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第4章 神域へ
第39話
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小高い丘を抜けた先の、海が見える場所に神常《かむどこ》の神域はある。カイにそのように言われたのは本当だった。
丘の上から見えた断崖絶壁はすさまじく切り立っており、その先には果てしのない真っ青な海が広がっていた。
「……これが、海?」
「そうだ。独特な匂いもするだろう。生き物たちの匂いだ。美しく恐ろしく、聖なる場所だ」
柰雲は丘の上から、初めて見る青い宝石のような世界を見つめた。
波は荒く、白い波がいくつも立っている。莫大な音を響かせて崖にぶつかり、しぶきが飛び散るさまはまるで生き物か何かのようだった。
「カイの村は――?」
「あっちだ。裏側を通り抜けてきた。この先の村から、神域だといわれている場所が見えるはずだ」
「もうすぐなんだ、本当に」
「私は嘘をつかないぞ。海が美しくて見とれる気持ちはわかるが急ごう。日が暮れてから行くのは良くない。漁師たちは早起きだ」
カイに引っ張られるようにして、丘を越えてさらに崖の上をどんどんと歩き進める。そして、その先の海辺に近くに、ぽつぽつと建てられている家々が見えてきた。
「あそこの村だ。そして、この海の先――あれが、神常の神域だ」
カイが指さした方に目を向けると、そこには海面から突き出した、黒々とした巨大な二つの大小の岩があった。その岩の二つに、しめ縄が巻かれている。
一見そこは、伝説の神域だとは思えない場所だ。普通の、自然信仰の場所にも思える。
「月が満ちた後の数刻でしか行くことができないと聞いている。幸いにももうすぐで夜に月が満ちる頃だ。よかったな」
すでに夕刻だ。空に昇っている真っ白い月は、輪郭を丸くしていた。カイがふと真面目な顔をする。
「柰雲。お前、本当にあそこに行くのか?」
カイの瞳が揺れているように思えて、柰雲は口の端に笑顔を乗せた。
「ありがとう、カイ。心配してくれるんだね」
「それは……命を助けられたわけだし、ずっと一緒に居たから」
柰雲はカイの手を握った。
「行くよ。わたししかできないことかもしれないから」
そうだけど、とカイが口を尖らせる。
「逃げたっていいんだぞ、柰雲。責任と重圧に、押しつぶされそうになっているじゃないか。お前の魂は怖いと言っている。いくら隠しても、私には視える」
海が近づいてきているせいか、カイの魂を視る瞳の精度は増し、巫女として本来の力を取り戻している。カイの瞳の力強さは目が離せないほどだ。
これ以上覗き込まれるのを回避するため、カイから視線を逸らして、柰雲は海の先に見える黒い岩々を見つめた。
「怖くないわけないさ。行ったら死んでしまうかもしれないし、無事で帰ってこられる保証がない。けれど、そうでもしなければ、一族が滅びる」
「最初から滅びる運命だったとしたら?」
「では……カイならどうする?」
言われてカイは、「私は……」と言った後に、声が続かない。それは、カイが柰雲と同じ立場だなら、同じように行くと言うからだ。
「カイだったら迷わず行くだろう?」
使命感といえば聞こえはいいが、そこまでのものは持ち合わせていない。それがあれば、阿流弖臥《あるてが》に言われずとも迷わずに旅に出ていたはずだ。
「美爾《みしか》……妹へのせめてもの償いだったんだ。あの閉鎖的な村から出たかったというのもある。逃げてきたんだよ、わたしは」
ずるい理由さ、と柰雲は笑う。
「でもね、カイ。わたしは逃げ出したことを後悔していないんだ。いろんな人たちに出会って、国中を見ることができた。改めて、この國は美しいと思った」
人の心も、みずみずしい自然も。共に生きるすべての生き物たちに、柰雲は感謝を持つことができた。
たくましく生きている人々、自分を含め事情を抱えている旅の仲間たち。妹の死によって閉じていた柰雲の心は、開きつつある。
「カイが言ったんだ。やるしかない時は導かれる。やりたいこととやるべきことが違う人間もいるって」
「それでも……重すぎて手に負えない責任を持たされれば、お前が逃げるには十分な理由になるぞ」
「逃げない。それに、美爾《みしか》に、恵みで溢れる大地を、この広大な海を見せてあげたい。きっと空から、いつも見守ってくれている。この世界を稀葉の子孫にもつなぎたい」
「そうか」
カイは腰に手を当てて肩をすくめた。
「行こう、柰雲。村に着いたらお前が無事に帰って来られるように、特別なまじないを有償でかけてやる。金貨十枚の値打ちだから、踏み倒すことは許さない」
「ありがとう」
「私の故郷にも和賀ノ実を分けてくれ。それが対価だ」
「もちろんだ。わたしが実を持って帰って来られたら、カイはその先どうする?」
カイは柰雲と違って村を追い出されているはずだ。いくら和賀ノ実を持ってきたと言って、歓迎されるかどうかはわからない。
「故郷へ帰りたいけど、アタギの時のように、私を必要としてくれる人のところに行く。あいにくこの風体だから海沿いが生きやすいはずだ」
カイは指の先にまで入った刺青を見つめた。
「まじないをしたり、漁をして破れた網を縫って、獲れた魚に感謝してみんなで喜んで食べたりしたい。畑作業は苦手だからできる範囲でいい。美しい海と人の笑顔があるのが私の理想だ」
「カイも、欲のない人生観だ」
うるさいぞ、とカイは憤慨した。
「とにかく。だから柰雲、死ぬなよ。帰ってこられなかったら、私がお前を探しに行って引っぱたく。私に叩かれたくなければ、無事に帰ってこい」
柰雲はカイの頬を両手で包み込むと、額をくっつけた。
「帰って来るよ、必ず」
「約束だ」
しばらく額を合わせて、ほんのひと時を過ごした。カイの額はあたたかく、魂を視るという彼女の底知れぬ力を感じた。
二人が神常の神域を望む漁村に着いた時には、昼と夕方の間のことだった。
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