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第二章 出立

第12話

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 直属の上司である宇航ウーハンに呼ばれて、紫軒ズーシュエンは彼の執務室に向かった。
 紫軒ズーシュエンは捨て子だ。ウルン大帝国が大飢饉に陥った年に、山に捨てられていた。
 貧しい農村に生まれた子どもが、口減らしのために山に捨てられるのは珍しくない。
 当時、紫軒ズーシュエンの両親も、食べ物に困っていた。山に出かけるからと弟とともに連れていかれ、ものすごく村から離れたところまで歩いた。
 そして、山の中で待っているように言われたきり、両親は戻ってこなかった。

 数日耐えたが、弟は飢えに泣きじゃくり始めた。弟のために、紫軒ズーシュエンは食事を調達しに行ったのだが、戻ってきた時に弟は獣の餌食になってしまっていた。
 人の味を覚えた獣は、また襲ってくる。紫軒ズーシュエンはすぐにその場を離れることしかできなかった。
 震える足で山を転げるように下っている途中で、宇航ウーハンと出会った。彼は、近隣の農村を襲う人喰い虎の退治に来ていた。
 紫軒ズーシュエンの証言をもとに、二日後に宇航ウーハンは人喰い虎を退治した。大人が十人もいないと運べないくらい大きかった。
 宇航ウーハンは虎の中から出てきた骨を紫軒ズーシュエンにくれた。弟のものだ。そして宇航ウーハンは、紫軒ズーシュエンとともに弟のために墓を作って、弔ってくれた。

 それ以来、紫軒ズーシュエン宇航ウーハンとともにいる。行く当てがなかった紫軒ズーシュエン自ら、弟子にしてほしいと頼み込んだのだ。

『強くなりなさい、紫軒ズーシュエン

 そう言って紫軒ズーシュエンを迎え入れてくれたことを、いまだに昨日のことのように思い出せる。
 紫軒ズーシュエンはそうして、宇航ウーハンの密偵になった。

 その当時軍の将軍だった宇航ウーハンは、今や大将軍の称号を得たのち、ウルン大帝国の軍師として皇帝に従事している。
 そして、幼かった紫軒ズーシュエンも、十七歳になっていた。黒い髪に赤茶色の瞳を持つ、引き締まった身体つきの立派な青年だ。
 宇航ウーハンの部屋の前に到着し入室許可を取ると、中から穏やかな声が聞こえてきた。

「参りました」

 膝立ちしながら頭を深く下げると、長机の向こうに立つ宇航ウーハンが振り返る。
 宇航ウーハンは若々しい声といで立ちをしているが、四十をとうに超えている。将軍職だった風には見えない、すらりとした体躯が特徴だ。
 しかし、槍を持たせたら右に出る者がいない。そしてなによりも戦が上手かった。たぐいまれな戦術の才能を持っているのだ。

紫軒ズーシュエン。お前は竜を見たことがあるかい?」

 命令を告げられるのかと思っていたのだが、宇航ウーハン紫軒ズーシュエンに質問してきた。紫軒ズーシュエンは頭をあげて宇航ウーハンを見る。

「竜ですか? いえ……ですが、神話なら存じています」
「うむ。我がウルン大帝国の初代皇帝が、人を襲い喰らう邪悪な竜と戦ってそれらを山へと追いやり、人間と住む世界を分けた。それによって、平地の民には平穏と幸せと豊かな実りが訪れた」

 それは、子どもに聞かせる子守唄にもなっている創世記の物語だ。ウルン大帝国で、この話を知らない人間はいない。

「竜は、今も竜の住む聖域ローチャオに生息していて、手つかずの自然の恵みとともに暮らしているという」

 西の平地を治めるウルン大帝国は、竜の住処とは正反対の土地にある。そのため、竜の伝承は残っていても、それはすでに架空の生き物としてみんな認識している。

「言い伝えにもある『手つかずの恵み』。これが本当ならば我が国にも恩恵をと、皇帝陛下はずっと竜の住む聖域ローチャオについてお調べになっている」

 紫軒ズーシュエンは静かに頷いた。
 近年、帝国内の平地では作物の実りが少なく、大地が非常に乏しくなっていた。
 加えて昨年は、主食となる麦が流行り病に襲われ収穫が半分以下になってしまった。国庫にあったぶんを国民に放出もしたのだが、足りずに多くの民が死んでしまった。
 そして悪いことに、麦を侵した流行り病は稲や果実にまでうつった。
 病は変化しながら作物を枯らし、主食になる穀物は今年も多くが実りを結ばない現状だ。
 食糧難が続いたことで、国庫の蓄えも十分ではない。
 いまや、帝国は食糧難と人手不足になっている。

 紫軒ズーシュエンは口減らしにあった過去を思い出し、苦い気持ちが込み上げてくる。自分は運よく助かったが、死んでしまった子どもたちを思うと切ない。
 毎日王宮の前には貧困を訴える民たちの行列ができ、日を追うごとにその列が増えている。
 農村ではその日の食べ物に困っている人々が、それでも少ない実りを育てるために汗を流して働いている。
 莫大な数の兵士たちすべてへ兵糧の供給が難しく、皇帝は下級兵たちを農民へ変更させる手続きも推し進めようとしていた。
 それに良い顔をしない右大臣一派が、皇帝に軍の解体ではなく新地開拓を求めている……というのが最近の帝国内部の主な動きだ。
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