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6、叫びの婦人
第38話
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その日、お茶の時間に、ノアはココの私室に訊ねてきた。ノアは忙しい合間を縫って、かいがいしくココの世話をしてくれる。
昔からお兄ちゃん気質があったのだが、今もそれは健在だ。隙があればココの手を取り、髪にキスをし、頭を撫でてくるのをやめない。
時々、ココにはノアの姿が大型犬のように見えて仕方がなかった。
「ココ、元の姿に戻った調子はどう?」
「快適に生活させてもらっているわ」
「良かった。今後、この城はココが好きに使っていいからね」
ありがとうと微笑むと、ノアはココを見ながらうっとりと目を細める。どうやら彼は、本気でココのことを敬愛しているようだ。
「部屋も明るくて広いし、食事もおいしい。呼べば家令《スチュワード》が壁をすり抜けてきてくれて……まあ、それは少々、びっくりするけど」
「この城のどこでも出入りできるからね。ちなみに彼も、絵の住人なんだ」
正面玄関に飾られている絵画の中に描かれている家令が、なぜか知らないうちに意思をもってしまいこの城で従事している。
絵の具の一部に天使の涙が混ざっていたのかもしれないし、描いた人物が骨董遺物を身に着けていた影響かもしれない。
もしくは、絵に意思を持たせようと故意に描かれたのかもしれないが、それはどちらでも良かった。
理由は不明だが、有能なので働いてもらっている。あまりにも仕事ができるので、ノアは生身の人間を雇わずに済んでいる。
骨董遺物だから、死んだり逆らったりする心配もないし、主人の言うことをよく聞き裏切りもしない。
人の生活を便利にするのが道具の役割だとすれば、家令は見事にそれを体現していた。
「……それでココ、絵画の婦人のほうはどう?」
「最近はおとなしいのよ」
数日間しゃべり通してから、婦人は満足したのか絵の中で眠ることも増えてきている。
今日にいたっては、ノアが来る前から彼女は絵の中でうたた寝をしてしまっていた。
「最近は寝ていることもかなり増えたわ」
「ちなみに、以前は夜中の叫び声が一週間に一度は聞こえていたんだけど……今週からは起こされなくて済みそうだね」
週に一度叫ばれていたのかと、ココは婦人のパワフルさに驚いてしまった。
「まあたしかに。彼女、ずっとおしゃべりしているの。それに、オペラや劇の話も身振り手振りでするものだから、面白くって」
「ココが喜んでくれているのが、わたしにとっては一番うれしいことだよ」
「シュードルフから解放されて万々歳よ」
それに、あのステイシーをやり込めたことで、ココは非常にすっきりしている。
「計画をすすめなくちゃね」
「そうだね。ひとまず、絵画婦人はココに任せるよ。いざとなったら黙らせられるのはココだけだから」
ノアの予想通り、それからさらに一週間経っても婦人の絵から叫び声が発せられることはなかった。
ところが――。
叫ばれなくなったことに安心していたのも束の間。
週が明けてから婦人は口数が極端に減り、寝ていることがさらに増した。
それは、今までのおしゃべりな彼女からしたら考えられない光景だ。
ティータイムに誘ったというのに、今日は疲れているからと絵画の中で寝てしまっている。
叫ばないのはいいが、彼女に元気がなくなってしまうのは寂しかった。
「婦人に、なにかあったのかい?」
湖を一望できるテラスでお茶を楽しみながら、ノアがココに話しかけてきた。
「少し疲れているだけと言うのよ。だから、婦人が話さなくなってしまった明確な原因はわからないわ。たぶん、本人にもわからないと思う」
「医者に診せるわけにもいかないし、画家に修復っていうのも違うしなあ」
ノアは、形のいい唇を金の縁取りが美しいコップに押し当て、お茶でのどを潤していた。
「でも、あれが本来の絵画の姿よ。私としゃべることで、元の状態に戻っていっただけ」
「そういうことか」
「本来はそれほど話さないものなのよ、きっと」
絵の中で寝ているだろう婦人をちらりと見てから、ココに向かってノアが残念そうな表情で口を開く。
「調べたんだけど、あの絵は、ティズボン家のひいひいお婆様の肖像画だそうだよ」
「あら。ノアの大嫌いなティズボン家ね」
貴族に疎い一般市民でも、ティズボン家は聞いたことがあるに違いない。現当主であるゴドリー・ティズボンは前王時代から仕えていた重鎮だ。
彼は有能だという噂ではあるが、先王がノアの母を無理やり手籠めにしたことを、咎めることもしなかった。
それどころか、身ごもったアンジェリーナに堕胎することを提案し、雀の涙ほどの金銭を投げてよこしたという。
子どもだったノアは母から聞いた話のすべてを理解できたわけではなかったが、アンジェリーナの苦しそうな表情から、つらかったのだということくらいはわかった。
ランフォート伯爵になってからティズボンにそれとなく訊ねたところ、ティズボンはノアの母のことさえ記憶から忘れ去ってしまっていた。
ティズボン宰相には、ぜひ消えてもらいたいとノアは心の底から願っていた。
「先々代のランフォート伯爵が手に入れたようだね。夜中に音がして不気味だから捨てようとしていたらしい」
「不気味ねぇ……まあ、骨董遺物《アンティークジェム》ですものね」
声が聞こえるココであれば、物音を立てる理由を直接骨董品たちに聞くことができる。
しかし、聞こえない人からすれば、それはただ単に不気味な絵画として目に映るはずだ。
「先々代は、物音がするのはおかしなことではないとディズボン家に伝えていたようだけど。受け入れられなかったんだろうね」
だからといって、むやみやたらと不気味がり、原因を調べもせず廃棄しようとするとはなんとも言い難い。
それも先祖の絵画を捨てようとするなど、薄情すぎるというものだ。
「婦人はそんなことをされて、きっと寂しかったはずだ」
今もうたた寝をしているティズボン婦人を見ながら、ノアは小さくため息を落とした。
心配性でちょっぴりお節介なのにどこか憎めない絵画婦人。
ここ数日一緒に生活をしてみて、ココは彼女のやかましさに慣れつつある。そして、骨董遺物であるからこそ親近感も持っていた。
ティズボン家の住人達が、絵から物音がするのはおかしくないときちんと理解していれば、絵は本来飾られるべきお屋敷の壁にいただろう。
子孫を見守り、にぎやかに話している家族たちを微笑ましく感じながら日々過ごせたはずだ。
「ココと話ができて、彼女も嬉しいと思うよ。シュードルフの末裔だからというのを抜きにしてもね」
骨董遺物たちにとっては、自分たちを造り出したシュードルフ一族は生みの親だ。その末裔であるココと話せるのは光栄なことでもある。
「そうね。私も楽しいもの」
絵画婦人は、ティズボン一族だけでなく、人のことを決して悪く言わない。
それどころか、いつも楽しそうにいろいろな話をしてくれる。彼女の愛情や優しさをココは感じはじめていた。
それなのに、ティズボン一族ときたら。
ココの胸中では、婦人の絵をないがしろにし、都合が悪くなったら捨てるという選択をしたティズボン一族への言いようのない怒りが込み上げてくる。
「できる限り、婦人の話し相手になるわ」
ココの提案にノアはうなずいた。
「そうしてくれるとわたしも嬉しいよ」
しかしそれからこの先、ランフォート城内で婦人の叫び声が聞こえてくることはなくなった。
彼女の絵は本来あるべき場所……ディズボン家に戻されたからだ。
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