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第3章

第34話 煎茶とお茶請け

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 月末近くになると、会社はピリピリし始める。定時上がりをする芽生としては、いつもこの時期は苦手だった。

 目の前の仕事に追われてあくせくと作業をするだけで、一日があっという間に過ぎて行く。パソコンとにらめっこし、散々データの間違いを修正してから芽生が伸びをすると、入り口に見慣れない人影が動いていた。

 芽生はとっさに席を立つと、入口へと向かった。

「こんにちは、ご用件をお伺いします」

 見れば、明るめの髪にパーマをあてた、ずいぶんと見栄えのいい人物だった。セミフォーマルスタイルがばっちり決まっていて、まるで雑誌から出てきたかのようなスタイルの良さに、思わず涼音と並んだら壮観だろうなと芽生は思った。

「こんにちは。ちょっと、早くに着きすぎちゃったから、ここで待たせてもらうことはできるかな?」

 格好つけない物言いと、穏やかな口調。その色気を凝縮したような表情に、芽生ははっとした。

(この人……!)

「もちろんです。こちらへどうぞ」

 芽生は来客用のブースに通すと、かがみこんで「何かお飲み物はいかがですか?」と尋ねた。

「じゃあ、お茶を」

 お辞儀をして出てから、芽生は驚きを顔に出さないようにした。以前も、このブースに来ていたのをちらりと見たので覚えていたのだが、市原商事の得意先でもある、御剣《みつるぎ》コーポレーションの社長、御剣陽《みつるぎよう》だった。

(なんで私なのよ……! みんな、こんな時に忙しぶっちゃうんだから!)

 芽生は心の中で忙しさを言い訳に、来客を無視していたお局たちや他の社員を呪った。まだまだ新人である芽生が対応すべきだが、あまりにも格が違い過ぎて、少し手が震えてしまった。

「いけない、しっかりしなくちゃ」

 芽生ははっとして自分の手をひっぱたくと、この間、社長室の隣の応接間からくすねてきた、高級な緑茶を自分の机の引き出しから取り出すと、浄水をかけて少し揉み込んだ。

 その間にお湯を沸かして、ちょうどいいぬるさに仕上げると、それを急須に入れて二分蒸らす。

「確か、この間来ていた時は、甘いお茶請け食べてなかったんだよね……」

 何かいいものはないかと探っていると、芽生はこれだ、と見つけたものをニコニコしながら小皿に入れた。

「お待たせしました」

 芽生はお茶を丁寧に陽へと出した。出されたものを見て、陽がへえ、と感嘆を漏らす。

「御剣社長、以前いらっしゃったときには甘いもの召し上がっていなかったんで、これなら食べられるかなって」

「すごいな、君はそんなことを覚えていたんだね。煎茶にチョコレートケーキって、俺はあんまり好まなくってね。ドライフルーツでしょ、これ」

「はい。お茶請けにぴったりです。弊社に来られたということは、これから商談かと思いまして。フルーツの甘みは脳を活性化させますから」

 陽は出されたお茶と、ドライフルーツを摘まんで女子たちが悩殺するような笑顔を向けた。

「うん、ピッタリだよ。お茶もすごくおいしい……君、名前は?」

「あ、ええと……名乗るほどのものでは」

 いいから教えて、と首をかしげる姿は、まるで芸能人のようだ。

「次回も来ることがあったら、君にお茶を出してもらいたいから」

 芽生はその社交辞令に笑顔になった。

「その時には、先にご連絡ください。御剣社長の好きそうなお茶とお茶請け、用意しておきますから」

「ふふ、今日は突然だったもんね。ごめんごめん」

 そう言うと、陽はポケットから名刺入れを取り出して、そこにボールペンでサラサラと何やら文字を書いた。

「はい、これ俺の名刺。番号はプライベート用だから、内緒ね。あとで連絡してよ、約束」

「え……こ、困ります」

「連絡くれないと、商談ひどいことにしちゃうよ?」

 笑顔でささやかれて、芽生は苦笑いをする。おずおずと名刺を受け取って、「分かりました」と呟いた。

 約束ね、と差し出された小指でゆびきりげんまんまでされてしまい、芽生は何とも言えない気持ちになりながらブースを去った。
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