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第十二章 そして、これからのごはんを食べよう
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桜の季節が去っていくのはとても早くて、満開になったと思ったらすぐに散ってしまう。
夜空は好美たち一家と花見をしたのだが、それが今年最初で最後のお花見になってしまった。
毎日忙しく、かといって、季節の変わり目を感じられないほどの慌ただしさではない。『はぐれ猫亭』に来てもうすぐ一年になろうとしている。
葉桜になってしまった公園の脇を通り過ぎ、買い出しを済ませてから開店準備に取り掛かる。
祥の手伝いがなければ料理の準備をするだけでもつらかったのに、今では一人でも頑張れるようになっていた。
ピーク時には席数を減らしたり、一人の時にはオーダーを紙に書いてもらうような工夫もしたり、夜空は頑張っていた。
桜が散ってしばらく経てば、すぐに雨が多い季節がやってくる。
四季に富んだこの国では、毎日の変化に飽きることがない。
ベランダで食事を楽しめる暖かい日も増え、サーファーたちのウェットスーツも、薄手のものに変化してきている。
五月の終わり。
その日は珍しく、驚くような土砂降りに見舞われた。
常連客はほとんど顔を見せず、夜に順平が見回りついでにレインコート姿で来てくれた以外はお客さんもまばらだ。
「こんな雨じゃ出かけるのも苦労するよな」
ラストオーダーの前に完全に人がはけ、まるで台風の日のように静かだった。海には白浪が多く見える。風と雨の影響で、波が荒いのだ。
夜空は早めに店を切り上げ、看板のライトを消す。
クラシカルな文字で書かれた、喫茶『はぐれ猫亭』の文字が、夜の街に飲み込まれるようにして見えなくなった。
風が強くて、結局眠れなかった。
ぐずぐず寝転がりながら本を読み、映画を観ていたのだが、ちっとも眠気が来ない。
新メニューとデザート案をノートに絵とともに描き出し、雑誌に載っていたおいしそうなレシピを切り抜きしたスクラップブックを読み返した。
結局、眠気がやってきたのは明け方近くになってからだ。
とっくに朝日が昇っている。
ベッドに行くのもおっくうで、夜空は毛布を引っ張り出して、ソファに突っ伏す。
朝起きて、まだ眠かったらベッドへ行こう。
起き抜けに、美味しいメニューが思い浮かぶかもしれない。そんなことを考えているうちに気がつけば瞼がくっついていた。
珈琲のいい香りがした。
香ばしくローストされたそれは、深い香りを漂わせている。
珈琲を水代わりにする祥が、そんな芳醇な香りを漂わせられるわけがない。なので、夜空は夢かと思いながらキッチンに顔を向けた。
そこには、珈琲ミルが置かれている。
自分が出した覚えはない。
祥がなにかしたのかと思いながら、毛布ごとずるずると起き上がった。
しかし、腹の辺りが重いことに気がつく。夜空の上に上半身を突っ伏して寝ている人物がいた。
「……」
長くてちょっと癖の強い髪の毛が、まるでワカメのお化けのように広がっている。
倒れ込んでそのまま意識を失ったようで、ワカメお化けはピクリとも動かない。
開けっ放しになっていたカーテンから、朝日がまぶしく照らしつけている。空は見渡す限り真っ青だ。
テーブルの上には珈琲を飲んだカップが置いてある。
玄関に続く細長い廊下には、大きなキャリーバッグと、見たこともないサイズの袋がたんまり置いてある。
夜空はワカメ頭をそっと撫でた。
すると、ゆっくりと動いてもぞもぞとしながら顔を上げた。凛々しい眉毛に、眩しそうに細められた小粒な瞳。
「夜空くんおはよう。起こしちゃったよね、ごめんね。急に帰りたくなって、チケット取ったのよりも早い便で帰ってきたら、もはや夜中に到着、みたいな感じでね。しかも、機内でちっとも眠れなくて……ホラー映画観たのが原因かな?」
それに夜空は微笑んだ。
「たぶん、ホラー映画のせいですよ」
「家についたら珈琲飲んで起きてようって決めていたのに、毛布見たら眠りの神様に誘われて……それでね、夜空くん」
善はそこまで一気に話をしてから、凛々しい眉毛を八の字にする。
困ったように見えるその笑顔が、夜空は大好きだ。
そして、この街のみんなも、大好きな笑顔だ。
「夜空くん、ただいま」
「――おかえり、善さん」
夜空は身体を起こすと、善が伸ばした手にしっかりと掴まって、ぎゅっと抱きしめ合った。
外国の香りがふわっと漂ってくる。善の柔らかい髪の毛はくすぐったくて、夜空はその心地に笑ってしまう。
「ただいま、夜空くん……ありがとう」
善は小さく、でもしっかりそう言いながら、強く夜空を抱きしめた。
善の旅が終わったのだ。
傷は癒えなくとも、忘れられなくとも、それをまるっと飲み込んで、必ず帰るという約束を守って善は帰ってきた――。
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