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第三章 楊梅の秘密
第26話
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――能力を使うには、波がある。
楊梅が一緒にいた時に絵がいうことを聞いたのであれば、楊梅のほうに莉美の能力を安定させるなにかが備わっていると考えるのが妥当だ。
そう莉美は仮説を立てていた。
検証をするため、楊梅に時間がある時に府庫に来てもらう約束をしたのは二日前。
「……最近、楊梅様がふらりとどこかに居なくなると思っていましたが……」
唸りながら府庫内の小部屋に入ってきたのは、頭から怒気を噴出させた凱泉だ。彼が入って来るなり、莉美は青ざめて楊梅は苦笑いを返した。
「まさか、ここで油を売っていたとは! これから調練だというのに!」
凱泉はそこまで言い放つと、一周回って怒りが消えてしまったようだ。
「わたしが側に居ると、莉美の力が安定するかもしれない……というのを検証しているのだ。わたしのものに目をかけるのは悪いことではないはずだが?」
楊梅の正論を聞いてから、それでもなお納得いかない凱泉は口を開いた。
「それはとてつもなくご立派なお考えであることは認めます。が、いいですか、誠に勝手ながら一言いわせていただきますと、楊梅様にはお立場というものがあって――」
「わかっている。だが、仕事はきっちりしている。お前に押し付けて」
「それはもちろん、完璧にそつなくぼんくらでいただいておりますし――」
「凱泉のような優秀な部下がいるので、安心して抜け出せている」
褒められてしまった凱泉は、表情こそ変えないものの一瞬言葉を詰まらせた。
「しかし、あまり莉美殿に肩入れしている素振りがあると、ほかの臣下に示しがつかないと言いますか」
「放っておけ。どうせ誰に肩入れしても、でくのぼうの気まぐれと言われるだけだ」
おっしゃる通りです、と思わず凱泉は頷いている。しかし、とさらになにか言おうとした凱泉を、莉美の驚いた声が遮った。
「あっ!」
描いていた餓鬼が、いきなり紙から抜け出てしまった。手をするりと抜け、楊梅の側を横切ってしまう。さらに凱泉が立っている戸口から外に出ようと、キャッキャ走っていく。
逃したら府庫内で暴れてしまうかもしれない。
潰して所蔵資料に墨が飛び散ったら、首ごとすっ飛ばされてしまいかねないと莉美の意識が飛びそうになった時。
「……人の話を遮るな!」
怒声とともに餓鬼を瞬時に片手で捕まえたのは、ほかでもない入り口に立っている凱泉だ。声こそ怒っているものの、やはりいつもと変わらぬ仏頂面のまま、捕まえた餓鬼をぎゅっと握って目の高さまで持ち上げて睨みつけている。
「まったく、どうしておとなしくできないのだ、莉美殿の絵は!」
餓鬼はキイキイ言いながら逃げようとするのだが、凱泉の凄まじい握力によって抜け出ることはおろか、動くことさえできずにいる。
「とにかく、楊梅様はここに立ち入る頻度を控えてください。莉美殿も楊梅様抜きで仕事に没頭してもらわねば困ります!」
口火を切って言い始めてしまうと、凱泉はまだグチグチが収まらない。その間、彼の手に握られた餓鬼はずっと大暴れしていた。
だがそのうち疲れ始め、さらに凱泉に強く握られると観念したのかおとなしくなってしまった。
「……すごい、凱泉様」
「自分で生み出したものくらい、ご自身でどうにかしてください。そのための研究でしょう!」
握り潰されている餓鬼は、哀れに思うくらいすっかりしょげてしまっている。凱泉は「失礼!」というなり部屋の中に入ってくると、卓上の真っ白な紙に餓鬼を思い切り押し込めた。
餓鬼はギャアギャア騒いでいたのだが、人を殺しそうな勢いの凱泉に睨まれると、しょぼんとして紙におとなしく入っていき、ただの絵に戻った。
「……凱泉の調練のあと、兵たちが死者のようになっている理由がわかった気がする」
楊梅の呟きに、莉美も思わずうんうんと頷いてしまい、凱泉にキッと睨まれた。
「凱泉。なにか莉美の力が落ち着く方法を、お前も思いつかないか?」
怒りの矛先を向けられる前に、楊梅が凱泉に訊ねてくれた。また抜けだそうとしてちょろりと顔を出した餓鬼に凄んでから、凱泉はその紙を手に持つと、折りたたんでしっかり両手で圧縮して懐にしまい込んだ。
「……こんな狭いところで、訳のわからない生き物を描いているからいけないのです。外は晴れております」
息抜きをしろという遠回しな言いかたが凱泉らしくて、楊梅も莉美も笑ってしまった。
「そうだな。莉美も外で描こう」
「それはもっともなご意見なのですが……もし、絵が逃げだしたら捕まえられなくなります」
「凱泉もわたしもいるのだから大丈夫だ。さっきの凱泉の怖さと、餓鬼を捕らえた素早さは見事だっただろう?」
「それはもう、背筋が凍り付くくらいにすごかったです」
じろりと上から凱泉に見つめられて、莉美はあいまいに笑ってごまかした。
気分転換に三人で小部屋から出ると、中院を歩き始める。奇峰怪石が絶妙に連なり、水亭がいくつか設置されており、池をぐるりと巡るように低い樹木が植えられている。
さらに春を告げるように明礬の花が咲き、あちこちから瑞香の甘くかぐわしい匂いがしていた。
道具を持って外に出たのはいいのだが、莉美は外で絵を描く気は毛頭ない。もたもたしていると、凱泉がぴたりと歩を止めた。
「莉美殿。鬼じゃないものを描いてみてはどうです?」
仏頂面のまま莉美を見下ろしてくる。
「部下の不始末は上官がするものです」
「私、凱泉様の部下だったんですね……初めて知りました」
「いいから、やってみてください。早く莉美殿の力が安定しなくては、楊梅様をまた四方八方探さなくてはならず困ります」
姿が見えない楊梅を探し回っていたのかと思うと、莉美は笑いが込み上げてきてしまった。
上背のある楊梅よりもさらに大柄な凱泉が、仏頂面のままあたふたしている姿は想像するだけで可愛らしい。
「描いていてくださいね。さもないと夕餉は抜きです」
「それは困ります」
楊梅と凱泉が難しい話をしながら池に向かったのを見届けると、莉美はちょうどいい塩梅の石に腰を下ろし、墨を磨りはじめた。
「逃げたとしても困らなくて、かつ、それほどすばしっこくなくて掴まえられるもの……」
さらに、府庫の敷地から外に出たとしても、誰も困らない生き物。莉美は少し考えてから、筆に墨を浸しさらさらと描き始めた。
そして描き終わった直後。
楊梅が一緒にいた時に絵がいうことを聞いたのであれば、楊梅のほうに莉美の能力を安定させるなにかが備わっていると考えるのが妥当だ。
そう莉美は仮説を立てていた。
検証をするため、楊梅に時間がある時に府庫に来てもらう約束をしたのは二日前。
「……最近、楊梅様がふらりとどこかに居なくなると思っていましたが……」
唸りながら府庫内の小部屋に入ってきたのは、頭から怒気を噴出させた凱泉だ。彼が入って来るなり、莉美は青ざめて楊梅は苦笑いを返した。
「まさか、ここで油を売っていたとは! これから調練だというのに!」
凱泉はそこまで言い放つと、一周回って怒りが消えてしまったようだ。
「わたしが側に居ると、莉美の力が安定するかもしれない……というのを検証しているのだ。わたしのものに目をかけるのは悪いことではないはずだが?」
楊梅の正論を聞いてから、それでもなお納得いかない凱泉は口を開いた。
「それはとてつもなくご立派なお考えであることは認めます。が、いいですか、誠に勝手ながら一言いわせていただきますと、楊梅様にはお立場というものがあって――」
「わかっている。だが、仕事はきっちりしている。お前に押し付けて」
「それはもちろん、完璧にそつなくぼんくらでいただいておりますし――」
「凱泉のような優秀な部下がいるので、安心して抜け出せている」
褒められてしまった凱泉は、表情こそ変えないものの一瞬言葉を詰まらせた。
「しかし、あまり莉美殿に肩入れしている素振りがあると、ほかの臣下に示しがつかないと言いますか」
「放っておけ。どうせ誰に肩入れしても、でくのぼうの気まぐれと言われるだけだ」
おっしゃる通りです、と思わず凱泉は頷いている。しかし、とさらになにか言おうとした凱泉を、莉美の驚いた声が遮った。
「あっ!」
描いていた餓鬼が、いきなり紙から抜け出てしまった。手をするりと抜け、楊梅の側を横切ってしまう。さらに凱泉が立っている戸口から外に出ようと、キャッキャ走っていく。
逃したら府庫内で暴れてしまうかもしれない。
潰して所蔵資料に墨が飛び散ったら、首ごとすっ飛ばされてしまいかねないと莉美の意識が飛びそうになった時。
「……人の話を遮るな!」
怒声とともに餓鬼を瞬時に片手で捕まえたのは、ほかでもない入り口に立っている凱泉だ。声こそ怒っているものの、やはりいつもと変わらぬ仏頂面のまま、捕まえた餓鬼をぎゅっと握って目の高さまで持ち上げて睨みつけている。
「まったく、どうしておとなしくできないのだ、莉美殿の絵は!」
餓鬼はキイキイ言いながら逃げようとするのだが、凱泉の凄まじい握力によって抜け出ることはおろか、動くことさえできずにいる。
「とにかく、楊梅様はここに立ち入る頻度を控えてください。莉美殿も楊梅様抜きで仕事に没頭してもらわねば困ります!」
口火を切って言い始めてしまうと、凱泉はまだグチグチが収まらない。その間、彼の手に握られた餓鬼はずっと大暴れしていた。
だがそのうち疲れ始め、さらに凱泉に強く握られると観念したのかおとなしくなってしまった。
「……すごい、凱泉様」
「自分で生み出したものくらい、ご自身でどうにかしてください。そのための研究でしょう!」
握り潰されている餓鬼は、哀れに思うくらいすっかりしょげてしまっている。凱泉は「失礼!」というなり部屋の中に入ってくると、卓上の真っ白な紙に餓鬼を思い切り押し込めた。
餓鬼はギャアギャア騒いでいたのだが、人を殺しそうな勢いの凱泉に睨まれると、しょぼんとして紙におとなしく入っていき、ただの絵に戻った。
「……凱泉の調練のあと、兵たちが死者のようになっている理由がわかった気がする」
楊梅の呟きに、莉美も思わずうんうんと頷いてしまい、凱泉にキッと睨まれた。
「凱泉。なにか莉美の力が落ち着く方法を、お前も思いつかないか?」
怒りの矛先を向けられる前に、楊梅が凱泉に訊ねてくれた。また抜けだそうとしてちょろりと顔を出した餓鬼に凄んでから、凱泉はその紙を手に持つと、折りたたんでしっかり両手で圧縮して懐にしまい込んだ。
「……こんな狭いところで、訳のわからない生き物を描いているからいけないのです。外は晴れております」
息抜きをしろという遠回しな言いかたが凱泉らしくて、楊梅も莉美も笑ってしまった。
「そうだな。莉美も外で描こう」
「それはもっともなご意見なのですが……もし、絵が逃げだしたら捕まえられなくなります」
「凱泉もわたしもいるのだから大丈夫だ。さっきの凱泉の怖さと、餓鬼を捕らえた素早さは見事だっただろう?」
「それはもう、背筋が凍り付くくらいにすごかったです」
じろりと上から凱泉に見つめられて、莉美はあいまいに笑ってごまかした。
気分転換に三人で小部屋から出ると、中院を歩き始める。奇峰怪石が絶妙に連なり、水亭がいくつか設置されており、池をぐるりと巡るように低い樹木が植えられている。
さらに春を告げるように明礬の花が咲き、あちこちから瑞香の甘くかぐわしい匂いがしていた。
道具を持って外に出たのはいいのだが、莉美は外で絵を描く気は毛頭ない。もたもたしていると、凱泉がぴたりと歩を止めた。
「莉美殿。鬼じゃないものを描いてみてはどうです?」
仏頂面のまま莉美を見下ろしてくる。
「部下の不始末は上官がするものです」
「私、凱泉様の部下だったんですね……初めて知りました」
「いいから、やってみてください。早く莉美殿の力が安定しなくては、楊梅様をまた四方八方探さなくてはならず困ります」
姿が見えない楊梅を探し回っていたのかと思うと、莉美は笑いが込み上げてきてしまった。
上背のある楊梅よりもさらに大柄な凱泉が、仏頂面のままあたふたしている姿は想像するだけで可愛らしい。
「描いていてくださいね。さもないと夕餉は抜きです」
「それは困ります」
楊梅と凱泉が難しい話をしながら池に向かったのを見届けると、莉美はちょうどいい塩梅の石に腰を下ろし、墨を磨りはじめた。
「逃げたとしても困らなくて、かつ、それほどすばしっこくなくて掴まえられるもの……」
さらに、府庫の敷地から外に出たとしても、誰も困らない生き物。莉美は少し考えてから、筆に墨を浸しさらさらと描き始めた。
そして描き終わった直後。
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