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第一章 事の始まり
第1話
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楽芙の冬の日中は、動くと多少汗をかくくらい暖かくなるが、朝晩は恐ろしく冷え込む。寒暖差が大きいのが黄龍国の特徴でもある。
それでも未州は南に近いため、冷え込みが骨に染みるほどではない。山間からやってくる時折吹く強風の方がつらかった。
莉美は冷えてしまった手に息を吹きかけながら、火鉢を熾していた。入り口の二門近くにある狭い小屋が、莉美の当面の宿泊場所だ。
使用人たちに混じりたくもないし一人になりたかったので、正房からはかなり遠く離れているのだが、ちょうど良かった。
中庭の井戸に水を汲みに行くと、まだ貴族の面々と範家の人々は寝静まっている様子だ。昨晩はきっと遅くまで宴会をしていたのだろう。
「……早く役に立ってくれないかしら、この右手」
皮の手袋を外し握ったり開いたりしながら、莉美は自身の手をじーっと見つめた。温まってくるとすぐに手袋を嵌め、つまらなそうに目線の高さまで持ち上げてみる。
「いい、右手。よく聞きなさい。今日どうにもならなかったら、私は妓楼行きなのよ。そうなりたくないでしょう?」
残念なことに、舞も楽器も不得手だ。読み書きは得意だが、詩の類を嗜む風流さはない。ついでに気量はと言えば、中の中と言ったところか。
描いたものが制御下に置けさえすれば、必ずこの国一の絵師になれる。そう意気込むのだが……しかし、現実はうまくいかない。
「十でこれを嵌めたから、もう五年になるのね」
硬い革の手袋によって、こぶしを強く握ることができない。それは、莉美が筆などを持てないようにするための応急処置だ。だが、現状一番有効な手段なのが悔しかった。
厨では朝餉の支度が進められているようだ。風に乗って漂ってくる香りに腹が鳴る。空腹だがそんな時が一番頭が働く。
「よし。朝ご飯までに頑張ってみよう!」
莉美は持って来ていた行李を開け、あるものを取り出した。それは、母から受け継いだ絵の指南書の数々だ。ただの本ではあるのだが、絵師としては師と同等のものとも言える。
莉美は幼い頃から絵の知識を母から受け継ぎ、指南書から技術を学んだ。絵を生み出す力さえなければ、四歳にして三種類の遠近法を完璧に使いこなした神童だ。
これからが楽しみだという時に突然能力が開花し、天才絵師の称号を諦めざるを得なくなっている。
「この指南書って、現実には見たことのない生き物ばかりなのよね」
莉美は手にした冊子の頁を、一枚一枚丁寧にめくった。詳しい解説はないが、天仙や神獣も居たという建国時の生き物だと聞かされている。彼らは人間と住む場所が別れたため、今や幻想の生き物となってしまっているらしい。
「これを描こうかしら、鳥のようで小さそうだし」
画題が決まると、莉美はすぐに墨を磨り始めた。
莉美が練習として描くのは、餓鬼や幻想の生き物と決めてある。
生まれてしまう以上、実在する生き物を描くことはしない。時間が経てば消えるとはいえ、万が一それが悪さをした場合、それを止められるのは自分だけだからだ。
つまり、描いた犬が悪さをしたら、それを捻り潰さなくてはならない。良心の呵責に耐えられなかった。
幽霊や幻の生き物であれば、もともとこの世に実在しないものだからと思えた。
そういう苦しみが、大好きな絵を描く度に襲ってくる。好きなことなのに、自分にできる唯一のことなのに、その力を発揮できない葛藤を抱えている。
そしてそれはきっと、誰にも理解されないものだ。基本的には自分の抱える悩みが、他人にすべて理解できることなんてないのだけれども。
それでも未州は南に近いため、冷え込みが骨に染みるほどではない。山間からやってくる時折吹く強風の方がつらかった。
莉美は冷えてしまった手に息を吹きかけながら、火鉢を熾していた。入り口の二門近くにある狭い小屋が、莉美の当面の宿泊場所だ。
使用人たちに混じりたくもないし一人になりたかったので、正房からはかなり遠く離れているのだが、ちょうど良かった。
中庭の井戸に水を汲みに行くと、まだ貴族の面々と範家の人々は寝静まっている様子だ。昨晩はきっと遅くまで宴会をしていたのだろう。
「……早く役に立ってくれないかしら、この右手」
皮の手袋を外し握ったり開いたりしながら、莉美は自身の手をじーっと見つめた。温まってくるとすぐに手袋を嵌め、つまらなそうに目線の高さまで持ち上げてみる。
「いい、右手。よく聞きなさい。今日どうにもならなかったら、私は妓楼行きなのよ。そうなりたくないでしょう?」
残念なことに、舞も楽器も不得手だ。読み書きは得意だが、詩の類を嗜む風流さはない。ついでに気量はと言えば、中の中と言ったところか。
描いたものが制御下に置けさえすれば、必ずこの国一の絵師になれる。そう意気込むのだが……しかし、現実はうまくいかない。
「十でこれを嵌めたから、もう五年になるのね」
硬い革の手袋によって、こぶしを強く握ることができない。それは、莉美が筆などを持てないようにするための応急処置だ。だが、現状一番有効な手段なのが悔しかった。
厨では朝餉の支度が進められているようだ。風に乗って漂ってくる香りに腹が鳴る。空腹だがそんな時が一番頭が働く。
「よし。朝ご飯までに頑張ってみよう!」
莉美は持って来ていた行李を開け、あるものを取り出した。それは、母から受け継いだ絵の指南書の数々だ。ただの本ではあるのだが、絵師としては師と同等のものとも言える。
莉美は幼い頃から絵の知識を母から受け継ぎ、指南書から技術を学んだ。絵を生み出す力さえなければ、四歳にして三種類の遠近法を完璧に使いこなした神童だ。
これからが楽しみだという時に突然能力が開花し、天才絵師の称号を諦めざるを得なくなっている。
「この指南書って、現実には見たことのない生き物ばかりなのよね」
莉美は手にした冊子の頁を、一枚一枚丁寧にめくった。詳しい解説はないが、天仙や神獣も居たという建国時の生き物だと聞かされている。彼らは人間と住む場所が別れたため、今や幻想の生き物となってしまっているらしい。
「これを描こうかしら、鳥のようで小さそうだし」
画題が決まると、莉美はすぐに墨を磨り始めた。
莉美が練習として描くのは、餓鬼や幻想の生き物と決めてある。
生まれてしまう以上、実在する生き物を描くことはしない。時間が経てば消えるとはいえ、万が一それが悪さをした場合、それを止められるのは自分だけだからだ。
つまり、描いた犬が悪さをしたら、それを捻り潰さなくてはならない。良心の呵責に耐えられなかった。
幽霊や幻の生き物であれば、もともとこの世に実在しないものだからと思えた。
そういう苦しみが、大好きな絵を描く度に襲ってくる。好きなことなのに、自分にできる唯一のことなのに、その力を発揮できない葛藤を抱えている。
そしてそれはきっと、誰にも理解されないものだ。基本的には自分の抱える悩みが、他人にすべて理解できることなんてないのだけれども。
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