42 / 67
第4章 神域へ
第39話
しおりを挟む*
小高い丘を抜けた先の、海が見える場所に神常《かむどこ》の神域はある。カイにそのように言われたのは本当だった。
丘の上から見えた断崖絶壁はすさまじく切り立っており、その先には果てしのない真っ青な海が広がっていた。
「……これが、海?」
「そうだ。独特な匂いもするだろう。生き物たちの匂いだ。美しく恐ろしく、聖なる場所だ」
柰雲は丘の上から、初めて見る青い宝石のような世界を見つめた。
波は荒く、白い波がいくつも立っている。莫大な音を響かせて崖にぶつかり、しぶきが飛び散るさまはまるで生き物か何かのようだった。
「カイの村は――?」
「あっちだ。裏側を通り抜けてきた。この先の村から、神域だといわれている場所が見えるはずだ」
「もうすぐなんだ、本当に」
「私は嘘をつかないぞ。海が美しくて見とれる気持ちはわかるが急ごう。日が暮れてから行くのは良くない。漁師たちは早起きだ」
カイに引っ張られるようにして、丘を越えてさらに崖の上をどんどんと歩き進める。そして、その先の海辺に近くに、ぽつぽつと建てられている家々が見えてきた。
「あそこの村だ。そして、この海の先――あれが、神常の神域だ」
カイが指さした方に目を向けると、そこには海面から突き出した、黒々とした巨大な二つの大小の岩があった。その岩の二つに、しめ縄が巻かれている。
一見そこは、伝説の神域だとは思えない場所だ。普通の、自然信仰の場所にも思える。
「月が満ちた後の数刻でしか行くことができないと聞いている。幸いにももうすぐで夜に月が満ちる頃だ。よかったな」
すでに夕刻だ。空に昇っている真っ白い月は、輪郭を丸くしていた。カイがふと真面目な顔をする。
「柰雲。お前、本当にあそこに行くのか?」
カイの瞳が揺れているように思えて、柰雲は口の端に笑顔を乗せた。
「ありがとう、カイ。心配してくれるんだね」
「それは……命を助けられたわけだし、ずっと一緒に居たから」
柰雲はカイの手を握った。
「行くよ。わたししかできないことかもしれないから」
そうだけど、とカイが口を尖らせる。
「逃げたっていいんだぞ、柰雲。責任と重圧に、押しつぶされそうになっているじゃないか。お前の魂は怖いと言っている。いくら隠しても、私には視える」
海が近づいてきているせいか、カイの魂を視る瞳の精度は増し、巫女として本来の力を取り戻している。カイの瞳の力強さは目が離せないほどだ。
これ以上覗き込まれるのを回避するため、カイから視線を逸らして、柰雲は海の先に見える黒い岩々を見つめた。
「怖くないわけないさ。行ったら死んでしまうかもしれないし、無事で帰ってこられる保証がない。けれど、そうでもしなければ、一族が滅びる」
「最初から滅びる運命だったとしたら?」
「では……カイならどうする?」
言われてカイは、「私は……」と言った後に、声が続かない。それは、カイが柰雲と同じ立場だなら、同じように行くと言うからだ。
「カイだったら迷わず行くだろう?」
使命感といえば聞こえはいいが、そこまでのものは持ち合わせていない。それがあれば、阿流弖臥《あるてが》に言われずとも迷わずに旅に出ていたはずだ。
「美爾《みしか》……妹へのせめてもの償いだったんだ。あの閉鎖的な村から出たかったというのもある。逃げてきたんだよ、わたしは」
ずるい理由さ、と柰雲は笑う。
「でもね、カイ。わたしは逃げ出したことを後悔していないんだ。いろんな人たちに出会って、国中を見ることができた。改めて、この國は美しいと思った」
人の心も、みずみずしい自然も。共に生きるすべての生き物たちに、柰雲は感謝を持つことができた。
たくましく生きている人々、自分を含め事情を抱えている旅の仲間たち。妹の死によって閉じていた柰雲の心は、開きつつある。
「カイが言ったんだ。やるしかない時は導かれる。やりたいこととやるべきことが違う人間もいるって」
「それでも……重すぎて手に負えない責任を持たされれば、お前が逃げるには十分な理由になるぞ」
「逃げない。それに、美爾《みしか》に、恵みで溢れる大地を、この広大な海を見せてあげたい。きっと空から、いつも見守ってくれている。この世界を稀葉の子孫にもつなぎたい」
「そうか」
カイは腰に手を当てて肩をすくめた。
「行こう、柰雲。村に着いたらお前が無事に帰って来られるように、特別なまじないを有償でかけてやる。金貨十枚の値打ちだから、踏み倒すことは許さない」
「ありがとう」
「私の故郷にも和賀ノ実を分けてくれ。それが対価だ」
「もちろんだ。わたしが実を持って帰って来られたら、カイはその先どうする?」
カイは柰雲と違って村を追い出されているはずだ。いくら和賀ノ実を持ってきたと言って、歓迎されるかどうかはわからない。
「故郷へ帰りたいけど、アタギの時のように、私を必要としてくれる人のところに行く。あいにくこの風体だから海沿いが生きやすいはずだ」
カイは指の先にまで入った刺青を見つめた。
「まじないをしたり、漁をして破れた網を縫って、獲れた魚に感謝してみんなで喜んで食べたりしたい。畑作業は苦手だからできる範囲でいい。美しい海と人の笑顔があるのが私の理想だ」
「カイも、欲のない人生観だ」
うるさいぞ、とカイは憤慨した。
「とにかく。だから柰雲、死ぬなよ。帰ってこられなかったら、私がお前を探しに行って引っぱたく。私に叩かれたくなければ、無事に帰ってこい」
柰雲はカイの頬を両手で包み込むと、額をくっつけた。
「帰って来るよ、必ず」
「約束だ」
しばらく額を合わせて、ほんのひと時を過ごした。カイの額はあたたかく、魂を視るという彼女の底知れぬ力を感じた。
二人が神常の神域を望む漁村に着いた時には、昼と夕方の間のことだった。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
スウィートカース(Ⅷ):魔法少女・江藤詩鶴の死点必殺
湯上 日澄(ゆがみ ひずみ)
ファンタジー
眼球の魔法少女はそこに〝死〟を視る。
ひそかに闇市場で売買されるのは、一般人を魔法少女に変える夢の装置〝シャード〟だ。だが粗悪品のシャードから漏れた呪いを浴び、一般市民はつぎつぎと狂暴な怪物に変じる。
謎の売人の陰謀を阻止するため、シャードの足跡を追うのはこのふたり。
魔法少女の江藤詩鶴(えとうしづる)と久灯瑠璃絵(くとうるりえ)だ。
シャードを帯びた刺客と激闘を繰り広げ、最強のタッグは悪の巣窟である来楽島に潜入する。そこで彼女たちを待つ恐るべき結末とは……
真夏の海を赤く染め抜くデッドエンド・ミステリー。
「あんたの命の線は斬った。ここが終点や」
💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活
XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。
ミネルヴァ大陸戦記
一条 千種
ファンタジー
遠き異世界、ミネルヴァ大陸の歴史に忽然と現れた偉大なる術者の一族。
その力は自然の摂理をも凌駕するほどに強力で、世界の安定と均衡を保つため、決して邪心を持つ人間に授けてはならないものとされていた。
しかし、術者の心の素直さにつけこんだ一人の野心家の手で、その能力は拡散してしまう。
世界は術者の力を恐れ、次第に彼らは自らの異能を隠し、術者の存在はおとぎ話として語られるのみとなった。
時代は移り、大陸西南に位置するロンバルディア教国。
美しき王女・エスメラルダが戴冠を迎えようとする日に、術者の末裔は再び世界に現れる。
ほぼ同時期、別の国では邪悪な術者が大国の支配権を手に入れようとしていた。
術者の再臨とともに大きく波乱へと動き出す世界の歴史を、主要な人物にスポットを当て群像劇として描いていく。
※作中に一部差別用語を用いていますが、あくまで文学的意図での使用であり、当事者を差別する意図は一切ありません
※作中の舞台は、科学的には史実世界と同等の進行速度ですが、文化的あるいは政治思想的には架空の設定を用いています。そのため近代民主主義国家と封建制国家が同じ科学レベルで共存している等の設定があります
※表現は控えめを意識していますが、一部残酷描写や性的描写があります
わが友ヒトラー
名無ナナシ
歴史・時代
史上最悪の独裁者として名高いアドルフ・ヒトラー
そんな彼にも青春を共にする者がいた
一九〇〇年代のドイツ
二人の青春物語
youtube : https://www.youtube.com/channel/UC6CwMDVM6o7OygoFC3RdKng
参考・引用
彡(゜)(゜)「ワイはアドルフ・ヒトラー。将来の大芸術家や」(5ch)
アドルフ・ヒトラーの青春(三交社)
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
悪神と契約して人間辞めましたが無茶振りされて困ってます ~亡国の復讐神~
千里一兎
ファンタジー
少年イスメトは、罪人の息子。
友はいるが、村人の多くは彼を腫れ物のように扱っていた。
ある日、神殿に不当な税をかけられ、村が食糧難に陥る。
これに反抗した村人たちは、総出で神殿に夜襲をかけることに決めた。
イスメトは食料を盗むために神殿へ忍び込み、仲間を庇って殺されかける。
その時、名も知らぬ神に語りかけられた。
神と契約した少年は強大な戦神の力を手に入れ、村と自分の名誉のために戦うことになる。
しかし、力の代償として神が少年に求めたのは、この王国を滅ぼすことで――!?
心優しき少年が、荒ぶる砂漠の神に振り回されながらも国を変えていく、世直し復讐譚。
★挿絵あり。
★現在「小説家になろう」にて先行連載しています。
★この物語はフィクションです。実在の宗教・歴史・国・人物・団体などとは関係ありません。
とある高校の淫らで背徳的な日常
神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。
クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。
後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。
ノクターンとかにもある
お気に入りをしてくれると喜ぶ。
感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。
してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる