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第2章 土熊一族

第17話

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 天幕では、稀葉がたっぷりのご馳走に満足したのか、食料すべてを平らげてうとうとと目をつぶっておとなしくしている。

「ただいま、稀葉。明日にはここを発つことにしたよ。ゆっくり休んでくれ。お前にろくに食べ物もわけられずすまないが、もう少し辛抱してほしい」

 漆黒のたてがみを撫でると、ゴロゴロと喉を鳴らしながら稀葉は鼻をすり寄せた。そうしていると、天幕の外から身軽な足音が近づいてくる。

「明日発つとはせっかちな奴だ。せっかく仲良くなれたのだ。もう少し飲み直すぞ!」

 顔を出したのはサジだ。彼の浅黒い肌は、酒のおかげで若干赤みを帯びており、だいぶ酒に酔っているように見える。柰雲は苦笑いをしながら、サジが付き出してきた酒杯を受け取った。

 山羊の乳の酒はのど越しが良くたくさん飲めてしまうのだが、度数がきついので柰雲は少しだけにしていた。明日も歩く。氣をここで緩めるわけにはいかない。そんな気持ちが顔に出ていたのか、サジに頬をつねられた。

「そんなに氣を張ったって仕方ないぞ。それに、この村は交代で寝ずの見張りがいるから、柰雲をつけている連中も襲ってこないだろう」

 サジは瓶からとくとくと酒を注いで、喉を慣らしながら一気に飲み干した。つまみに持ってきた鹿肉の燻製をがぶりと噛みちぎる。

「……追っ手に気がついていたのか。すまない、ここに連れてきてしまうつもりはなかったんだ。それに彼らはわたしに危害を加えるつもりはないようだし」

 わかっている、とサジは笑った。

「俺たちは移動する民だから、奴らに場所を知られたところで問題はない。それに、初めから気付いていて柰雲を招いている」

 自分たちのねぐらを知られたり攻められたりしたところで、ちっとも痛くないというのがサジの主張だ。

「おおかた、毒稲の民の密偵だろう? 和賀ノ実を見つけたら神域とやらに押し入るつもりなんじゃないか?」

 柰雲が思っていたことと、サジの意見は一緒のようだ。柰雲はサジをまっすぐ見つめた。

「サジ。もしわたしが実を見つけたら、一部を受け取ってくれるか?」

 せめてもの感謝の気持ちを、土熊《つちぐま》一族に伝えたかった。しかしサジは首を横に振った。

「実があれば、土地を持たねばならない。それは、耕す大地を巡って人と争うことを意味する。毒稲の民のようにな。俺たちは俺たちは狩猟の民だ。人と争わず、山々を放浪して自然と共に生きているのが丁度いい」

「……そうか」

「そんな顔をするな、柰雲。山と共に生き山と共に死ぬのが土熊一族の運命だ。それを恥じたことも嘆いたこともない。自然に生きられることを誇りに思う」

「ああ、土熊の民は素晴らしいよ。ならば、わたしが村に戻ったらぜひ近くに来てほしい。その時には今回の礼をしたい」

「その時はたっぷりたんまり恩恵を受け取ろう。美味い猪の肉を持って行く」

 サジと柰雲はお互いの盃に酒を注ぎ入れると、笑いながら飲み干した。

「俺たちはもう兄弟だ。約束をいつか果たそう。それまで柰雲、命を落とすなよ」

「もちろん。わたしが死ぬわけにはいかない」

 燻製肉をかじりつつ、しばらく男娼が続いた。そろそろ酒もなくなるという頃になって、サジが柔らかい表情になる。

「……俺は柰雲が治める國を見てみたい。お前も後継ぎか皇子だろう?」

「なぜそう思うんだ?」

「村人の命のために、聞いたこともない場所を当てもなく目指そうなんて思わないさ」

 しかし柰雲は首を横へ振った。

「太占《うらない》で跡継ぎと言われただけで、わたしは末子だ。本当は、兄さんの方が適任だとわたしも村人たちも思っている」

「そうか?」

「なし崩し的に、わたしが旅に出ることになった。村人が苦しみ大変なことになるから、引き受ける以外の選択がなかっただけだ」

 柰雲は干した杯の底を眺めた。

「わたしは人の命を背負う責任感で動けるような人間ではない」

 最初の雨粒が大地に染み入るかのような静けさが満ちる。サジは黙って聞いていたが、しばらくして口を開いた。

「柰雲、俺も次期当主だ。選ばれた時は嬉しかったけど、逃げ出したくも、押しつぶされそうにもなる。でも、そういう感覚が持てるだけ、ましだと思うようになった」

「まし?」

「そうだ。権力に溺れて道を見失うくらいなら、恐怖に怯えるほうがいい。自分の立場とみんなの命を、秤にかけなきゃならない時は来る。その時に、自分の保身に走るくらいなら死んだ方がいいと思えるのがまともさ」

「わたしは」

「重苦しい話はここいらでよそうぜ。柰雲は真面目すぎるようだからな。精一杯、いろんなものを背負って生きるだけだ。つらくなったら、俺が話を聞くよ」

「ありがとう、サジ」

 そのあと少しだけ夜更かしして語り合った。稀葉があくびをするころにサジは帰って行き、柰雲は寝台に寝そべった瞬間に眠りについていた。

 あんなに飲み食いしたのに、翌朝はすべての調子が良く、不思議と身体も心も重くなかった。

 柰雲は早朝に目を覚ますと、一族みんなが集まっている厨房周辺に向かった。稀葉に乗せるという約束をした兄妹を見つけて、背に乗せてやる。

 妹は初めて乗る候虎に戸惑っていたが、兄がしっかりと妹を抱え込んで稀葉の手綱を握った。小さい妹を支え前をまっすぐ向く兄の姿が、小さい時の自分の姿と重なって胸が熱くなった。

(……美爾《みしか》……生きていれば、このくらいか)

 最初は怖がっていた妹も、乗っているうちにだんだんと笑顔になり、最後はキャッキャとはしゃぎながら稀葉のたてがみを撫でていた。稀葉も嫌がらずに遊んでいて、兄妹はすぐに稀葉と仲良くなっていた。

 兄妹の笑顔を忘れたくなくて、しっかりと胸に刻み込む。胸に込み上げてくるものを感じながら、兄妹の末永い平安を祈らずにはいられなかった。

 兄妹の頭を撫でて別れを告げると、稀葉に乗せてくれたお礼にと、狼の骨でできた耳輪《じかん》をくれた。

「いいのか? 狼は、君たち一族にとって大事な生き物じゃ……」

「いい。兄ちゃんは、兄ちゃんにとって大事な候虎に乗せてくれた。これはお礼だ」

 小さい手から受け取ると、柰雲は二人の小さな身体を抱き寄せた。子どもたちの体温が高くて、涙が込み上げそうになった。

「二人とも、ありがとう」

 耳輪を着けてから、柰雲は支度を整えると族長やサジに礼を伝える。族長たちは天幕の内側で奈雲の旅の安全を祈る短い祈りを捧げてくれた。

 拠点から離れて森の際にいくまでサジが送ってくれた。名残惜しい気持ちを隠しながら別れを告げると、サジがにやりと笑う。

「柰雲、これを持っていけ」

 渡されたのは、小さな革の入れ物に入れられた半液状の薬のようなものだ。

「これは……?」

「ガノムの毒だ。川に流せば魚も穫れる。矢に塗って人に使えば……まあ言わなくてもわかるよな」

 ガノムは參ノ國全域に生える毒草で、美しい花をつけるが大きな根には恐ろしい毒を持つ。

 その威力は一滴で牛や馬が動かなくなるほどだ。

 毒の抽出方法は手間がかかり、さらに使い方や適量を間違えれば死に直結する。そのため、人々はガノムを好んでいない。

「いいのか、こんな貴重なものまで……なにからなにまでありがとう」

「その耳輪似合ってるぞ」

 必ずまた会おうと、柰雲は小柄で頑丈な彼の身体を抱きしめた。一度だけ振り返ると、サジが見送ってくれている。大きく手を振って、柰雲はまた前を向いて歩き始めた。
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