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5、慈愛のベルトバックル

第29話

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 あんな状態では、ステイシーはおそらくもう言葉さえ通じないだろう。

 たった半月も経たないうちに、マッソンの生活は一変してしまっている。

「どうしてこんなことに……」

 マッソンは肩を落とした。手を洗ったが、ひどい悪臭が取れない。おまけにシャツにまで血と肉片のようなものがこびりついている。

 そのため、辻馬車を拾おうとしたが無理だと断られてしまった。

 こんなことになる前であれば、フレイソン公爵家から高級な馬車での送迎があったのに、いまやもう見送りの使用人さえ現れない。

「まあいい。邪魔なステイシーを匿ってくれるなら、むしろ好都合だ」

 あんな状態の娘を、自宅に連れ帰ることなど考えたくもなかった。

 おまけに、一日中つきっきりでなければならない。侍女を二人つけても足りないだろう。そんな資金は、マッソン達にはもうない。

「いっそ、書類を偽造するか……いや、だめだ。不正が露見したらとんでもないことになる。でも、この状態が続けば婚約を委棄されかねない……」

 ニールはココとの婚約を白紙にし、ステイシーに乗り換えた過去がある。

 つまり、彼がステイシーに愛想をつかしてしまったら、あの化け物になった義娘を手元に置かねばならない。

 ニールが悪く言われている現在、彼はステイシーを捨てることができない。しかし、噂が下火になれば必ずニールはステイシーを見限るだろう。

 ――ステイシーが公爵家に嫁いでくれていれば。

 ――ポーラが快くイヤリングを受け入れてくれていたら。

 ――余生を穏やかに過ごす計画は大幅に狂ってしまっている。

 ココをニールへ嫁に出すのも良かったが、今やココもランフォート伯爵の保護下だ。

 打つ手のないマッソンに残された今後の選択肢は、二つ。

 一つ目は、ステイシーをもとの状態に戻して貴族登録すること。それにおいては、先ほどの義娘の状態を見る限り難しいので、強硬手段しかない。

 運よく貴族になれたとしても、ポーラがイヤリングの餌食になるのを拒否するに違いない。よくよく話し合うか、無理やりつけさせるかのどちらかだ。

 二つ目の選択肢は、また商売をする生活に戻ること。

 現実に生活を立て直すには、この方法が一番手っ取り早い。

 だが、貴族としての生活を経験した今、一般人として汗水流すことをマッソンはくだらないと感じてしまっている。

 それに、現在のマッソンの評判はすこぶる悪い。

 貴族たちには醜聞が広まっており、古巣である商人たちからは毛嫌いされているため、商売が成り立つ状態ではない。

 三つ目の考えたくない選択肢は、隣国に逃亡することだ。

(どちらにしても、八方ふさがりだ)

 公爵家の結納金でこれから先も安定だと思っていた矢先の出来事に、マッソンは気分の落ち込みを隠しきれない。

 眉間にしわを寄せて考えていたマッソンは、思い出したことがあってパッと顔を上げた。

「ランフォート伯爵に、まだもらっていないものがあるじゃないか!」

 ココを売り払った時の代金が、未払いのままだ。

 婚約パーティーの時に祝儀として持ってきてくれる約束だったはずだが、あんなことになってしまったため結局受け取っていない。

「あの若造、踏み倒したわけじゃないだろうな?」

 そんなことはないと思いたいが、考えれば考えるほど、なにやら腹の中がむかむかしてくる。

 踏み倒されたに違いない、と決定づけてしまうほどマッソンは切羽詰まっていた。

 それに、ステイシーに手鏡を与えたのもランフォート伯爵だ。

 義娘があんな状態になったのには、ランフォート伯爵にも大いに責任があるはずだ。

 そして、ココ・シュードルフ。

 あの娘のせいで、生活のすべてがおかしなことになった。

 ココの姿を思い出すと、恐ろしくて脚がすくんだ。

 あの時のココの姿は、彼女の母であるメルゾを彷彿とさせた。しかし、清楚で可憐なメルゾと違い、ココは人を無意識にひれ伏せさせてしまうような冷たさを持っていた。

 それに、メルゾのような澄んだ渓流を思わせる青色の瞳ではなく、見たこともない燃えるような朱色だ。

 それはまるで、地獄の炎を連想させるかのようだ。

「ココを発端に、こんなことになったんだ……! くそっ!」

 マッソンはすぐさまランフォート伯爵に文句を言う準備をした。
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