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第三章 さっぱり黒酢のお腹いっぱい大盛り酢豚
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「ああ、どうしよう。豚肉も牛肉もおいしそう。それに見て夜空くん、この鶏肉のプリプリ感……焼いても揚げても蒸してもおいしそう」
「善さんにそう言われるとお腹が空いてきちゃいます」
「あはは、さっき食べたばっかりじゃないか」
善は再度ショーケースの前で唸ってから、ピンとひらめいたように凛々しい眉毛を持ち上げた。そして興奮したように豚肉の塊を指さす。
「今日は酢豚、酢豚にしよう!」
まるで少年のようにはしゃぐ善に、夜空は苦笑いをする。すぐに店主を呼んで、豚肉の塊を手に入れた。
肉の塊を大量に購入したので、予想以上に荷物が重たくなる。両手にお肉を持ちながら、夜空は商店街を歩くことになってしまった。
「そうしたら、材料で足りないのはピーマンかな。それだけ買えば、あとはお店にあるから……」
最後のほうは、半ば自分自身に話しかけるかのような小さな声でぶつぶつ言っている。そんな善に苦笑いしながら、夜空は下ごしらえが大変かもしれないなと思っていた。
八百屋でピーマンを大量購入し、店に戻る道を歩く。不思議なことに、善の直感はよく当たる。なので、食材が足りなくて急きょ変更したメニューが提供できない、となることはない。
「今日はいつもより早出だね」
善はメニューが決まって嬉しいのか、ウキウキしている様子だ。といっても、善が不機嫌なところを夜空は見たことがない。
難しそうな顔をして夜通しパソコンを眺めていることはあっても、基本的には凪いだ湖面のように穏やかな人だった。
「こんなのどかな早出なら、俺は大歓迎ですよ」
「そう? 夜空くんは太っ腹だなあ」
今の環境がいいのだ。
会社で働いていた時には、意味もなく課せられる早出に文句さえ言えなかったのだ。今は、文句どころか不満の一つさえ出てこない。
あの頃の余裕のなさは、今の夜空には無かった。
もちろん余裕しゃくしゃくというわけではないのだが、以前のように理由なくピリピリとしていた気持ちは失せた。
「会社で働いていた時のほうが、お金に余裕があったのに、今はお金がなくても心に余裕があります。俺は、貯金額と心の余裕は、イコールだと思っていたのに」
お金があるから、彼女を養っていけるくらいの蓄えがあるから、自分は大丈夫だと思っていた。実際には、そんなことはなかったのだけれど。
「お金持ちの人の方が、苦労が多いってよく言うよね」
ちょうど『はぐれ猫亭』店に到着し裏口から入店すると、善はふにゃっとした顔のまま呟くように夜空に話しかけた。
「そうなんですか?」
「持ちすぎるとお金の処遇に困るし、人を信用できなくなる。お金を持たない人は持つ人をうらやむけど、持ちすぎる人は持っていない人が羨ましく思う……結局、みんな誰しも、ないものねだりなんだろうね」
ウッド調のカウンターに品物を置き、善は遠い目をしながら哲学的なことを言い始めた。
料理をする前に、善は四台置かれている珈琲サイフォンの手入れと準備を始める。この店の調度品は、アンティークとオリエンタルなものが目立つ。
年季の入った椅子や机があるかと思えば、四人掛けのソファは海外から仕入れたような猫足。
ラグもクッションも、トルコのシェニール織で、ウッディで重厚な室内の高級感を損なわない。
そして、キュタフヤ陶器のカラフルでポップな絵皿に入れられる、おばあちゃんの味とも言える優しい手料理が魅力だ。
夜空は空気の入れ替えをしようと、店の窓や入り口を開ける。窓側に置かれたモザイクガラスがきれいなトルコランプは、夜になるとこの店をより魅力的に照らしてくれる。
心地のよい風がふんわりと入り込んできて、店内をかけぬけていく。爽やかな色味のペルシャ絨毯を外に出して、砂を払った。
夜空は空気の入れ替えをしようと、店の窓や入り口を開ける。
心地のよい風がふんわりと入り込んできて、店内をかけぬけていく。
「ないものねだり……うん、きっとそうだ」
あんなに結婚が良いものに思えていたのに、今ではその気持ちは消えてなくなっている。
あの時の自分は、いったいなにに焦って、なにに期待して、どうしたかったんだろうと思えてくる。
夜空はキャリア志向ではなかったが、売れ残りと揶揄されるのには抵抗があった。
いつしかその恐怖心は、早く結婚しなければという焦りに変わったのだが、早かろうが遅かろうが、そもそも人生の節目に早い遅いはないのかもしれない。
結局は、自分と誰かを比較しながら人は生きていて、そして比べた挙句自分に足りていない部分を満たそうとする。
人間は欲深い生き物だ。
「夜空くん、野菜切るの手伝ってくれる?」
「はーい」
掃除をしていた手を止めて、夜空はカウンターの中に入る。すでに豚肉の下処理を始めていた善が、ニコニコしながらキャベツを差し出してきた。
「あんまり千切りとかは得意じゃないんで、ゴツゴツになっちゃうかも……」
「わかっているよ。スライサーで細切りにしてね」
ほっと胸をなでおろす。料理ができないわけではないが、人様に提供できるものを作れるほど器用ではない。
「それなら、俺にもできます。文明の利器ってすごい」
「お茶の子さいさいだよ夜空くんなら。サクッと準備しちゃおう」
頑張ろう、と夜空は意気込む。
これからしばらくは、できないことにもなるべく挑戦しようと決めていた。
今までと違う選択をしていかなければ、今までと同じことを繰り返すことになりかねない。
不安を根底に選択をするのではなく、希望を持って選択し続けていきたい。
もう、あんな思いは二度としたくない。なんて惨めでちっぽけで、不甲斐ないことだっただろうか。
結婚だけが、すべてではない。見た目がきれいな人が、善人とは限らない。見えるものだけに、すべてが語られるわけではない。
冷静になった今、騙された自分も悪かったような気がしていた。そういう隙を作ってしまったのは、自分が招いたことなのだ。
――しかし、人は、何度だってやり直せる。
そうでなければ、人生が長い意味がわからない。そう信じて、夜空はキャベツをスライサーの上で滑らせた。
「善さんにそう言われるとお腹が空いてきちゃいます」
「あはは、さっき食べたばっかりじゃないか」
善は再度ショーケースの前で唸ってから、ピンとひらめいたように凛々しい眉毛を持ち上げた。そして興奮したように豚肉の塊を指さす。
「今日は酢豚、酢豚にしよう!」
まるで少年のようにはしゃぐ善に、夜空は苦笑いをする。すぐに店主を呼んで、豚肉の塊を手に入れた。
肉の塊を大量に購入したので、予想以上に荷物が重たくなる。両手にお肉を持ちながら、夜空は商店街を歩くことになってしまった。
「そうしたら、材料で足りないのはピーマンかな。それだけ買えば、あとはお店にあるから……」
最後のほうは、半ば自分自身に話しかけるかのような小さな声でぶつぶつ言っている。そんな善に苦笑いしながら、夜空は下ごしらえが大変かもしれないなと思っていた。
八百屋でピーマンを大量購入し、店に戻る道を歩く。不思議なことに、善の直感はよく当たる。なので、食材が足りなくて急きょ変更したメニューが提供できない、となることはない。
「今日はいつもより早出だね」
善はメニューが決まって嬉しいのか、ウキウキしている様子だ。といっても、善が不機嫌なところを夜空は見たことがない。
難しそうな顔をして夜通しパソコンを眺めていることはあっても、基本的には凪いだ湖面のように穏やかな人だった。
「こんなのどかな早出なら、俺は大歓迎ですよ」
「そう? 夜空くんは太っ腹だなあ」
今の環境がいいのだ。
会社で働いていた時には、意味もなく課せられる早出に文句さえ言えなかったのだ。今は、文句どころか不満の一つさえ出てこない。
あの頃の余裕のなさは、今の夜空には無かった。
もちろん余裕しゃくしゃくというわけではないのだが、以前のように理由なくピリピリとしていた気持ちは失せた。
「会社で働いていた時のほうが、お金に余裕があったのに、今はお金がなくても心に余裕があります。俺は、貯金額と心の余裕は、イコールだと思っていたのに」
お金があるから、彼女を養っていけるくらいの蓄えがあるから、自分は大丈夫だと思っていた。実際には、そんなことはなかったのだけれど。
「お金持ちの人の方が、苦労が多いってよく言うよね」
ちょうど『はぐれ猫亭』店に到着し裏口から入店すると、善はふにゃっとした顔のまま呟くように夜空に話しかけた。
「そうなんですか?」
「持ちすぎるとお金の処遇に困るし、人を信用できなくなる。お金を持たない人は持つ人をうらやむけど、持ちすぎる人は持っていない人が羨ましく思う……結局、みんな誰しも、ないものねだりなんだろうね」
ウッド調のカウンターに品物を置き、善は遠い目をしながら哲学的なことを言い始めた。
料理をする前に、善は四台置かれている珈琲サイフォンの手入れと準備を始める。この店の調度品は、アンティークとオリエンタルなものが目立つ。
年季の入った椅子や机があるかと思えば、四人掛けのソファは海外から仕入れたような猫足。
ラグもクッションも、トルコのシェニール織で、ウッディで重厚な室内の高級感を損なわない。
そして、キュタフヤ陶器のカラフルでポップな絵皿に入れられる、おばあちゃんの味とも言える優しい手料理が魅力だ。
夜空は空気の入れ替えをしようと、店の窓や入り口を開ける。窓側に置かれたモザイクガラスがきれいなトルコランプは、夜になるとこの店をより魅力的に照らしてくれる。
心地のよい風がふんわりと入り込んできて、店内をかけぬけていく。爽やかな色味のペルシャ絨毯を外に出して、砂を払った。
夜空は空気の入れ替えをしようと、店の窓や入り口を開ける。
心地のよい風がふんわりと入り込んできて、店内をかけぬけていく。
「ないものねだり……うん、きっとそうだ」
あんなに結婚が良いものに思えていたのに、今ではその気持ちは消えてなくなっている。
あの時の自分は、いったいなにに焦って、なにに期待して、どうしたかったんだろうと思えてくる。
夜空はキャリア志向ではなかったが、売れ残りと揶揄されるのには抵抗があった。
いつしかその恐怖心は、早く結婚しなければという焦りに変わったのだが、早かろうが遅かろうが、そもそも人生の節目に早い遅いはないのかもしれない。
結局は、自分と誰かを比較しながら人は生きていて、そして比べた挙句自分に足りていない部分を満たそうとする。
人間は欲深い生き物だ。
「夜空くん、野菜切るの手伝ってくれる?」
「はーい」
掃除をしていた手を止めて、夜空はカウンターの中に入る。すでに豚肉の下処理を始めていた善が、ニコニコしながらキャベツを差し出してきた。
「あんまり千切りとかは得意じゃないんで、ゴツゴツになっちゃうかも……」
「わかっているよ。スライサーで細切りにしてね」
ほっと胸をなでおろす。料理ができないわけではないが、人様に提供できるものを作れるほど器用ではない。
「それなら、俺にもできます。文明の利器ってすごい」
「お茶の子さいさいだよ夜空くんなら。サクッと準備しちゃおう」
頑張ろう、と夜空は意気込む。
これからしばらくは、できないことにもなるべく挑戦しようと決めていた。
今までと違う選択をしていかなければ、今までと同じことを繰り返すことになりかねない。
不安を根底に選択をするのではなく、希望を持って選択し続けていきたい。
もう、あんな思いは二度としたくない。なんて惨めでちっぽけで、不甲斐ないことだっただろうか。
結婚だけが、すべてではない。見た目がきれいな人が、善人とは限らない。見えるものだけに、すべてが語られるわけではない。
冷静になった今、騙された自分も悪かったような気がしていた。そういう隙を作ってしまったのは、自分が招いたことなのだ。
――しかし、人は、何度だってやり直せる。
そうでなければ、人生が長い意味がわからない。そう信じて、夜空はキャベツをスライサーの上で滑らせた。
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