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第十一章 なんでもない日々の奇跡の肉じゃが

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 善が旅に出たというのは、あっという間に近所中に知れ渡ることになった。さすがに一週間もマスターがいないので、常連客に気付かれてしまったのだ。
 落ち着いてからもろもろ話そうと思っていたのに、来る人の多くが「善くん、自分探しの旅に出たんだって!?」とやってくる。

 その度に夜空は「自分探しというか、なんというか」と苦笑いしながら少々あいまいに答えるしかなかった。
 おかげで夜空は退屈もしなければ、休む暇もないくらい大忙しだ。
 善がいなくなった初めは、この広い家で一人で寝るのが不安だったのだが、週明けには祥がボストンバッグを一つ持ってやってきた。
 夜空の身を案じてくれたのだろう。夜空は嬉しくて思わず祥に抱きつきそうになったが、手前で技を決められて痛い思いをした。
 二度と祥には抱きつくもんかと、心に決めたのはその時だ。

 祥は本業もあるので家に居ないことも多い。
 しかし、一緒の時はぶうぶうと文句と毒を吐きながら、夜空のことを手伝ってくれた。
 善の元居た部屋に居候する形で滞在し、それはそれで心強かった。
 庭で採れた野菜ができるたびに、光治や朝代もずいぶん『はぐれ猫亭』に来てくれる。
 光治はこの街に住んだらどうかと提案した責任があるから、できる限りの手伝いをして夜空を励ましてくれた。
 老アベックの笑顔とのろけ話は最高で、夜空の心の支えになっていた。



 常連客たちは、夜空が手いっぱいの時にはあいている皿を片付けてくれる。
 一人になってから初めて、善がゆるゆる接客しているように見えたのは錯覚だったと気づいた。
 オーダーを取り、料理を提供し、片づけをする。
 すべて同時進行で行われなければならない。気がつけば洗い物の山ができているし、お客さんが並んでいるのに、テーブルが片付けられないこともあった。
 目が回る忙しさに、疲れよりも驚きの連続だ。

「善さんは、本当にすごいです」

 手伝いの祥が洗い物をする横で、小さいフライパンを振るいながら夜空はこぼした。

「あいつが?」
「俺一人で切り盛りするの、手一杯ですよ。なのに、善さんはこのあとあかりさんとの仕事をこなしていて、俺の食事まで作ってくれて……信じられません」
「あー。まあ、あいつも必死だったしな。忙しくしていないと、心がもたなかったんだろ」

 夜空は手が止まってしまう。焦げるぞと言われて慌てて火を止めた。

「起きていれば彼女のことを思い出し、寝ようとすれば悪夢。忙しくしていればそれを考えなくて済むし、疲れすぎれば身体は悪夢を見る暇もなく休める」

 がさつに見えるが、祥は実際とても丁寧に仕事をこなす。皿をきれいに洗って、食洗器に美しい並べ方で入れていく。

「そうやっていないと生きていられなかったんだろ。でもな、夜空が来てからだいぶ顔色がよくなったんだぞ。多少は眠れてたんじゃないのか?」
「そうは思えなかったですが……でも、初めてこの店に来た時、目の前のソファで寝ていました」
「俺はあいつが寝ているところを見たことがないぞ。寝ろって言ってもねねーし、寝たと思ったらすぐ起きるし。夜空は信用されたか、同類だって思ったんだろうな」

 夜空を見た時に、思い出から逃げたい人だとわかった、と善が言っていたのを思い出す。
 夜空は思い出から逃げていたし、善は思い出しか受け入れたくなかった。
 自分が発しているなにかが人と人とを引き寄せ合い、結び付ける。
 それは縁であったり運であったりするのだが、なにかに導かれるようにして、善と夜空も出会ったのかもしれない。

「悲しい思い出の一つや二つは、誰しもあると思います。けれど、その思い出と経験があって今に導かれたのなら、俺は悪くなかったのかもって思えます」
「夜空も成長したってことだな。ま、お前はよく頑張ってるさ。知らない街に身一つで来て、やり直そうってんだから」

 祥が珍しく褒めたので、夜空は明日は雨だなと呟いていた。
 失礼な奴だと祥は憤慨したのだが、夜空の予想通り翌日は雨だった。
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