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第一章 事の始まり
第2話
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「今日こそは生まれないでね……お願いだから。黄龍様、どうぞお導きください」
柳葉筆に墨が滲みたところで、手本を描き写す作業が始まる。
丁寧に線が紡がれ、二刻(一時間)も経たないうちに、指南書に描かれている絵とは比べられないほど写実的な作品が完成する。
「よく描けたわ。生まれてくる気配もない……もしかして成功?」
酷い時は描いている途中から画面から抜け出すこともあるのだが、今日の絵は動き出しそうにない。
莉美の日々の努力が報われたのか、黄龍様に願いが届いたのかもしれない。
「もしかして、この巻に描かれている生き物だったら、私が描いても生まれてこないのかもしれない。母さんと一緒に描いたきりの巻だし……」
母が亡くなる前に一緒に描いたのが、この巻だ。だから、なんとなくこの巻には今まで手が出せなかった。
「母さんが助けてくれたのかも」
莉美は上機嫌になって、若旦那に報告をしようと小屋を出た。
上流の客室が用意されている奥の耳房まで向かうと、扉は閉まっていたものの中で人の動く気配がする。
莉美は扉まで近づき、来訪を知らせようと戸を叩く手を止めた。
「あの莉美っていう娘をどうするおつもりですの?」
媚びを売るような、甘ったるい声がする。この屋敷の娘の声だとすぐに気づき、莉美はいけないことを聞いてしまったような気がして咄嗟に扉から離れた。
だが、自分のことを話題に出されているとあって、引き返せなくなる。
野次馬心を堪えられず、壁沿いに窓の近くまで向かった。背伸びをして中を覗き見れば、天蓋付きの寝台の中に若旦那と屋敷の娘が一緒にいるようだ。
ふわりと漂う香の甘いにおいが、二人の関係を濃密なものだとわからせる。
若旦那と自分が釣り合わないのはわかっていたことだが、胸に刃物を突き刺されたような気分になった。
「ずいぶんと、お気に入りだと聞きましたわ」
「まさか。それに、どうすると言われましても……」
若旦那のことだから、きっと莉美のことをこれからも大事にしていくと答えるはずだ。しかし、答えは想像と違っていた。
「――あんな、小汚い娘など。今夜失敗したら、人買いにでも売り飛ばしますよ」
「まぁ。若旦那様、それはあんまりですわ」
「しかしあのような器量では、妓楼にも二束三文で叩かれます」
くすくすと笑う娘の声は、鈴の音のようだ。
「一度かばってやったらわたしに懐いたようですが、正直気味が悪い。母親は美人だし、それなりに使い物になっていたので、娘もいずれ化けるかと辛抱していましたが、そろそろ潮時です」
「まあ」
「それに今、城郭の主である鄧将軍は留守で、愚息が預かっていると聞きます。だから、少々闇の人買いもいると言いますから。あんなのでも高値で売れましょう」
鈴を転がすような娘の笑い声が聞こえた。
「そんなことして稼がずとも、あなたが描いたものでしたら、あたくしがすべて買い取りますわ。たとえ、蟻一匹だったとしても」
二人の笑い声を背にして莉美は駆け出していた。
(若様は、蟻の一匹でも描けやしないのに……)
正直なところ、当主と若旦那の絵の腕は絵師の家系というのを疑うくらい酷いものだ。売り物にならないとかそういう話ではなく、単純に下手なのだ。
(全部、母さんのおかげだったというのに)
彼らが財産を蓄えられたのは、ひとえに莉美の母の美女画のおかげだ。
(それを、それなりだなんて……!)
――許せない。
悔し涙が目の端から溢れていた。自分のことは仕方がない、受け入れられる。だが、彼らが今いい思いをしているのは母の力だ。それなのに。
あまりにも怒りで我を忘れていたため、足元にある木の根に気がつかず躓いた。転げそうになったのをかばって、手のひらをすりむく。
「いたたた……血が出ちゃった」
顔をしかめていると、血が絵に滴り落ちて紅い染みになる。朱が紙に吸収されていった刹那。
「え、え、えっ……ちょっと待って……!」
莉美の悲鳴とともに、事件は起こった――――。
柳葉筆に墨が滲みたところで、手本を描き写す作業が始まる。
丁寧に線が紡がれ、二刻(一時間)も経たないうちに、指南書に描かれている絵とは比べられないほど写実的な作品が完成する。
「よく描けたわ。生まれてくる気配もない……もしかして成功?」
酷い時は描いている途中から画面から抜け出すこともあるのだが、今日の絵は動き出しそうにない。
莉美の日々の努力が報われたのか、黄龍様に願いが届いたのかもしれない。
「もしかして、この巻に描かれている生き物だったら、私が描いても生まれてこないのかもしれない。母さんと一緒に描いたきりの巻だし……」
母が亡くなる前に一緒に描いたのが、この巻だ。だから、なんとなくこの巻には今まで手が出せなかった。
「母さんが助けてくれたのかも」
莉美は上機嫌になって、若旦那に報告をしようと小屋を出た。
上流の客室が用意されている奥の耳房まで向かうと、扉は閉まっていたものの中で人の動く気配がする。
莉美は扉まで近づき、来訪を知らせようと戸を叩く手を止めた。
「あの莉美っていう娘をどうするおつもりですの?」
媚びを売るような、甘ったるい声がする。この屋敷の娘の声だとすぐに気づき、莉美はいけないことを聞いてしまったような気がして咄嗟に扉から離れた。
だが、自分のことを話題に出されているとあって、引き返せなくなる。
野次馬心を堪えられず、壁沿いに窓の近くまで向かった。背伸びをして中を覗き見れば、天蓋付きの寝台の中に若旦那と屋敷の娘が一緒にいるようだ。
ふわりと漂う香の甘いにおいが、二人の関係を濃密なものだとわからせる。
若旦那と自分が釣り合わないのはわかっていたことだが、胸に刃物を突き刺されたような気分になった。
「ずいぶんと、お気に入りだと聞きましたわ」
「まさか。それに、どうすると言われましても……」
若旦那のことだから、きっと莉美のことをこれからも大事にしていくと答えるはずだ。しかし、答えは想像と違っていた。
「――あんな、小汚い娘など。今夜失敗したら、人買いにでも売り飛ばしますよ」
「まぁ。若旦那様、それはあんまりですわ」
「しかしあのような器量では、妓楼にも二束三文で叩かれます」
くすくすと笑う娘の声は、鈴の音のようだ。
「一度かばってやったらわたしに懐いたようですが、正直気味が悪い。母親は美人だし、それなりに使い物になっていたので、娘もいずれ化けるかと辛抱していましたが、そろそろ潮時です」
「まあ」
「それに今、城郭の主である鄧将軍は留守で、愚息が預かっていると聞きます。だから、少々闇の人買いもいると言いますから。あんなのでも高値で売れましょう」
鈴を転がすような娘の笑い声が聞こえた。
「そんなことして稼がずとも、あなたが描いたものでしたら、あたくしがすべて買い取りますわ。たとえ、蟻一匹だったとしても」
二人の笑い声を背にして莉美は駆け出していた。
(若様は、蟻の一匹でも描けやしないのに……)
正直なところ、当主と若旦那の絵の腕は絵師の家系というのを疑うくらい酷いものだ。売り物にならないとかそういう話ではなく、単純に下手なのだ。
(全部、母さんのおかげだったというのに)
彼らが財産を蓄えられたのは、ひとえに莉美の母の美女画のおかげだ。
(それを、それなりだなんて……!)
――許せない。
悔し涙が目の端から溢れていた。自分のことは仕方がない、受け入れられる。だが、彼らが今いい思いをしているのは母の力だ。それなのに。
あまりにも怒りで我を忘れていたため、足元にある木の根に気がつかず躓いた。転げそうになったのをかばって、手のひらをすりむく。
「いたたた……血が出ちゃった」
顔をしかめていると、血が絵に滴り落ちて紅い染みになる。朱が紙に吸収されていった刹那。
「え、え、えっ……ちょっと待って……!」
莉美の悲鳴とともに、事件は起こった――――。
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