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第1章 東へ

第8話

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 稀葉の緊張が和らいでいることから察するに、今はひとまず危険はないのだとわかる。どうしていいかわからないままでいると、稀葉がぴったりと横にくっついてくる。

 起こすから少し寝てくれと言わんばかりに甘えられ、言われるがまま柰雲は稀葉にくっついて寝てしまっていた。

 目を覚まして飼葉から身を起こすと、稀葉がすぐに柰雲の頬をぺろりと舐めた。

「……こんな状況で寝るとは。我ながら、図太いようだ」

 外を見ると、とっくに日は高くまで昇っていて、まぶしい青空が見える。それでも鳥たちの鳴き聲からして、早朝だというのがわかる。チチチチとさえずる美しい鳥たちのさえずりを聞きながら、村からいつもと違う気配が漂ってきているのを感じた。

 緊張感と、悲しみ。そして、いつもと違う者たちがいる。そんな気配を肌で敏感に察知する。稀葉を一度見つめてから、ふうと息を吐いた。

「稀葉、一緒に来てくれ」

 立ち上がった柰雲に首を寄せて、稀葉はごろごろと喉を鳴らした。厩舎近くに人がいないのを確認して、稀葉に銜《はみ》を噛ませる。それをつけると、稀葉は自分が今どうするのが一番良いかを理解する。

「みんな、危なくなったら逃げるんだ。いいね?」

 言いながら柰雲は、厩舎の候虎《こうこ》たちの止め板を外しておいた。

「なにかあっても決して戦ってはいけない。お前たちを、戦争の道具にはさせない」

 候虎たちの頬を軽く撫で、稀葉の準備を整えるとそっと厩舎を出た。柰雲の姿を、何頭もの候虎たちが見送る。飼い主の意思を汲んで、賢い候虎たちは自分の主を静かに見送った。

「まずは、父さんたちの屋敷に行こう。裏から回って行けば、誰にも気づかれない。様子を見ないと」

 柰雲は一番の相棒である稀葉をそっと連れ出して、遠回りをして屋敷の裏手へ回った。稀葉にまたがれば、足音を消すことができる。案の定、誰にも見つかることなく裏に回ることができた。藪に潜みながら、人々の動きを見る。

「あれは……村のみんなだ!」

 見たことのない重厚な短甲をつけた兵たちが立ち並んでいて、屋敷を取り囲んでいた。屋敷前の広場に、村人たちが全員集められている。筋骨隆々な兵士たちに取り囲まれて縄を打たれているのは、柰雲の父と兄妹たちだ。稀葉が鼻をくんくんと動かす。

「……見たこともない服装だ。刺青もない。やはり、北方民族か」

 みんなが無事だったのを確認できてほっとしていると、兵士たちの間からすらりと背の高い、白い装束に身を包んだ女性が現れた。柰雲は彼女の雰囲気を感じ取った瞬間、稀葉の後ろの藪に身体を深く沈める。

 こちらに一瞬だけ視線を向けたその女性は、赫土《あかつち》を施した顔に鋭い笑顔を乗せていた。長い裳に長い領巾《ひれ》が、地面を撫でるように滑る。手や首から下げた多くの珠や鈴がしゃらしゃらと涼やかな音を立て、肩から斜めにかかる襷が目を引いた。

 女がゆっくり歩いてくると、屈強な兵たちが深々とお辞儀をする。ただものではない雰囲気に、その場の誰もが息を飲んだ。

 異様な雰囲気の女は、一番手前で縛られた大王《おおきみ》を真っ直ぐ見つめる。挑戦的な瞳には迷いも恐れもなく、好奇心と喜びが口元に浮かぶ。しっかりした形の眉には意志の強さを、鋭い眼光は野生動物を思わせた。

「私がハシリ一族の一軍隊長である阿流弖臥《あるてが》だ。そなたたちが候虎使いの一族だな」

 阿流弖臥と名乗った女は、涼やかでよく通る聲でにこりと笑う。唇に差された真っ赤な紅が、彼女を妖艶にも恐ろしいものにも魅せていた。

「今からこの村と一族は、我がハシリ一族の傘下とする。異存はあるまい」

 否定を一切受け付けない、決定的な一言が下されていた。すべてての異存に対して拒絶する意思が現れていて、絶対的な自信が言葉の隅々からみなぎってる。それは同時に、断ろうものならどうなるかわかっているのか、という脅迫も含まれていた。

 大王が頷こうとしたところ、遮るように速玖而《はやくじ》が「ふざけるな!」と叫んだ。阿流弖臥は優雅に首をかしげる。しゃらしゃらと、身体のあちこちにつけられた玉飾りや鈴が鳴る。それは、神聖な響きで、空気を震わせた。

「とつじょ理由もなく攻めてきて、いきなり傘下になれとは、あまりも横暴ではないか!」

 速玖而が縄をぶちぶちと数本引きちぎりながら、憤怒の表情で立ち上がった。そんな速玖而に兵士たちは驚きつつも、阿流弖臥を守ろうと武器を突き出す。だが、いきり立つ兵士たちを牽制し、なお、阿流弖臥は勝ち誇った笑みを見せた。

「話し合いをすれば、この土地を譲ったか? そんなわけあるまい。抵抗しなければ傷つけない。そなたたちが、我らに敵うはずもない……たとえそのように莫迦力だとしても」

 絶対的な武力による力の差がある、と阿流弖臥は態度で示す。

「いくら猛獣使いの一族でも、我らは戦闘民族。戦力や戦術において、我らの右に出る者はいない。そして、私たちは第一軍。つまりなにを意味しているかわかるか? 精鋭中の精鋭という事だ」

 女は紅を引いた口元からは笑みが、瞳からは哀れみにも似た視線を速玖而に向けていた。
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