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第5章 賢人
第51話
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出かけていた賢人が戻ってくると、柰雲は囲炉裏端で彼を待っていたかのような装いで正座をした。
帰ってきた賢人に「おかえりなさい」と声をかける。賢人は決して頭巾を取らないので、顔を今まで一度たりとも見たことがない。だが彼は機嫌よく口元にほほ笑みをたたえ、柰雲の近くへ足音もなく近寄って坐った。
「柰雲、今日も田を眺めて過ごそう。実りが大きく、豊作だ」
「はい、そうします」
立ち上がった賢人の後に続き、外へ出る。
「どうだ。美しい世界が広がっているだろう」
賢人は両腕を伸ばし満足そうに深呼吸をしている。「素晴らしいです」と返事をしたが、今や柰雲の目には美しい田畑の光景は映っていない。
ぼこぼこと地面から嫌なにおいが湧き上がる沼、骸の転がる大地、そこを這いまわる黒い亡霊のようなものが見えていた。稲穂だと思っていたものは、すすけて黒く枯れている残骸のようなものだ。
しかし瞬きすると、黄金色の実りが色づく大地と、青い空が観えてくる。
豊かで幻想的な光景に引っ張られてしまいそうな心に氣がつくと、柰雲はわざと作った腕の傷口に自分の指をこっそり押し入れた。
痛みで目が覚めると世界は一変し、悪臭漂う暗い光景が現れる。ちょっとでも気を抜けば、幻想的な光景と美爾の笑い声が聞こえる。
美しい大地の幻影を観るたびに、気が狂いそうになるのを必死でこらえて傷口を押し広げるようにして正気を保とうとした。
「賢人。あの稲穂は、和賀ノ実なのでしょうか?」
さも普通な様子に聞こえるように心がけながら訊ねると、賢人は遠くを見つめながら口元をゆがめた。
「あれはただの白寿《はくじゅ》の実だ。あっちは寒稻《かんとう》、それにこの手前は青稻《あおいね》……そして一番奥のあの一番豊かに広がっている稲穂、あれが人間たちが恐れている、毒稲《どくいね》だ」
「あれが、毒稲ですか?」
寒稻と交配すればすべての稻が毒稲になってしまうはずだ。それなのに、毒稲の特徴であるまがまがしい緋色は見えず、たゆたう黄金色の稲穂が風に揺れている。
その幻想にまたもやとらわれそうになり、柰雲は傷口を痛めつけた。
「わたしは、あれらが和賀ノ実だと思っていたのですが……」
「そんなものは存在しない」
賢人の一言に、柰雲は驚愕を通り越して絶望した。しばらくの沈黙ののち、柰雲はやっとの思いで口を開く。
「言い伝えによれば、賢人たちは豊かさを伝え、そして愚かな人たちに愛想をつかして、和賀ノ実を持ち帰ったと……」
「柰雲。人とは難儀なものだ。言葉を持ったのにそれすら正しく使えないとは」
「どういうことです?」
「和賀ノ実などというものは、そもそもこの世界に存在しない。それは、人が創り出した理想の幻だ」
賢人は、きっぱりと言い放った。
「我らの行いは、文字を持たない人々が言い伝えとして口伝えに後世へ広げていった。しかし、広がれば広がるほど、それらは間違って伝わっていった」
各地に残る三賢人の伝説が違っていたのを思い出す。
「誰か一人が自分の都合によって解釈を変えた話をすれば、それが本当だと伝わっていってしまう。力を持つ者の発言ならば、なおさら信憑性が増す」
「おっしゃる通りです」
「間違いが広がり、結果として本質からかけ離れてしまうことがある」
「つまり、最初から和賀ノ実は存在していないのに、意図的に間違えて伝えられたということですか?」
そうだ、と賢人はうなずく。
「私たちが伝えた『豊かさ』とは、物ではない。我らが伝えたのは『技法』だ」
「技法……?」
「ああ。稲の間に、別の作物を植える技術を伝えたのだ」
「そんなことができるのですか?」
賢人の笑顔の後ろに黄金色の大地が広がって観える。傷口へと指を入れて動かすと、痛みに目がちかちかして幻影が消える。
今ここで、大事な話の途中で、幻影に呑まれるわけにはいかなかった。
「別の國から物質を持ち込むことは不可能だ。それでも我らは、やせ細った大地で屍のように生きている參ノ國の人間たちを救いたくて、知恵を働かせることにした」
賢人は懐かしむように、遠くを見つめる。
「參ノ國の水田に植わっている稲の間に、とある『作物』を植えることで根本的な食糧問題は解決した。やわでふかふかだった大地が安定し、稻も『作物』も食べることができるようになった。そして、人々の暮らしは安定して豊かになったのだ」
やり方は簡単だ、と賢人は楽しそうに話す。
「田を耕し始めた時に、まずはその『作物』を植える。それの芽が出てきたころに田に水を張る……そうして、作物との間に稻を植えていくだけだ」
初めて聞く話に、柰雲は全神経を集中させて聞き入っていた。
「初夏には田に『作物』の美しい赤い花が咲き乱れ、散って稻の栄養となる。稻を収穫した後に『作物』の根を掘り返せば、それも食べることができる」
「そんなことができるのですね」
「今では、その『作物』は嫌われてしまったが、私が伝えた時はみなが喜んでくれたものだよ」
興奮と痛みとで、柰雲の鼓動が速くなった。そして、天と線が繋がっていく感覚に、柰雲ははっとした。
「まさか、その作物とは……」
「知っているはずだ。そなたもきっと、耳にしたことがある」
柰雲は唇を噛みしめた。
「ガノム……ですか?」
「そうだ」
興奮と複雑な感情、そしてこれを早く伝えなくてはという焦りが柰雲の胸を駆け巡っていく。全身の血が沸騰したかのように熱く、めまいを引き起こしそうになって目をつぶった。
「毒を以て毒を制す。つまりは、そういうことだ。ガノムは、毒稲の毒も土に含まれた毒も吸収することで、お互いを打ち消してしまい無害化する」
なぜ今までそのことに誰も気づかなかったんだろうか。しかし柰雲自身も、田んぼにガノムを植えようなどと思ったことはない。結果が悪かった場合、一族の何人かが餓え死ぬことに直結する。
「加えて、毒のない稲穂の間に植えても土を浄化する。土の中の悪いものを自らの栄養に変えて、美しい赤い花を咲かせる。だから、毒を吸収している時期のガノムの毒は強烈で、人の手には負えない」
「毒があるからこそできる……欠点は、必ずしも欠点ではないのですね」
賢人は嬉しそうにうなずいた。
「これはのちに、『我飲《がのむ》の御知恵《みちえ》』と言われて広がっていく」
歴史を紐解く会話がそれからも続いた。
帰ってきた賢人に「おかえりなさい」と声をかける。賢人は決して頭巾を取らないので、顔を今まで一度たりとも見たことがない。だが彼は機嫌よく口元にほほ笑みをたたえ、柰雲の近くへ足音もなく近寄って坐った。
「柰雲、今日も田を眺めて過ごそう。実りが大きく、豊作だ」
「はい、そうします」
立ち上がった賢人の後に続き、外へ出る。
「どうだ。美しい世界が広がっているだろう」
賢人は両腕を伸ばし満足そうに深呼吸をしている。「素晴らしいです」と返事をしたが、今や柰雲の目には美しい田畑の光景は映っていない。
ぼこぼこと地面から嫌なにおいが湧き上がる沼、骸の転がる大地、そこを這いまわる黒い亡霊のようなものが見えていた。稲穂だと思っていたものは、すすけて黒く枯れている残骸のようなものだ。
しかし瞬きすると、黄金色の実りが色づく大地と、青い空が観えてくる。
豊かで幻想的な光景に引っ張られてしまいそうな心に氣がつくと、柰雲はわざと作った腕の傷口に自分の指をこっそり押し入れた。
痛みで目が覚めると世界は一変し、悪臭漂う暗い光景が現れる。ちょっとでも気を抜けば、幻想的な光景と美爾の笑い声が聞こえる。
美しい大地の幻影を観るたびに、気が狂いそうになるのを必死でこらえて傷口を押し広げるようにして正気を保とうとした。
「賢人。あの稲穂は、和賀ノ実なのでしょうか?」
さも普通な様子に聞こえるように心がけながら訊ねると、賢人は遠くを見つめながら口元をゆがめた。
「あれはただの白寿《はくじゅ》の実だ。あっちは寒稻《かんとう》、それにこの手前は青稻《あおいね》……そして一番奥のあの一番豊かに広がっている稲穂、あれが人間たちが恐れている、毒稲《どくいね》だ」
「あれが、毒稲ですか?」
寒稻と交配すればすべての稻が毒稲になってしまうはずだ。それなのに、毒稲の特徴であるまがまがしい緋色は見えず、たゆたう黄金色の稲穂が風に揺れている。
その幻想にまたもやとらわれそうになり、柰雲は傷口を痛めつけた。
「わたしは、あれらが和賀ノ実だと思っていたのですが……」
「そんなものは存在しない」
賢人の一言に、柰雲は驚愕を通り越して絶望した。しばらくの沈黙ののち、柰雲はやっとの思いで口を開く。
「言い伝えによれば、賢人たちは豊かさを伝え、そして愚かな人たちに愛想をつかして、和賀ノ実を持ち帰ったと……」
「柰雲。人とは難儀なものだ。言葉を持ったのにそれすら正しく使えないとは」
「どういうことです?」
「和賀ノ実などというものは、そもそもこの世界に存在しない。それは、人が創り出した理想の幻だ」
賢人は、きっぱりと言い放った。
「我らの行いは、文字を持たない人々が言い伝えとして口伝えに後世へ広げていった。しかし、広がれば広がるほど、それらは間違って伝わっていった」
各地に残る三賢人の伝説が違っていたのを思い出す。
「誰か一人が自分の都合によって解釈を変えた話をすれば、それが本当だと伝わっていってしまう。力を持つ者の発言ならば、なおさら信憑性が増す」
「おっしゃる通りです」
「間違いが広がり、結果として本質からかけ離れてしまうことがある」
「つまり、最初から和賀ノ実は存在していないのに、意図的に間違えて伝えられたということですか?」
そうだ、と賢人はうなずく。
「私たちが伝えた『豊かさ』とは、物ではない。我らが伝えたのは『技法』だ」
「技法……?」
「ああ。稲の間に、別の作物を植える技術を伝えたのだ」
「そんなことができるのですか?」
賢人の笑顔の後ろに黄金色の大地が広がって観える。傷口へと指を入れて動かすと、痛みに目がちかちかして幻影が消える。
今ここで、大事な話の途中で、幻影に呑まれるわけにはいかなかった。
「別の國から物質を持ち込むことは不可能だ。それでも我らは、やせ細った大地で屍のように生きている參ノ國の人間たちを救いたくて、知恵を働かせることにした」
賢人は懐かしむように、遠くを見つめる。
「參ノ國の水田に植わっている稲の間に、とある『作物』を植えることで根本的な食糧問題は解決した。やわでふかふかだった大地が安定し、稻も『作物』も食べることができるようになった。そして、人々の暮らしは安定して豊かになったのだ」
やり方は簡単だ、と賢人は楽しそうに話す。
「田を耕し始めた時に、まずはその『作物』を植える。それの芽が出てきたころに田に水を張る……そうして、作物との間に稻を植えていくだけだ」
初めて聞く話に、柰雲は全神経を集中させて聞き入っていた。
「初夏には田に『作物』の美しい赤い花が咲き乱れ、散って稻の栄養となる。稻を収穫した後に『作物』の根を掘り返せば、それも食べることができる」
「そんなことができるのですね」
「今では、その『作物』は嫌われてしまったが、私が伝えた時はみなが喜んでくれたものだよ」
興奮と痛みとで、柰雲の鼓動が速くなった。そして、天と線が繋がっていく感覚に、柰雲ははっとした。
「まさか、その作物とは……」
「知っているはずだ。そなたもきっと、耳にしたことがある」
柰雲は唇を噛みしめた。
「ガノム……ですか?」
「そうだ」
興奮と複雑な感情、そしてこれを早く伝えなくてはという焦りが柰雲の胸を駆け巡っていく。全身の血が沸騰したかのように熱く、めまいを引き起こしそうになって目をつぶった。
「毒を以て毒を制す。つまりは、そういうことだ。ガノムは、毒稲の毒も土に含まれた毒も吸収することで、お互いを打ち消してしまい無害化する」
なぜ今までそのことに誰も気づかなかったんだろうか。しかし柰雲自身も、田んぼにガノムを植えようなどと思ったことはない。結果が悪かった場合、一族の何人かが餓え死ぬことに直結する。
「加えて、毒のない稲穂の間に植えても土を浄化する。土の中の悪いものを自らの栄養に変えて、美しい赤い花を咲かせる。だから、毒を吸収している時期のガノムの毒は強烈で、人の手には負えない」
「毒があるからこそできる……欠点は、必ずしも欠点ではないのですね」
賢人は嬉しそうにうなずいた。
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