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第5章 賢人

第48話

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「うわっ――……!」

 弾き飛ばされたようにひっくり返ったカイの腕を、与那《よな》がとっさに掴んだ。

 与那に腕を掴んでもらっていなければ、カイは吹き飛ばされて船上から海へ投げ出されていた所だった。

 身体を舟底に打ちつけてしまったカイは、胸を上下させるほどの荒い呼吸を繰り返しながら、額を押さえていた。

「あっぶねぇな……カイ、大丈夫か? カイ?」

「大丈夫だ……それより」

 カイは落ち着いてからゆっくり起き上がる。背中を舟底に打ったせいで、軋むような痛みが全身をめぐっていた。それを押し殺して呼吸を再度整えると、カイの額は横一文字に切られていた。

「それより……っていうか、でこ切れてるぞ」

「大したことない」

「いや、大したことあるだろ。一体なんだっていうんだよ、急に倒れ込んだかと思ったらでこから血ぃ吹き出して……」

 カイは自分の額に指を這わせ、血が出ているのを言確認するとムッとした。すぐに海水で傷を洗い流す。強い痛みにうめいたが、舟から身を乗り出して海水に顔をつけると、しばらくして顔を上げた。

 服の袖で額についた水分を拭き取ってまじないを唱えると、カイの身体が青白く発光し始める。そして、しゅるしゅると額の傷が消えた。

 間近でカイのそれを見てしまった与那は、ぽかんと口を開ける。

「なんだよ、それ。傷が治った……?」

「海が近ければ、カカの力を微調整しながら引き出せるからな」

 それより、とカイは再度憤慨したような聲を出す。

「あいつ、私を吹き飛ばしやがった……なんていう力だ!」

 カイは忌々しそうに吐き捨てながら、海底をにらみつけた。

 カイと与那は、あまりにも帰りが遅い柰雲を心配し、角岩《つのいわ》に繋がれている小舟の様子を見に来ていた。

 小舟の中か岩場に柰雲がいるかもしれない、という淡い期待を抱きながら向かったが、結果として小舟はそのままになっていて人気はなかった。

 海底に沈んでいる角岩の根元には、大きな黑い竇が不気味に口を開けているように見える。

「なんにしてもおぞましすぎるだろ、これは」

 あまり物事に対して動揺しない与那も、角岩の根元の竇は背筋が寒くなる。黒々とした二つの岩の間は、来訪者を圧迫してくるようだ。

 透き通るような美しい青い海なのに、角岩のまわりは波が荒く、波が岩肌にザバザバとぶつかるせいで海流が複雑になっていた。

 その上、ぽっかりと大きく開いた口のような竇は真っ暗で底がまるで見えない。

 青黒く見える竇の上に小舟を寄せて、帰りの遅い柰雲に向かってカイがまじないを通じて言葉を送ろうとしていた時の出来事だった。

 柰雲が満月の夜に角岩へ向かって、すでに二週間。

 まったく帰って来る様子のない毎日に、村人はカイと与那を哀れな目で見るようになっていた。

「くそ、なんだあいつ……あれが賢人か?」

「カイ、なにがあったんだよ?」

「柰雲の気配を追ってたどり着いたんだけどな、すでに魂魄《こんぱく》が分離している状態だった」

「はあ? それって、かなりまずいんじゃ」

 それにカイはうなずく。

「まずいなんてもんじゃない。おまけに柰雲の魂の輪郭が薄れていた……それで、食べ物を与えられそうになっていたから止めた」

 与那はあからさまに嫌な顔をした。

「……あれほどだから食うなって言ったのに」

「操られている。肉体である魄《はく》が消えかけてない今、柰雲の魂はむき出しの状態だ。そこにつけいろうとしている。あれが賢人だと言うなら、とんだたぶらかし野郎だ」

 カイは悪態をつくと、再度海の竇をにらみつける。

「忌々しいが、これ以上は体力がもたない。この状態でまじないを続ければ、私も引っ張られてしまう。あんな奴は初めてだ」

「そんなにすごいのか」

「ああ。与那、一度陸へ戻って、体勢を立て直すぞ」

 気丈にふるまっていたが、相当疲れているのが与那にもわかった。カイの額からは脂汗が滲みだし、唇も青くなっている。与那は「了解」と乗ってきていた小舟の舫《もや》いを外した。

「……どうにかならないもんか?」

「わからない。あいつは柔らかい柰雲の魂に、なにかを吹き込んでいるようだった。柰雲の魂が、それに耐えられれば大丈夫だろう」

 カイはうっと胸を押さえつけると、舟べりから身体を乗り出して吐いた。

 与那が慌てたのだが、カイは大丈夫だとつぶやく。言葉とは逆に顔色が悪く、苦しそうにこめかみを押さえている。

「おい、大丈夫かよ?」

「大丈夫だ。岸に着いたら与那も一緒に海水で禊をするぞ」

「なんでだ?」

「あそこは、ひどい場所だった。骸がいくつも転がり、暗闇を好む生物たちが湧き溢れていた。汚れていて冷たく、薄気味が悪い。柰雲は腐った土でできた泥の団子を口にしようとしていたんだ」

 それに与那は顔をしかめた。

「なんだそこ、墓場かなにかか?」

「死んだ者たちが向かうと場所の一つだろう。普通の魂は輪廻転生をし、新たに魂を新しい魄《いれもの》に入れて生まれ変わって成長するが、あそこは暗くよどんでいた。罪によって輪廻から外れたか、魂の成長を拒絶した愚か者たちが堕ちる場所だ」

「そんなおっかねぇ場所があるのか」

 ぎこぎこと舟を漕ぎながら、与那はさらに渋面になった。

「あそこに堕ちたら最後、生まれ変わることができない。魂はいずれ消滅するだろう」

「消滅すると、どうなる?」

「二度とこの世界に生まれて来られない」

 どん、と小舟の𦨞《かわら》が浜の砂に乗り、船体が揺れた。カイはすぐさま舟から飛び降りると、頭から海水に飛び込み、肩まで浸かったところで体中を洗う。

 自分の禊がおわると、のんびりと舟の撤収をしている与那を引っ張って海へ放り込んだ。

「カイ! なにすんだよ!」

「とっとときれいにしておけ。さもないと持っていかれるぞ」

 カイの顔色が多少良くなったのを確認し、与那も身体を清める。

 水打ち際でしりもちをつく形で座り込んだ与那は、先ほどまでいた角岩を見つめる。カイも仁王立ちしながら神常の神域と呼ばれる不気味な場所を見つめた。

「柰雲は大丈夫なのか?」

「なにが神域だ、あんなところ。奈雲が負けるもんか。与那も信じろ」

 カイは口を引き結ぶと、勇み足で小屋へ戻っていく。与那はカイの後ろ姿を見つめながら、しばらく角岩を見ていた。

「柰雲、帰って来い。お前は初めてできた友達だ」

 失いたくない、と与那は瞼をつぶった。
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