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第5章 賢人
第54話
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カイと与那が異変に気がついたのは、風のない日の夜更けすぎのことだ。
すでに柰雲が神常の神域へ向かって、二回目の満月を明日の早朝に迎える。一向に変化の見られないまま、二人はただただ帰りを待つしかなかった。
稀葉は主人の帰りを信じているらしく、昼も夜も浜辺に座り続けては飽きもせずに海を眺めている。
絶望感が大きくなりかけていても、ずっと主人を待っている稀葉の後姿に励まされていた。
潮の流れが大きくうごめき変化したのは、待ちくたびれて心の沈み込みが頂点に達しそうな時だった。
胸騒ぎで目が覚めた与那が外へ出ると、風がぴたりと止んでいた。
先日の夕方まではものすごい強風で立っているのもやっとだったのに、日が昇り始める今はそれが嘘だったように風が凪いでいる。虫や鳥の声もしなく、嫌に波音も静かで不気味だ。
「……なんだ、これは?」
気持ち悪さに眉をひそめながら小屋に戻ると、カイも半身を起こしてなにやら複雑な顔をしていた。稀葉の耳がぴくぴくと動いたかと思うと、パチリと目を開ける。
「カイ、なんか変じゃないか?」
与那の問いに、カイは頭を押さえて痛がり始める。慌てて近寄ると、カイは脂汗を額に滲ませながら奥歯を噛みしめていた。
「カイ、大丈夫か!?」
「呪具が壊された……柰雲に渡したものだ」
与那はひしゃくに水を汲んできてカイへ渡す。それを一気に飲み干して一息つくと、カイは目を開けたまま集中し始める。しばらくすると、今度は顔を青くした。
「柰雲の気配が辿れない。元々消えかけていたが、今はそれが消えそうだ」
この二カ月近く、カイは毎日のようにまじないをしては、柰雲の魂に直接話しかけていた。
与那と共に角岩まで出かけて様子を見ていたのだが、カイは日に日に柰雲の気配が弱まっていくと嘆いていたのだった。
「まずい、本当に消えそうだ……与那、角岩へ向かおう」
「すぐ舟を用意する」
あと数刻で空が白み始めてくるだろうという時刻に、真っ暗い海に向かって小舟を出した。
いつもは浜で大人しく待っている稀葉が、二人の後を追ってひょいと舟へ乗り込んできた。
衝撃でグラグラと船体が揺れて大慌てしたが、稀葉は耳を神経質に動かしながら、鋭い眼光で角岩を見据えている。
「稀葉……柰雲が帰って来るのか?」
「行くぞ。カイ、稀葉」
「ああ、頼んだ」
与那の操縦によって沖合まで来ると、二人は絶句した。
黒々とした角岩のまわりは波もなく穏やかなのに、角岩の根元には巨大な渦ができており、海水がみるみる内側へ吸い込まれている。
獸の唸り声のような音を立てながら、黒い竇の中に海水がぐるぐると吸収されて行く様は、この世のものとは思えないほどの不気味さだ。
置きっぱなしにしておいた帰還用の小舟に与那が飛び乗ると、カイが今乗ってきた舟の舫《もや》いを岩場に固定した。
縁より手前は波など一切立っていないため、舟は凄まじい荒波の影響を受けていなかった。
「なんだこれは? カイ、わかるか?」
「私にもわからない。だけど、中でなにかが起こっているんだ。柰雲、無事でいてくれ」
あまりにも現実離れした光景に、与那もカイも足がすくんでしまっていた。そこから渦巻いてくる悲しみと絶望に、言葉を失わざるを得ない。角岩の根元をただ眺めることしかできなかった。
固まったまま動けない二人に代わるかのように、稀葉が急に立ちあがる。そして、竇の中を見つめて唸り始めた。
「稀葉、柰雲がいるのか?」
カイが瞬きをした時、荒波が内側に吸い込まれるのが止まった。
ハッとして中を凝視した時。鋭い声とともに頭上を旋回していた昴が直角に急降下し、素晴らしい速さで中へ入って行った。
「昴――!?」
与那は落ちそうになるほど舟べりに身体を寄せて、真っ黒い竇の中へ吸い込まれていった昴に手を伸ばす。しかし与那の手は届かず、指先が海水を掻いただけで終わる。
「昴、クソっ! どうしたんだ!」
稀葉もカイが押さえつけるのも聞かず、舟べりから身を乗り出して、今にも中に入って行きそうになっている。
「与那、昴を追うな。たぶんきっと――」
カイが叫んだ瞬間、中から昴が戻ってきた。瞬きすると、またもや海水が渦を巻いて、内側に吸収されていく。
危機一髪で逃れた昴は、嘴になにかを咥えていた。白み始めた空で旋回して角度と速度を調整した昴は、与那の舟にそれを落とす。
与那は昴が運んできたものを掴んで、目を丸くした。
「……俺の渡した袋と……なんだこれは、稲穂?」
しわしわになった稲穂と袋を見つめているうちに、昴が舟べりへやってきた。
「昴、これは一体……柰雲が生きているということか?」
昴は与那の問いに答えるように、鋭く長く声を発する。カイもびっくりしたように一連の動きを見ていたのだが、とつじょ稀葉がものすごい勢いで動いた。
「うわあ……稀葉、落ちる!」
カイは大慌てで稀葉が落ちないようにしがみついた。しかし稀葉は、すでに前足を海水へ浸けて水を掻いている。その強い力に舫いが外れ、小舟が竇の縁に向かって流された。
「カイ!」
与那が舫いの先端を掴んだおかげで、どうにか竇に落下するのは免れた。だが、舟はギリギリのところで止まっている。
渾身の力をこめて与那が引っ張るが、波の力が強く腕がちぎれそうになる。おまけに、与那の乗っている小舟を止めている舫いまで、ミシミシと音を立て始めた。
「カイ、船尾へ。海に飛び込んでこっちまでへ来い!」
「だめだ、稀葉が……」
カイが今手を放せば、稀葉は波を呑み込む竇へ落ちてしまう。
与那は盛大に舌打ちをしたのだが、稀葉は中を見つめたまま動かない。与那の腕の筋肉が悲鳴を上げ、稀葉を押さえているカイももう限外だった。
だめだと誰もが思った時。
「稀葉……ああっ!」
カイが止めるのも聞かずに、稀葉はさらに身を乗り出して渦巻く縁の海水へ顔をざぶりと浸けた。
必死に稀葉にしがみつき、カイは稀葉の身体が吞み込まれないようにする。
「稀葉もう無理だ!」
カイが声を振り絞っていると、稀葉の筋肉が躍動する。水を掻き、後ろ脚でたたらを踏んで舟へ身体を戻した。その口元には、なにかが咥えられている。
「稀葉、良かった……あっ!」
カイは稀葉が水の中から引っ張り上げたそれに近寄った。
「柰雲……」
そこにはずぶぬれになった柰雲の姿があった。
「おい、柰雲! しっかりしろ!」
うつぶせに倒れ込んでいる柰雲の身体をひっくり返そうとすると、竇から怒涛の勢いで海水が噴き出してきた。
聲さえ出せないほどの勢いの波に襲われる。嵐のような荒波は、二つの小舟を角岩の外へ押しやった。
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