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第6章 封ずる

第60話

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『あさましい、金と権利と欲しか持てないのか人は!』

 兵士たちを丸飲みして魄を咀嚼した賢人は、瞼のない眼球から涙を流して嘆き喚く。辺り一帯が腐敗臭にまみれ、兵士たちの断末魔が耳の奥にこびりつくようだ。

「柰雲、阿流弖臥《あるてが》は消えたが……これは想定内か?」

 カイが恐ろしい光景に眉をひそめながら訊ねてくる。もちろん柰雲は首を横に振った。

「こんなことになるはずじゃなかった。賢人の亡霊を止めるしかない」

「逃げたほうがいい……あれは人の手に負えない」

「駄目だ。放っておけば厄災になって參ノ國が亡びる。自分の満足のいく魄を見つけるまで、彼は止まらないはずだ」

 柰雲はカイの制止を聞かず、角岩の脇に避難していた小舟から降りると賢人の前へ進み出た。

「賢人!」

 柰雲のぴんぴんした姿を、賢人の瞳が捉える。食い荒らした人々の欲という『理想』でどす黒く膨れ上がった賢人の口元が、ゆらりと笑顔の形に歪められた。

『柰雲、探したぞ。さあ、あの場所へ戻り、豊かな大地を愛でよう』

 賢人の手が伸ばされるが、柰雲はそれに首を振った。

「あなたの理想は素晴らしい。あのような世界を見てみたいと、わたしも心の底から思えた」

『あの場所でともに理想を築き上げよう』

「だけど、どんなに素晴らしくても、あそこは現実ではない」

『理想を現実にするのは不可能だ。この世界は、莫迦な欲望にまみれすぎている』

 賢人の聲は波を立たせ、角岩が揺れるような悲しみと怒りを持っていた。

 柰雲はカイが夢見る世界を、与那が夢見る理想を知っている。そしてそれは、柰雲の望む世界とは完璧に一致しないということも。そして、そのどれもに良い悪いがあるわけではない。

『私の理想は正しい。正義にも等しい。人間同士で優劣をつけ、搾取しあうなど愚かでしかないからだ。柰雲もわかっているだろう?』

 それに奈雲は眉根を寄せた。

「しかし、あなたの理想だけが正しいと決め、人に押し付けようとするのは正しくないことだと思います」

『なぜわからぬ!』

 賢人は怒りを持って柰雲を睨みつけてくる。魄を焼かれるような、強烈なものを感じるが、柰雲は耐えた。

 優しく、そして哀れではかない亡霊となった賢人は、すでに身体が崩壊しかけていた。多くの人間の魄を短時間に飲み込みすぎたのだろう。彼の身体は内部で膨張してはしぼんでを不安定に繰り返している。

「正義はこの世に存在しません。正しさも、常識も。だから、それを人に押し付けるのはただの暴力です」

 賢人の頭がぼろぼろと崩れ落ちた。まるで駄々をこねるかのように、賢人の口から雄たけびが上がる。それによって、顎だった部分と口元が壊死して崩壊した。
 
 賢人が見せてくれたあの場所は、たしかに心地好かった。夢を見ているようなふわふわした感覚がずっと続いていて、このままでいいと思ってしまうくらい柰雲も夢中になった。

 しかしあの世界には、人との交わりも生き物たちとの交流も、お互いを思いやる気持ちもなかった。生きているという実感の持てない、ただただ空虚なものしか漂っていなかった。

「愛をもってしか、人の生活は成り立たない。あなたの理想に、決定的に足りないものです」

 生臭い賢人の咆哮が見渡す限りの海に響く。

「それがわからないあなたには、あちらの場所がふさわしい」

『よくも侮辱してくれたな……!』

 柰雲はフジツボのついた大刀を、自身の目の前で真一文字にかざした。

『愛などくだらない。友も家族も、そんなもの結局は他人で都合が悪くなればすぐに離れていく。私なら、お前をずっと心地好いままにしてやれるのに!』

「だからこそ愛と信頼が必要で、生きて学ぶことが大事なんだ。縛り付ける関係よりも、互いに成長しあう道をわたしは選びたい」

 大刀を鞘から引き抜く。刀身はぼろぼろになり、錆びて刃こぼれしていた。

『そんなもので私を止めようとは笑える。 柰雲、私を侮辱したことを後悔しろ。今度こそ引きずり墜としてやる』

 賢人の口から黒々とした呪詛の塊が生成され始めた。

「死人の戯言などに、生きているわたしが負けるものか」

 両手が柰雲に摑みかかろうとした瞬間。賢人のこめかみめがけて、一本の矢が突き刺さった。

『――――!』

 カイと稀葉のいる舟に乗り移っていた与那が、矢を見事に賢人に命中させたのだ。

 矢先はじゅうじゅうと音を立てて賢人の頭の内側に入っていく。こめかみから強い氣を放ち、賢人を崩し去ろうとした。

 矢の刺さった痛みで、賢人は耳をつんざくような奇声を発する。

『くそ、よくも私を陥れたな! 許さない!』

 口の端に呪詛の黒い塊をまき散らしながら、賢人は痛みに顔をゆがめ、苛烈に柰雲をにらみつけた。

「……さようなら、賢人。ありがとうございました。ここでわたしは、あなたと道を違《たが》えます」

 奈雲が大刀を切先から竇の縁へ下ろす。

 すると、そこを起点にして角岩がみるみる左右から折りたたまれて、竇を潰しながら隆起していく。

「あなたの理想は、わたしが現実に引き継ぎます。安らかにお眠りください」

 柰雲は賢人に別れを告げながら、大刀を押し返そうとしてくる力に負けないよう、さらに強く柄を握りしめた。

 まるで雷鳴が近くで破裂するかのような音が辺りに響き渡り、角岩が徐々に左右から折りたたまれて狭まっていく。竇が内側へ歪みこみ、賢人は飲み込まれていく。

 神域の底へ押しやられようとしていることに気付いた賢人は、最後の力を振り絞って抵抗していた。

 空を割るような咆哮が聞こえ、賢人の口元にみるみる呪詛が形成される。どす黒いそれは渦を巻き、だんだんと大きくなっていった。

 柰雲は全身の力を振り絞って大刀を突き立てて押し込めようとする。賢人の押し返すすさまじい威力に、全身から汗が噴き出していた。

 水がうねり、風が鳴き、水しぶきは鋭く打ちつけて水の刃となって柰雲の身体を切り刻んでくる。

 さらに竇から逆流して来る海水が、身体を陸へ押しやろうとしてくる。脚に力を入れ、柰雲は必死にその場に留まった。
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