫を去っていく。
彼が部屋からいなくなると同時に、窓の外から戻ってきた蝶はばたんと床に落ちて消え、そのまま消滅していってしまう。
床に広がった小さな墨の染みの跡を見て、莉美はずうんと胸が重たくなるだけだった。
莉美は首を横に振る。描いても描いても猩々が出てきてくれないので、手がかりを求めて書物を読み漁っているがさっぱりだ。
小部屋に移動し、猩々を描いた後をみせつつ、莉美は肩を落とした。
「いずれ、必ず手がかりが見つかるはずだ」
「だといいのですが……楊梅様、ちょっと近くに来てくれませんか?」
莉美は楊梅の手を握る。長手甲で隠されているが、その下の皮膚には美しい金色の鱗があるのだ。それを思い出しながら莉美は小さな蝶を描く。
途端、紙から抜け出してきてヒラヒラ空中を舞い始めた。窓の外に逃げて行ったそれを、天天が追いかけ始める。
「楊梅様がお近くにいるだけで、能力が安定します。楊梅様は、やっぱり貴族ですよね? それか、仙星のどちらか……なぜ、お隠しになるんでしょう?」
莉美は意を決して楊梅に向き直った。
「宮廷に行けば、私の力が安定する可能性はないでしょうか?」
「――ならぬ」
頭ごなしに即座に却下されて、莉美はがっかりした。
「そんな所を訪ねて、莉美の能力が露見したらどうする?」
楊梅はさらに眉根を寄せる。
「皇太后は、裏で権力と金を使って臣下を買っている。だから優秀な官が多く集まっているように見えているが、胸の内は打算的な者ばかりだ。確実にお前は利用されて潰える。兄上はそうじゃないと思うが……」
つまり、莉美の能力が知られたら、悪用されかねないと楊梅は忠告しているのだ。
「危険かもしれないですが、なにかわかることが少しでもあれば。ごたごたが落ち着いてからでもいいですし」
「駄目だ莉美。宮廷に近づくことは禁じる」
「命令ですか?」
楊梅は頷く。
「お前のことを、喉から手が出るほど欲しいと思う輩はごまんといる」
「でも、私に能力の制御をお命じになったのは楊梅様です」
「もちろんそうだが、それとこれは別の話だ」
納得いかないが、命令とあらば「わかりました」と言うほかない。莉美が口を閉じると、楊梅は気まずそうに身じろぎをした。
「すまない莉美……お前を他の人に奪われたくない」
この命は楊梅のものだ。だから、楊梅は正当に所有しているわけで、獲られたくないという主張もよくわかる。しかし同時に、力の制御を求めてきたのも楊梅だ。
「……楊梅様が玉座に就いてくれたらいいのに」
お印だってあるのにと呟くと、楊梅は明らかに動揺した。
莉美は楊梅を見上げた。
「楊梅様の右手はお印ですよね」
黄龍の姿は、絵師であればだれでも描くものの一つだ。莉美だって、右手がこうなる前には幾度となく描いていた。だから、楊梅の右腕の鱗が黄龍に似ていることなどすぐにわかる。
橡は灰汁を使って染めれば黄色になり、楊梅も黄色の染め物になる。どちらも黄色に通ずることから、楊梅自身に黄龍を投影しているのではないだろうか。
「それに今、璿環皇帝のことを、兄上と」
「わたしは、お前のことを愚かだと思ったことは一度もない。自分のことは愚かでどうしようもない奴だと思っているが」
ため息を吐きながら、楊梅は小さな搨に腰を下ろす。どうやらもう、隠す気はないようだ。莉美は彼が口を開くのを待った。
「どこから話そうか……。きっかけはそう、母が亡くなった時だ」
三番目の皇子として生まれた楊梅は、『瀏琰』と名付けられた。長男である璿環の次に生まれた男児で喜ばれるかと思いきや、そうではなかった。
なにしろ瀏琰を生んだのは、弼皇帝が巡業中に出会った雑技団の射手だったのだから。妃として後宮に召し上げられたものの、待遇は最下位もいいところ。侍女さえつけてもらえない、貧相な暮らしだった。
瀏琰の母はそんなことを気にする性格ではなかった。いつも後宮の壁の隙間から抜け出し、裏手の山に入って自作の弓矢で獣や鳥を射っては、息子とともにのびのび暮らしていた。
宮廷のしきたりにも従わず、陰湿ないじめにも見向きもしなかった彼女はやがて居ないものとして扱われるようになった。
それで彼女は気が楽だったし、瀏琰も不満はなかった。だが、無いものとして扱われただけであって、実際に居ないわけではない。
皇后はずっと瀏琰の母のことを覚えていて、ある日突然、彼女を殺した。本当に無いものにし、そして瀏琰をすぐさま廃太子として処理し、投獄した。
だが当時の掖庭(宮城内の警察)は、あまりにもやせ細った幼い瀏琰を哀れに思ったのか、皇后の言いつけよりも軽く鞭を打った後、言われた通り裏山に放り出した。
獣に喰われてしまえという皇后の願いはかなわず、瀏琰は生き延びた。さ迷い歩くうちに人買いに拾われ、それがたまたま違法な商いをしていた輩だったため、鄧将軍の監視網に引っ掛かり、楽芙にたどり着くことになる。
身分を隠し、名前を変え、楊梅として生きることに慣れるまで、そう時間はかからなかった。
「作法も軍法も勉学も、鄧将軍はすべて享受してくれた恩人だ。だからこそ、わたしを匿っていると露呈するわけにはいかない。この印が現れ始めた時に、莫迦を演じることを決めたのだ」
それで、楊梅はぼんくらになった。もちろん、自分や育て親を守るためだけではなく、鄧将軍の大事にしている民を守る意味もあって。
「それに、鄧将軍は優秀すぎる。留守をわたしが預かることで、抑圧されたものが噴き出す……摘発するのにもちょうど良い」
燕青の言っていた通り、楊梅は様々なものを隠し、自分を偽り生きてきた。
あまりにも壮絶な過去に、莉美は言葉を失くしていた。
そんなことを経験した楊梅に対し、玉座に就いてほしいなどと言った自分の安易な思考を恥じるしかない。
彼が玉座を望むということは、多くの死者が出るということだ。だから、楊梅はそれを望まない。
莉美が口を開くより先に、楊梅が大きなため息を吐く。
「楊梅様、申し訳――」
名前を強く呼ばれ、両肩に楊梅の手が乗せられる。
「とにかく皇太后や宮廷に近づくことはやめてくれ。危険以外の何物でもない」
切実な声音で囁かれ、莉美は頷く。
「……ほかに方法がないか調べます」
「そうしてほしい」
楊梅は重たく息をつくと、莉美の手をぎゅっと握ってから府庫を去っていく。
彼が部屋からいなくなると同時に、窓の外から戻ってきた蝶はばたんと床に落ちて消え、そのまま消滅していってしまう。
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