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第一章 事の始まり
第7話
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どうやら莉美は二日間ほど寝込んでいたらしい。
医官によると、骨は折れていないようだが打撲がひどく、そのため高熱を出していたとのことだ。
天蓋から吊るされた綾絹は繊細な色味で染色され、細長い垂れには細やかな刺繍がされている。枕元の小几には、真鍮で作られている水差しと同じ意匠が施された杯まである。
今までこれほどまで豪華な部屋に入ったことがなく、一気に目が覚めた。
(まさか、こんなお部屋に通されているなんて……!)
もしかしてもう死んでしまったのかと思ったのだが、勢いよく飛び起きたせいで身体中が痛む。その瞬間、まだ極楽にいるわけではないのだと痛感した。
「痛っ……たたた……」
水を飲もうと手を伸ばしたが、わずかに届かず杯を落としてしまった。金属音が床に響いたところで、外にいた見張りの兵らしき人が動くのを感じる。
しばらくして、誰かが部屋に近づいてきた。
「入るぞ」
すでに入室してから言うものではないはずなのだが、水の流れのように清らかな声とともに足音が近づいてきて、寝台の絹を持ち上げた。
「もう起きて大丈夫なのか?」
心配そうな顔をして入ってきた青年には、まったく見覚えがない。彼の後ろには、あのむすっとした顔の武人が立っていた。
「あ、あの……」
「ああ、水が飲みたかったのか。注いでやるから楽にしろ。凱泉、身体を起こしてやれ」
言われて武人の凱泉は表情を微動だにせず命に従う。「失礼」と短く言うと、莉美の身体を起こす介助をした。怒っているようにも見えたので、莉美の身体は緊張で硬くなった。
「痛むのか? 医官を呼ぶか?」
「いえ、大丈夫です」
床に落ちたのとは別の杯に水をよそうと、見目麗しい青年は莉美に差し出してくる。まさしく美青年とは彼のための言葉のように思えた。
おずおずと杯を受け取ってから、莉美はお礼を伝えた。
凱泉と名乗った武人が付き従っている様子からして、目の前の美丈夫が彼よりも偉いのは一目瞭然だ。
纏った深い青緑色の缺胯袍には、同色で花弁が何重にも重なった花が織られている。見事な唐花紋の玉帯には翡翠の銙が揺れていた。
「お前が莉美で間違いないな?」
「はい。この度はこのような処置をしていただき」
「かしこまらなくてもいい。堅苦しいのは嫌いだ」
止められてしまったため、莉美は顔を上げる。
「わたしは橡楊梅という。この城郭は養父である鄧将軍のものだが、今は不在のためわたしが預かっている」
それにしても、非常に若い。年のころは、莉美よりも三つ四つ上の二十手前というところか。匂いたつような美貌は、名前に入っている梅さえも超えるようだ。
「莉美、もし体調が良いのなら少し話をしたい」
彼の言う話が、顒のことなのは明白だった。
真剣な目で見つめられ、正直に話した後には殺されるのかと血の気が引いてくる。
あの時は惜しくもなかった命だが、いざこうして助かってしまったからには、今一度苦しい思いをするのが怖かった。
「殺すなら、一思いに……」
わなわなと唇が震え始めた莉美に向かって、凱泉は事務的に告げた。
「楊梅様は、あなたに褒美を取らせるおつもりです」
莉美は耳を疑った。咎められる覚えはあっても、歓迎される覚えはない。
「どうして…………人違いではありませんか?」
「妖魔の弱点を知っていたのは、楽芙内で莉美殿ただ一人。急所を進言するため兵たちに声を掛けていたというのも、すでに耳に入っています」
莉美は口をつぐんだ。それは、自分のしでかしたことの責からだ。
「伝えてくれなければ、あの妖魔は倒せなかったでしょう。あなたには褒美を受け取る権利がありますし、楊梅様もそれをお望みです」
莉美はううむ、と唸った。彼女の重い腰を軽くするためか、凱泉はさらに口を開いた。
「望めば、数年は豊かに暮らせる金銀を頂戴することも可能なはずです」
「いえ……褒美など……」
うつむいていると、凱泉の重たい溜息が横から聞こえてくる。どう説明すべきか固まってしまっていると、楊梅は透かし彫りが施されている長椅子の背もたれに深く身体を預けた。
「この部屋はわたしと凱泉しかいない。面を上げて、普段通り楽にしてくれ」
楊梅は莉美の握りしめている手に、そっと自身の手を載せた。その瞬間、莉美の右手が意に反してぶるぶると震えだす。
(――な、なにこれ!?)
感じたことのない不思議な脈だ。
咄嗟に引っ込めようとしたが楊梅に阻止された。驚いていると、楊梅は探るような目つきで莉美の手を握って持ち上げる。
「莉美。お前が先日の化け物で街を襲った犯人――……間違いないな?」
楊梅の金緑石を嵌めたような瞳に射貫かれる。深い知性を感じる眼差しに、莉美は言葉を失ってしまった。
莉美の表情を見たことによって、楊梅は今しがた放った自らの言葉が事実であったことを悟ったようだ。
「……まさかとは思ったが、本当にあの化け物をお前が使役したのか?」
「それは違います」
莉美は生きた心地のしないまま口を開く。
「ですが、顒を生み出したのは紛れもなく私です。ですから、褒美を受け取る権利はありません」
それを皮切りに、莉美はあの朝のことをぽつりぽつりと話した。
上手に絵が描け、しかも紙から抜け出さなかったこと。しかし、激情に駆られて足元の木の根っこに気付かず、転んだ拍子に擦りむいてしまったこと。
そこから流れ出た血が描いた絵にこぼれ落ちた瞬間――妖魔は目覚めた。
もくもく煙のようなものを噴出させながら紙から出現すると、莉美を襲ってきたあとに屋敷を踏みつぶし始めた。
これでは死人が出てしまうと思い、あわてて屋敷から飛び出した莉美を追いかけていた妖魔は、そのあと空に羽ばたき街中をさまよい始めた。
幸いなことに死者は出なかったものの、家々の損壊は激しく、路にも大きな穴がいくつも開いてしまった。
妖魔の強靭な爪が引っ掻いた箇所は、生々しい傷跡をあちこちに残していたはずだ。
きっと、この罪は重いに違いなかった。褒美があるとすれば、苦しまない死しかないだろう。
医官によると、骨は折れていないようだが打撲がひどく、そのため高熱を出していたとのことだ。
天蓋から吊るされた綾絹は繊細な色味で染色され、細長い垂れには細やかな刺繍がされている。枕元の小几には、真鍮で作られている水差しと同じ意匠が施された杯まである。
今までこれほどまで豪華な部屋に入ったことがなく、一気に目が覚めた。
(まさか、こんなお部屋に通されているなんて……!)
もしかしてもう死んでしまったのかと思ったのだが、勢いよく飛び起きたせいで身体中が痛む。その瞬間、まだ極楽にいるわけではないのだと痛感した。
「痛っ……たたた……」
水を飲もうと手を伸ばしたが、わずかに届かず杯を落としてしまった。金属音が床に響いたところで、外にいた見張りの兵らしき人が動くのを感じる。
しばらくして、誰かが部屋に近づいてきた。
「入るぞ」
すでに入室してから言うものではないはずなのだが、水の流れのように清らかな声とともに足音が近づいてきて、寝台の絹を持ち上げた。
「もう起きて大丈夫なのか?」
心配そうな顔をして入ってきた青年には、まったく見覚えがない。彼の後ろには、あのむすっとした顔の武人が立っていた。
「あ、あの……」
「ああ、水が飲みたかったのか。注いでやるから楽にしろ。凱泉、身体を起こしてやれ」
言われて武人の凱泉は表情を微動だにせず命に従う。「失礼」と短く言うと、莉美の身体を起こす介助をした。怒っているようにも見えたので、莉美の身体は緊張で硬くなった。
「痛むのか? 医官を呼ぶか?」
「いえ、大丈夫です」
床に落ちたのとは別の杯に水をよそうと、見目麗しい青年は莉美に差し出してくる。まさしく美青年とは彼のための言葉のように思えた。
おずおずと杯を受け取ってから、莉美はお礼を伝えた。
凱泉と名乗った武人が付き従っている様子からして、目の前の美丈夫が彼よりも偉いのは一目瞭然だ。
纏った深い青緑色の缺胯袍には、同色で花弁が何重にも重なった花が織られている。見事な唐花紋の玉帯には翡翠の銙が揺れていた。
「お前が莉美で間違いないな?」
「はい。この度はこのような処置をしていただき」
「かしこまらなくてもいい。堅苦しいのは嫌いだ」
止められてしまったため、莉美は顔を上げる。
「わたしは橡楊梅という。この城郭は養父である鄧将軍のものだが、今は不在のためわたしが預かっている」
それにしても、非常に若い。年のころは、莉美よりも三つ四つ上の二十手前というところか。匂いたつような美貌は、名前に入っている梅さえも超えるようだ。
「莉美、もし体調が良いのなら少し話をしたい」
彼の言う話が、顒のことなのは明白だった。
真剣な目で見つめられ、正直に話した後には殺されるのかと血の気が引いてくる。
あの時は惜しくもなかった命だが、いざこうして助かってしまったからには、今一度苦しい思いをするのが怖かった。
「殺すなら、一思いに……」
わなわなと唇が震え始めた莉美に向かって、凱泉は事務的に告げた。
「楊梅様は、あなたに褒美を取らせるおつもりです」
莉美は耳を疑った。咎められる覚えはあっても、歓迎される覚えはない。
「どうして…………人違いではありませんか?」
「妖魔の弱点を知っていたのは、楽芙内で莉美殿ただ一人。急所を進言するため兵たちに声を掛けていたというのも、すでに耳に入っています」
莉美は口をつぐんだ。それは、自分のしでかしたことの責からだ。
「伝えてくれなければ、あの妖魔は倒せなかったでしょう。あなたには褒美を受け取る権利がありますし、楊梅様もそれをお望みです」
莉美はううむ、と唸った。彼女の重い腰を軽くするためか、凱泉はさらに口を開いた。
「望めば、数年は豊かに暮らせる金銀を頂戴することも可能なはずです」
「いえ……褒美など……」
うつむいていると、凱泉の重たい溜息が横から聞こえてくる。どう説明すべきか固まってしまっていると、楊梅は透かし彫りが施されている長椅子の背もたれに深く身体を預けた。
「この部屋はわたしと凱泉しかいない。面を上げて、普段通り楽にしてくれ」
楊梅は莉美の握りしめている手に、そっと自身の手を載せた。その瞬間、莉美の右手が意に反してぶるぶると震えだす。
(――な、なにこれ!?)
感じたことのない不思議な脈だ。
咄嗟に引っ込めようとしたが楊梅に阻止された。驚いていると、楊梅は探るような目つきで莉美の手を握って持ち上げる。
「莉美。お前が先日の化け物で街を襲った犯人――……間違いないな?」
楊梅の金緑石を嵌めたような瞳に射貫かれる。深い知性を感じる眼差しに、莉美は言葉を失ってしまった。
莉美の表情を見たことによって、楊梅は今しがた放った自らの言葉が事実であったことを悟ったようだ。
「……まさかとは思ったが、本当にあの化け物をお前が使役したのか?」
「それは違います」
莉美は生きた心地のしないまま口を開く。
「ですが、顒を生み出したのは紛れもなく私です。ですから、褒美を受け取る権利はありません」
それを皮切りに、莉美はあの朝のことをぽつりぽつりと話した。
上手に絵が描け、しかも紙から抜け出さなかったこと。しかし、激情に駆られて足元の木の根っこに気付かず、転んだ拍子に擦りむいてしまったこと。
そこから流れ出た血が描いた絵にこぼれ落ちた瞬間――妖魔は目覚めた。
もくもく煙のようなものを噴出させながら紙から出現すると、莉美を襲ってきたあとに屋敷を踏みつぶし始めた。
これでは死人が出てしまうと思い、あわてて屋敷から飛び出した莉美を追いかけていた妖魔は、そのあと空に羽ばたき街中をさまよい始めた。
幸いなことに死者は出なかったものの、家々の損壊は激しく、路にも大きな穴がいくつも開いてしまった。
妖魔の強靭な爪が引っ掻いた箇所は、生々しい傷跡をあちこちに残していたはずだ。
きっと、この罪は重いに違いなかった。褒美があるとすれば、苦しまない死しかないだろう。
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