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第3章 逃走

第34話

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「疲れたな。昼間あれだけ寝たが、今夜もゆっくり眠れそうだ」

 カイは布団のありがたみを噛みしめているようだ。珍しく機嫌がよいカイの姿を見て、少しほっとした。

「カイが嬉しそうでなによりだ。奥之比良おきのひらで見つけた時は、ひどいありさまだったけれど……今は巫女の目をしている」

 刀子とうすの手入れをしながら返事する。すると今さっきまで嬉しそうにしていたカイが、目を瞬かせて床から起き上がってなぜか正座をした。

 様子が急変したことに気がついた柰雲が「どうしたんだ?」と声をかけると、カイは真剣になにかを考えている風だ。

「……以前、柰雲は自分が恐ろしいと言っていたな。命に優劣などないのに、村人を傷つけられれば、相手が同じ人間だとしても殺してしまう、と」

 それに柰雲は刀子をしまうと、カイのほうを向いた。

「どうしたんだ、カイ?」

「――それは、私も同じだ」

 カイの声は悲しい音を含んでいて、夜気に冷たく広がった。

「話していなかったな。私は、村を襲ってきた敵を皆殺しにしたんだ」

「……どういうことだ?」

 戦闘力がまるでないカイに、そんなことができるわけがない。そう思うと同時に、カイにそんな過去があったことにも驚いた。

「私の故郷はさびれた漁村だ。それでも、村人たちみんなが食べていくには困らないような村だ。そんななにも変哲もない村だったけれど、大事にしているものがあった」

「大事にしているもの?」

 それにカイは神妙な面持ちで頷く。

「神への祈りを欠かさない『信仰心』だ。それは、我ら一族に伝わる神話によるところも大きい。村のはずれにある祠で祀っているのは、生と死を司るウミヘビの神だ」

「ウミヘビ……」

 聞いたことはあるが、陸育ちの柰雲は見たことがない。

「ウミヘビの神――『カカ』というが、彼は生者を亡者に、亡者を生者にできる力を持つ。まさに生と死の神だ。一族には、カカの持つ神の力を体内へ取り込める人間がいる」

 柰雲はまさか、とつぶやいた。カイは大きな釣り目を向けてきた。

「私が巫女である理由は、私がカカの力を宿すことができるうつわだからだ」

 カイは両腕をまくしあげる。青味の強い塗料によって、彼女の肌には美しい刺青が施されている。カイは自身の腕をじっとりと見つめた。

「この刺青がなによりの証だ。ここにカカの象徴である模様を刻み込んでいる。これは、器としての巫女だけが許される特別な刺青だ。厳しい修行に耐え、全身の刺青の苦痛を乗り越え、そうして巫女としてカカを受け入れるんだ」

 カイはそう言うと両腕をしまった。

「巫女は、カカのモツ膨大な力を制御する器でもある……それなのに、カカの力を横取りしようとやってきた侵略者たちが、一族のおんな子どもに手をあげるのを見た瞬間、私は彼らを瞬時に抹殺したんだ」

 聞いていた柰雲の背中がぞくりと寒気だった。

 普段のカイからは想像もできないような冷たさと後悔、そして怒りの感情が彼女に押し寄せてきている。

「巫女としてあるまじき行為だった。だから私は地位を取り上げられることになった。しかし、一度体内に入れたカカの力は、どんなに儀式を繰り返しても他の巫女に移ってはくれなかった」

 カイの声からは、絶望のようなものが滲みだしている。

「……命が尽きるまで、人を惨殺した力を宿しその行為を忘れるな、と。後悔の念と共に生きるようにカカに言われたのだと、その時にわかった」

 悲しみと恐怖に揺らぐ、カイの瞳を見つめた。

「村人を救ったことには変わりないはずだ」

「結果として村を救ったとしても、やってはいけないことだった……だからいたたまれなくて村を出てしまった。彷徨っているうちに人狩りに捕まって、奴隷に墜とされた」

 そんな経緯があったとは知らず、柰雲はかける言葉も見つけられない。 

「奴隷商人も宿屋の主人も、私はいつでも彼らを殺すことができた。でも、そうしなかった。カカの力を使えば、大勢が傷つくと知っていたから……」

 カイの後悔は深いようだ。

「私は、柰雲が思っている以上に残酷な人間だ。何百回殺してやろうと思ったかわからないし、何百人殺したのかもわからない」

「カイ……」

「恐ろしいんだ、柰雲。私は自分自身が恐ろしい。なにをしてしまうかわからない。人を助ける立場にあったのに、過ちとはいえ、あんなにたくさん殺した。またいつ、自分が人を衝動的に殺してしまうかわからない」

 柰雲はカイに近づくと、彼女の握りこぶしに手を添えた。

「たとえそれが自分の力ではなく、カカの力だったとしても。神の力を御せない自分は巫女として失格だ。自分自身が、いつでも一番恐ろしくて嫌いだ」

 それ以上言葉が続かなくなってしまったカイに近づき、彼女をそっと抱きしめた。カイは一瞬慌てたが、柰雲は放さなかった。

「大丈夫。わたしはカイに殺されることはない。安心して一緒に旅を続けよう。それに……」

「それに?」

「もしカイが暴走しそうになったら、わたしがカイを止める」

「どうやって?」

 カイを開放すると、うーんと考えた。

「わたしが、カイごときにやられる想像ができない。それから、わたしはカイのことを恐れていない」

「現場を見ていないからそう言えるだけだ」

「じゃあ訊くけれど、カイはわたしのことを恐ろしいと思うか?」

「思うわけないだろ」

「わたしが我を忘れて、人を虐殺し始めたらどうする?」

「殴り飛ばす」

「それと一緒だよ」

 カイは「なんだそれは」と、くすくす笑ってから柰雲の胸に突っ伏した。彼女の小柄な身体を抱きとめて、背中をさすった。

 ありがとうと小さく聞こえてくると同時に、柰雲はカイが泣き止むまでしばらくそうして背をさすり続けたのだった。
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