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1巻 ひねくれ絵師の居候はじめました
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それまでの龍玄はとっつきにくい印象と刺々しさばかりが目立っていた。しかし、『もののけ画家龍玄』という通り名がついたことによって、描かれた化け物達に親近感を抱く鑑賞者が一層増えた。
彼によって生み出された数々の作品は、すでに日本の有名な美術館にも所蔵されている。海外の学芸員も買いつけたことでファンが急増し、さらに知名度に拍車がかかった。
その人気ぶりは飛ぶ鳥を落とす勢いだ。
(だけど、原画を販売しないのよね。なんでかしら……?)
龍玄は基本的に原画販売をしないため、レプリカ一枚の価値が高い。
雲の上の人であるが、瑠璃は龍玄に親しみを覚えていた。それは、たまたま彼の担当をしている長谷がやってきて、龍玄のことを伝えてくれるからであり、なにより彼の使う画材を自分が揃えているからだ。
しかし実際には、口をきくことすら叶わない。
「すごいなあ、こんな絵を描けるなんて。ほんとに、この人が近くに住んでいるなんて信じられない」
『この先生はすごいけど、瑠璃もえらいきれいな絵を描くやないか』
(違う……私の絵はダメなのよ)
同じ日本画を描く人間として、龍玄が瑠璃につきつけるのは、才能の違いだ。瑠璃は彼の絵を見る度に、自分がいたって平凡であるといつも思い知らされるのだ。
*
予定よりも一日早く、龍玄が頼んでいた筆が店に届いた。すぐさま瑠璃が長谷に連絡をすると、二時間後には店に顔を出せるという。
お茶の用意をしながら、品物をきれいに包み直して長谷の到着を待った。
「――瑠璃ちゃん!」
チリンチリンと店の入り口の風鈴が鳴って、長谷が手を振りながら嬉しそうな顔をして入ってきた。
先日と同じようにまだまだ外は暑いようで、上着を腕にかけながらいつも以上にニコニコしている。瑠璃は軽くお辞儀をしてカウンターの近くの椅子まで案内した。
「長谷さん、お待たせしました。全部揃いましたよ」
「良かった! これさえあれば、きっと先生は新作をガンガン描いてくれる……はず!」
お茶をゴクゴク飲み干すと、長谷は外回りで起きた出来事や展覧会中の絵の話、顧客の面白い話を聞かせてくれる。
身振り手振りも交えながら、かなりオーバーリアクションで話すので、長谷の話を聞くのは、瑠璃の楽しみの一つだ。
両手を広げながら話をしていた長谷が、カウンターの隅に置いてあった雑誌に気がついて口元を緩めた。
「あ、あれは龍玄先生が載っている雑誌?」
「そうです。手が空いた時に読んでいたままにしちゃってて」
瑠璃は雑誌を持ってくると長谷に手渡した。
「ほんと、先生はすごいんだよ。これなんか、本物を見た時俺は鳥肌立ちっぱなしでさ」
ぺらぺらとめくりながら、長谷が嬉しそうに雑誌を見つめる。その姿からは、龍玄の描いた絵が好きという気持ちがよく伝わってくる。
「感動したんだよね。俺初めてだよ、絵を見て感動したのなんて。だから、先生の所に通い詰めているんだけど!」
先生はすごいんだけど、ときちんと前置きをした後に、長谷は龍玄の写真を見て困ったように口を曲げた。
「伸びっぱなしの髪には目をつぶるけど、顎の無精髭は個展が始まる時に剃らせないと。げ、なんか俺が小姑みたいだな!」
写真うつりは素晴らしいし実際見ると男の俺からしても男前なんだけどね、と長谷が羨ましそうな顔をした。
「撮影の時くらい髭を剃ってくれって、何度注意したことか……はあ、今回も絶対にやらせなくっちゃ!」
「長谷さんは、いい小姑だと思いますよ」
「先生の顔面を拝もうとして、遠方からわざわざやってくる女性ファンを悲しませるわけにはいかないんだよね、主催側の俺としては!」
鼻息荒くそこまで言ってから、長谷は「あ!」と目を見開くなり、大慌てで鞄の中からぺらりと紙を一枚取り出して瑠璃に渡した。
「瑠璃ちゃんにあげようと思っていたんだ。うっかり忘れるところだった!」
「え、これっ――……」
差し出された小さな紙を受け取る。印刷された文字をまじまじと眺めると、思わず動悸が激しくなった。長谷と紙に視線を交互に向けると、長谷はにっかりと微笑んだ。
「龍玄先生の来月の個展のチケット。これはエキシビション用だから、一般のお客さんが入れない特別なやつ」
「そんな……」
「瑠璃ちゃんに一枚プレゼントだよ。それに、来てくれたら先生も紹介するね」
瑠璃はもう一度そのチケットを穴が開くほど見つめた。
『エキシビション』の文字とともに非売品の文字がやけに目立つ。「一般のお客様は入れません」と丁寧に注意文まで印字されていた。
「長谷さん……こんな貴重なもの、私がもらっていいんですか?」
「瑠璃ちゃんだからいいんだよ。いつもお世話になっているし、瑠璃ちゃんがいなかったら俺ほんと、毎日泣いていたよ。先生の要求する画材の、筆の一本もわからないんだもん」
「でも私、画材を注文しただけで……」
「いいの! 俺は瑠璃ちゃんに助けてもらったんだから、お礼がしたいの。受け取ってよ」
長谷は白い歯を覗かせながら、人好きのする笑顔になる。
「まあ、お礼と言ってはあれだけど……ほら、瑠璃ちゃん最近ずっと悩んでいるみたいだから、気分転換になるかなって」
瑠璃が社宅から出て行かなくてはいけないことも、再就職先に悩んでいることも長谷は知っている。それを気にかけてくれた優しさが、瑠璃の心に沁みた。
「もちろん無料だし、カクテルとおつまみも出るから、おめかしして来てほしい」
「嬉しいです……エキシビションに行けるなんて、夢みたい」
「そんなに喜んでくれるんだったら、渡したかいがあるなあ。この日なら招待客しか来ないから混雑もしないし、ゆっくり先生の作品を見られるよ」
長谷は瑠璃が龍玄の絵が好きなことをよくわかっている。長谷の気持ちが嬉しくて、瑠璃は泣きそうになっていたのを必死にこらえていた。
「きっといい展覧会にしてみせるから」
「はい、楽しみにしています」
ニヤリと笑って、丁寧に梱包した品物を受け取ると長谷は店を去っていく。
入り口の外までついていき、後ろ姿が見えなくなるまで見送って瑠璃は店内に戻った。
早足にカウンターに近寄ると、置いておいたチケットを見て再度胸のドキドキが止まらなくなる。
「嘘……いいの、私が……?」
幻ではないかとチケットに触れてみたが、しっかり本物だ。鏡を見なくても、自分の顔が真っ赤になっているのがわかる。
もらったばかりの特別なそれを、無くさないように財布の中にしまうと鞄のチャックをしっかり閉じた。
大学時代からあこがれている作家の作品を鑑賞できるとあって、瑠璃はその日の残りの時間、夢を見ているようにふわふわと足元が浮いている感覚だった。
『――ほなな、ええことあったやろ?』
「うん……すごく嬉しい」
閉店前に箒で床を掃いていると、得意げに話しかけられる。瑠璃は思わず相槌を打ってしまうほど気が緩んでしまっていた。
たくさん龍玄の絵を見られるという嬉しさに、瑠璃は胸がいっぱいになった。
『そうや、笑う門には福来るやで。そうやって笑顔でおったら、ええことぎょうさん来るさかい、心の中いーっぱいに幸せを詰めとき』
瑠璃は込み上げてくる喜びを抑えきれず、何度も一人で頷いて顔を赤くさせた。
*
まだ幾日も日はあったはずなのに、気がつけば長月の月末を過ぎ、楽しみにしていた龍玄のエキシビションの日になっていた。
楽しみなことがあると、時が過ぎるのは猛烈に速い。
数日前から服装に悩みぬいた挙句、久々に着物に袖を通すことにした。
一見地味に見える留紺の着物を着ると、まるで待っていたと言わんばかりにふわりと肌に馴染んでいく。
「ごめんね、なかなか着てあげられなくて」
母のお花の稽古に小さい時から参加していたため、着物には親しみがある。稽古は厳しくてつらかったのだが、着物は好きだった。
『お! 着物はやっぱりええなあ』
瑠璃はウキウキしていたのだが、今日は聞こえてくるしわがれ『声』も一段と嬉しそうだ。
ワクワクしすぎて震える手先を何度も胸の前に当てて、慣れた手順で着物を着始める。きれいなものにしておいた襦袢の襟を伸ばし、お太鼓をほんの少し小さめに結びあげた。
『お化粧はせんの?』
瑠璃は『声』に指摘されてハッとした。
襟元に手ぬぐいをかけてから、いざしようと鏡の前に座った。しかし、普段から化粧をするタイプではないため、やり方がわからずに手が止まる。
結局いつも通りのお化粧に、申し訳程度に頬紅を足した。
(あんまり得意じゃないのよね。桃子に教わっておけば良かったな)
妹の桃子は、美容の専門学校へ進学した。そのためかなり華やかで明るく、さらに言えば今どきの印象を与える見た目だ。
おしとやかといえば聞こえはいいが、地味な瑠璃とは正反対でもある。街を歩いていても、姉妹に見られたことはない。
(まあいっか。あんまり私がすると、顔だけお化けになっちゃうから)
大事な時には桃子に身だしなみのチェックと調整を頼む癖がついている。瑠璃は自分が妹にまで甘えていることを自覚した。
そんな仲良しだった桃子とも、近頃は連絡をあまり取り合っていない。
厳しい美容の世界で頑張っている桃子には、自分の現状が後ろめたくて言えなかった。桃子がそんなことを気にする性格ではないとわかっているのに、どうにも気が引けてしまっていた。
『落ち込んでる暇ないで。ほれ、顔上げてしゃんとしい。瑠璃はそのままでも美人なんやから、張り切って行けばええねん』
鏡の前でうつむいてしゅんとしてしまった瑠璃を鼓舞するように、しわがれ『声』にはっぱをかけられた。
『ぎょうさん美味いもん食べて、好きな絵をいっぱい見といでな』
(うん、ありがとう……)
瑠璃は玄関の鏡で全身をチェックし、大丈夫と意気込んだ。
久しぶりにさした口紅が、なんだかまるで自分ではない自分へ変身させてくれているような気がする。今だけはなにもかも忘れて、楽しんでもいいんだと思えた。
瑠璃は、今日だったら魔法でも使えそうな気さえしてきていた。
観光客が大勢詰めかける駅の、多国籍な雑踏を抜けてエスカレーターで地上へ向かう。外は気持ちよく晴れており、思わずほころぶ口元を引き締めて向かった。
チケットの裏に書いてあった会場に到着して、日付や場所が間違っていないかチケットを再度確認する。
引き戸のガラスから中を覗くと、人がたくさん動いているのが確認できた。
「こんにちは……」
ちょうど歩いている長谷の姿を入ってすぐのところで見つけて、胸をなでおろした。
気づいてくれないかなと目配せしたのだが、長谷は忙しそうにしており入り口を見ようともしない。
急に緊張がせり上がってきて、どうしようと不安な気持ちに襲われそうになったところで人の気配が近づいてきた。
「こんにちは。チケットはお持ちですか?」
瑠璃に気がついた女性が、入り口の受付台の奥へ回った。にこやかに微笑みかけられて、慌てて鞄からチケットを取り出して見せる。
「拝見しますね」
半分に千切られてしまうのがなんだかもったいない。
女性はチケットの半分をもぎると瑠璃を奥へ通してくれた。
やっと瑠璃の来場に気がついた長谷が、他の人との話を切り上げて手を振りながらいつものようににこやかに駆け寄ってくる。
「瑠璃ちゃんいらっしゃい! お着物で来てくれるなんて嬉しいよ。いつもきれいだけど、今日はちょっときれいすぎてドキドキするな!」
「そんな……なにを着たらいいかわからなくて」
長谷は本当に照れているのか、いつもよりもはにかんだ笑顔だ。瑠璃は恥ずかしくなってしまい、手で口元を隠しながら下を向いた。
「あの、今日はお招きくださってありがとうございます」
「むしろ来てくれてありがとう。作品もたくさん見られるよ。あっちにカクテルと飲み物、アペタイザーもたくさんあるからいっぱい食べてね」
長谷が指さした机の上には色とりどりの飲み物と食べ物が並べられていた。さすがエキシビションと、瑠璃は豪華さに驚いてしまう。
気後れしていると、長谷が瑠璃の手を引いて展示してある部屋の近くまで誘導してくれた。
「瑠璃ちゃん、後で呼びに来るから、ちょっと作品を見てくつろいでいてね」
展覧会が無事に開催できたことが嬉しいようで、誇らしげな長谷の姿がなんだか羨ましくなってしまった。
それほど混雑していないギャラリー内を一望して、なによりも見たかった龍玄の作品の前に一歩進んだ。
「――すごい……」
メインとなる二メートルを超える作品を中心に、会場の壁すべてに中規模から小規模の作品が展示されている。
このエキシビションが終われば、作品は市の美術館の本会場に搬入され一般公開される。だからじっくり鑑賞できるのは今しかなかった。
作品の持つ生命力に吸い寄せられるように、瑠璃は一つ一つの絵をじっくり覗き込んだ。
手を伸ばせば中に入れてしまうような感覚に襲われて、今ここに立っているのが夢か現実かわからなくなる。
――この世にあって、この世ならざるもの達の生きる世界。
絵から伝わってくる息遣いは、あまりに現実味を帯びている。ギャラリーを出てすぐの路地を曲がったら、そちら側に入り込んでしまいそうなほどだ。
現実と龍玄の描く世界には、ほんの一ミリもずれがない。それほどまでにリアルで鮮烈でみずみずしい。
瑠璃は呼吸をすることさえ忘れてしまいそうになっていた。なので、名前を呼ばれていることに気がつかず、肩に手を置かれてやっと振り返った。
「――瑠璃ちゃん、大丈夫?」
「あっ、長谷さん。は、はい……。ごめんなさい、集中してしまって」
「何回呼んでも聞こえていない風だったから、耳栓でもしているのかと思っちゃった!」
「す、すみません……!」
原画を販売しないため、美術館や他の場所で龍玄の絵を見ることは叶わない。だから、本物の絵を見られるのはすごく貴重だったのだ。
とはいえ、招待してくれた長谷を無視してしまい血の気が引く。しかしそんな瑠璃に、長谷は「大丈夫」と手を横に振った。
「謝ることないよ。龍玄先生だって同じようなものだから。画家の集中力って半端ないけど、瑠璃ちゃんも先生と同じ、絵を描く人なんだなって感心しちゃった!」
長谷は茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべ、辺りを気にしながら瑠璃に顔を寄せて囁いた。
「あ、それでね、今ちょっと大丈夫? 先生を紹介したいんだけど」
長谷の提案に、瑠璃の心臓が止まりかけた。
「あ……その……冗談だと思っていたんですけど」
「瑠璃ちゃんに冗談なんか言わないって! いいのいいの、遠慮しないで。ただここだと他の人もわーってなっちゃうから、後ろまで来てほしいんだけどいいかな?」
思ってもみなかった内容に、瑠璃は壊れたブリキ人形みたいに首を軋ませるような頷きを返すことしかできない。あまりの緊張っぷりに、長谷がぽんぽんと瑠璃の手を優しく叩いた。
「大丈夫、こんなおかしなもののけの絵を描いてるけど、本人はギリギリ人だから」
「ギリギリ、人……」
「そう。ちょっとあっちの世界に足を踏み入れちゃってるけどね」
長谷の冗談に瑠璃は思わず笑ってしまう。それで緊張がほぐれ、改めて大きく頷く。行こう、と連れられて、会場を抜けた奥の入り口に案内された。
バックヤードだという場所に扉はなく、足元まで届くほどの長い暖簾がかけられていた。暖簾の後ろには小さな土間があり、二階へ上がる急な階段が見える。
履物を脱いで、長谷の後をついて瑠璃も階段をゆっくり上った。二階に上がるとすぐ横の部屋が控室として用意されており、そこにも暖簾がかけられている。
すると長谷は横の壁をコンコンと叩いてから、「先生、入りますよ」と言い終わらないうちに暖簾をくぐってしまった。
「瑠璃ちゃん、おいで」
足踏みしていた瑠璃は、暖簾の先からひょこっと顔を覗かせた長谷に手を引っ張られて、敷居をまたいだ。
緊張から、瑠璃の鼓動はあり得ない速さで脈を打っている。目の前が真っ白になりそうだったのだが、長谷ののんびりした声で正気を保てた。
「先生、呼んできましたよ」
恐る恐る瑠璃が顔を上げると、部屋の奥の障子窓から外を眺めている着流し姿の男性の背中が見えた。
瑠璃の心臓が、どくどくとさらに強烈に脈を打ち始める。顔だけではなく耳まで熱くなっているのを自分自身でも感じた。
「先生、紹介しますね。この子が先生の意味不明な注文で困っているといつも助けてくれる瑠璃ちゃんです!」
緊張感に欠ける長谷の絶妙な声と紹介に、着流し姿の男性はピクリと眉毛を動かしてから、瑠璃達のいる入り口へゆっくり首を向けた。
「瑠璃ちゃん、もっと前来てってば!」
手を引かれて、瑠璃は重たい一歩を踏み出す。
「――初めまして、紹介していただいた宗野瑠璃です」
窓際にたたずむ男性の姿を見ないように、深々とお辞儀をした。そうすれば緊張が退くと思っていたのに、実際には声が震えてしまう。
「あはは、瑠璃ちゃん緊張してる。さっきも言ったけど、ギリギリ人だから大丈夫だよ。先生もほら、そんなところで突っ立っていないで、挨拶してくださいって」
長谷のお気楽な声に、瑠璃は逆に緊張が増してしまった。
「……なんだその、ギリギリ人っていうのは」
少し掠れた、深みのある声音が瑠璃の耳に届く。初めて聞く龍玄の肉声は、彼のイメージそのままだ。
その声に思わず瑠璃が顔を上げると、窓際の人物――龍玄は美しく凛々しい形の眉を持ち上げていた。
龍玄は、写真で見るよりも上背がかなりある、着流しがよく似合う人だった。
しかし長谷は眉をひそめる龍玄のことなど気にもしない。
「緊張している人に、先生をそういう風に紹介するとだいたい和むんですよ。ほら、先生ってもののけか人か妖怪かわかりませんからね」
「……」
「まあ、家はもののけが住んでいそうなくらい、めちゃくちゃひっ散らかっていますけど」
「大きなお世話だ」
龍玄が途端に不機嫌そうに眉根を寄せるが、事実です! と長谷は言い返してから、一息ついて瑠璃を見る。
瑠璃が頬を引きつらせると、長谷は龍玄のイライラなど気にも留めず、てきぱきと二枚の座布団を横から出してきた。そして顔をほころばせて瑠璃を手招きする。
あまりにも龍玄に近い距離に敷かれた座布団を見て、瑠璃は顔色を悪くした。
いきなり押しかけた上に、人嫌いだという龍玄のこんなに近くに座って大丈夫だろうか。窓際に突っ立ったままでいる龍玄の様子をそっと窺う。
顔は不機嫌そうなものの、怒っているふうでもなく、長谷の軽口を鬱陶しそうにしているだけのようだ。
ただ、一瞬だけ瑠璃を見てわずかに眉毛を動かした姿に心臓が止まりそうになる。
いきなり不躾に入ってきたから、嫌悪感を持たれてしまったかもしれない。
「瑠璃ちゃんもこっち来てってば。先生も座ってください、ただでさえ威圧感あるんですから、立っていると東大寺の仁王様みたいです」
なにかを言い返そうと龍玄が口を開くより先に、長谷がさらに付け加える。
「……っていうか、瑠璃ちゃんがいなかったら先生は絵を描けていないんですから、お礼の一つくらい言ってくださいよね」
「そんな、私はなにもしていません。滅相もないです」
相変わらずな口調で茶化した長谷を、龍玄は鬱陶しそうに半眼で見つめていた。
突っ立ったまま壁に寄りかかる龍玄が窓を閉めようと背中を向ける。その時、ふと気がついたことがあった。
「帯が……」
そこまで口走ってから、はっと口をつぐむ。
「瑠璃ちゃん、帯がどうかしたの?」
長谷が不思議そうに首をかしげて瑠璃を見た。疑問に満ちた視線から逃げようとしたものの、なんとも気まずい気持ちで口を開く。
「先生の帯の両端が揃っていなかったので。出過ぎたことを言いました、忘れてください」
瑠璃が頭を下げたところで、龍玄が大きく息を吐く。
聞こえてくるため息の深さに瑠璃は肩を震わせた。なんて余計なことを言ってしまったんだと、後悔したがもう遅い。これで龍玄の機嫌を損ねてしまったらどうしようと泣きそうになった。
「――男帯は締められるか?」
しかし。龍玄はただ、ぽつりと言葉を投げかけてきただけだった。
彼によって生み出された数々の作品は、すでに日本の有名な美術館にも所蔵されている。海外の学芸員も買いつけたことでファンが急増し、さらに知名度に拍車がかかった。
その人気ぶりは飛ぶ鳥を落とす勢いだ。
(だけど、原画を販売しないのよね。なんでかしら……?)
龍玄は基本的に原画販売をしないため、レプリカ一枚の価値が高い。
雲の上の人であるが、瑠璃は龍玄に親しみを覚えていた。それは、たまたま彼の担当をしている長谷がやってきて、龍玄のことを伝えてくれるからであり、なにより彼の使う画材を自分が揃えているからだ。
しかし実際には、口をきくことすら叶わない。
「すごいなあ、こんな絵を描けるなんて。ほんとに、この人が近くに住んでいるなんて信じられない」
『この先生はすごいけど、瑠璃もえらいきれいな絵を描くやないか』
(違う……私の絵はダメなのよ)
同じ日本画を描く人間として、龍玄が瑠璃につきつけるのは、才能の違いだ。瑠璃は彼の絵を見る度に、自分がいたって平凡であるといつも思い知らされるのだ。
*
予定よりも一日早く、龍玄が頼んでいた筆が店に届いた。すぐさま瑠璃が長谷に連絡をすると、二時間後には店に顔を出せるという。
お茶の用意をしながら、品物をきれいに包み直して長谷の到着を待った。
「――瑠璃ちゃん!」
チリンチリンと店の入り口の風鈴が鳴って、長谷が手を振りながら嬉しそうな顔をして入ってきた。
先日と同じようにまだまだ外は暑いようで、上着を腕にかけながらいつも以上にニコニコしている。瑠璃は軽くお辞儀をしてカウンターの近くの椅子まで案内した。
「長谷さん、お待たせしました。全部揃いましたよ」
「良かった! これさえあれば、きっと先生は新作をガンガン描いてくれる……はず!」
お茶をゴクゴク飲み干すと、長谷は外回りで起きた出来事や展覧会中の絵の話、顧客の面白い話を聞かせてくれる。
身振り手振りも交えながら、かなりオーバーリアクションで話すので、長谷の話を聞くのは、瑠璃の楽しみの一つだ。
両手を広げながら話をしていた長谷が、カウンターの隅に置いてあった雑誌に気がついて口元を緩めた。
「あ、あれは龍玄先生が載っている雑誌?」
「そうです。手が空いた時に読んでいたままにしちゃってて」
瑠璃は雑誌を持ってくると長谷に手渡した。
「ほんと、先生はすごいんだよ。これなんか、本物を見た時俺は鳥肌立ちっぱなしでさ」
ぺらぺらとめくりながら、長谷が嬉しそうに雑誌を見つめる。その姿からは、龍玄の描いた絵が好きという気持ちがよく伝わってくる。
「感動したんだよね。俺初めてだよ、絵を見て感動したのなんて。だから、先生の所に通い詰めているんだけど!」
先生はすごいんだけど、ときちんと前置きをした後に、長谷は龍玄の写真を見て困ったように口を曲げた。
「伸びっぱなしの髪には目をつぶるけど、顎の無精髭は個展が始まる時に剃らせないと。げ、なんか俺が小姑みたいだな!」
写真うつりは素晴らしいし実際見ると男の俺からしても男前なんだけどね、と長谷が羨ましそうな顔をした。
「撮影の時くらい髭を剃ってくれって、何度注意したことか……はあ、今回も絶対にやらせなくっちゃ!」
「長谷さんは、いい小姑だと思いますよ」
「先生の顔面を拝もうとして、遠方からわざわざやってくる女性ファンを悲しませるわけにはいかないんだよね、主催側の俺としては!」
鼻息荒くそこまで言ってから、長谷は「あ!」と目を見開くなり、大慌てで鞄の中からぺらりと紙を一枚取り出して瑠璃に渡した。
「瑠璃ちゃんにあげようと思っていたんだ。うっかり忘れるところだった!」
「え、これっ――……」
差し出された小さな紙を受け取る。印刷された文字をまじまじと眺めると、思わず動悸が激しくなった。長谷と紙に視線を交互に向けると、長谷はにっかりと微笑んだ。
「龍玄先生の来月の個展のチケット。これはエキシビション用だから、一般のお客さんが入れない特別なやつ」
「そんな……」
「瑠璃ちゃんに一枚プレゼントだよ。それに、来てくれたら先生も紹介するね」
瑠璃はもう一度そのチケットを穴が開くほど見つめた。
『エキシビション』の文字とともに非売品の文字がやけに目立つ。「一般のお客様は入れません」と丁寧に注意文まで印字されていた。
「長谷さん……こんな貴重なもの、私がもらっていいんですか?」
「瑠璃ちゃんだからいいんだよ。いつもお世話になっているし、瑠璃ちゃんがいなかったら俺ほんと、毎日泣いていたよ。先生の要求する画材の、筆の一本もわからないんだもん」
「でも私、画材を注文しただけで……」
「いいの! 俺は瑠璃ちゃんに助けてもらったんだから、お礼がしたいの。受け取ってよ」
長谷は白い歯を覗かせながら、人好きのする笑顔になる。
「まあ、お礼と言ってはあれだけど……ほら、瑠璃ちゃん最近ずっと悩んでいるみたいだから、気分転換になるかなって」
瑠璃が社宅から出て行かなくてはいけないことも、再就職先に悩んでいることも長谷は知っている。それを気にかけてくれた優しさが、瑠璃の心に沁みた。
「もちろん無料だし、カクテルとおつまみも出るから、おめかしして来てほしい」
「嬉しいです……エキシビションに行けるなんて、夢みたい」
「そんなに喜んでくれるんだったら、渡したかいがあるなあ。この日なら招待客しか来ないから混雑もしないし、ゆっくり先生の作品を見られるよ」
長谷は瑠璃が龍玄の絵が好きなことをよくわかっている。長谷の気持ちが嬉しくて、瑠璃は泣きそうになっていたのを必死にこらえていた。
「きっといい展覧会にしてみせるから」
「はい、楽しみにしています」
ニヤリと笑って、丁寧に梱包した品物を受け取ると長谷は店を去っていく。
入り口の外までついていき、後ろ姿が見えなくなるまで見送って瑠璃は店内に戻った。
早足にカウンターに近寄ると、置いておいたチケットを見て再度胸のドキドキが止まらなくなる。
「嘘……いいの、私が……?」
幻ではないかとチケットに触れてみたが、しっかり本物だ。鏡を見なくても、自分の顔が真っ赤になっているのがわかる。
もらったばかりの特別なそれを、無くさないように財布の中にしまうと鞄のチャックをしっかり閉じた。
大学時代からあこがれている作家の作品を鑑賞できるとあって、瑠璃はその日の残りの時間、夢を見ているようにふわふわと足元が浮いている感覚だった。
『――ほなな、ええことあったやろ?』
「うん……すごく嬉しい」
閉店前に箒で床を掃いていると、得意げに話しかけられる。瑠璃は思わず相槌を打ってしまうほど気が緩んでしまっていた。
たくさん龍玄の絵を見られるという嬉しさに、瑠璃は胸がいっぱいになった。
『そうや、笑う門には福来るやで。そうやって笑顔でおったら、ええことぎょうさん来るさかい、心の中いーっぱいに幸せを詰めとき』
瑠璃は込み上げてくる喜びを抑えきれず、何度も一人で頷いて顔を赤くさせた。
*
まだ幾日も日はあったはずなのに、気がつけば長月の月末を過ぎ、楽しみにしていた龍玄のエキシビションの日になっていた。
楽しみなことがあると、時が過ぎるのは猛烈に速い。
数日前から服装に悩みぬいた挙句、久々に着物に袖を通すことにした。
一見地味に見える留紺の着物を着ると、まるで待っていたと言わんばかりにふわりと肌に馴染んでいく。
「ごめんね、なかなか着てあげられなくて」
母のお花の稽古に小さい時から参加していたため、着物には親しみがある。稽古は厳しくてつらかったのだが、着物は好きだった。
『お! 着物はやっぱりええなあ』
瑠璃はウキウキしていたのだが、今日は聞こえてくるしわがれ『声』も一段と嬉しそうだ。
ワクワクしすぎて震える手先を何度も胸の前に当てて、慣れた手順で着物を着始める。きれいなものにしておいた襦袢の襟を伸ばし、お太鼓をほんの少し小さめに結びあげた。
『お化粧はせんの?』
瑠璃は『声』に指摘されてハッとした。
襟元に手ぬぐいをかけてから、いざしようと鏡の前に座った。しかし、普段から化粧をするタイプではないため、やり方がわからずに手が止まる。
結局いつも通りのお化粧に、申し訳程度に頬紅を足した。
(あんまり得意じゃないのよね。桃子に教わっておけば良かったな)
妹の桃子は、美容の専門学校へ進学した。そのためかなり華やかで明るく、さらに言えば今どきの印象を与える見た目だ。
おしとやかといえば聞こえはいいが、地味な瑠璃とは正反対でもある。街を歩いていても、姉妹に見られたことはない。
(まあいっか。あんまり私がすると、顔だけお化けになっちゃうから)
大事な時には桃子に身だしなみのチェックと調整を頼む癖がついている。瑠璃は自分が妹にまで甘えていることを自覚した。
そんな仲良しだった桃子とも、近頃は連絡をあまり取り合っていない。
厳しい美容の世界で頑張っている桃子には、自分の現状が後ろめたくて言えなかった。桃子がそんなことを気にする性格ではないとわかっているのに、どうにも気が引けてしまっていた。
『落ち込んでる暇ないで。ほれ、顔上げてしゃんとしい。瑠璃はそのままでも美人なんやから、張り切って行けばええねん』
鏡の前でうつむいてしゅんとしてしまった瑠璃を鼓舞するように、しわがれ『声』にはっぱをかけられた。
『ぎょうさん美味いもん食べて、好きな絵をいっぱい見といでな』
(うん、ありがとう……)
瑠璃は玄関の鏡で全身をチェックし、大丈夫と意気込んだ。
久しぶりにさした口紅が、なんだかまるで自分ではない自分へ変身させてくれているような気がする。今だけはなにもかも忘れて、楽しんでもいいんだと思えた。
瑠璃は、今日だったら魔法でも使えそうな気さえしてきていた。
観光客が大勢詰めかける駅の、多国籍な雑踏を抜けてエスカレーターで地上へ向かう。外は気持ちよく晴れており、思わずほころぶ口元を引き締めて向かった。
チケットの裏に書いてあった会場に到着して、日付や場所が間違っていないかチケットを再度確認する。
引き戸のガラスから中を覗くと、人がたくさん動いているのが確認できた。
「こんにちは……」
ちょうど歩いている長谷の姿を入ってすぐのところで見つけて、胸をなでおろした。
気づいてくれないかなと目配せしたのだが、長谷は忙しそうにしており入り口を見ようともしない。
急に緊張がせり上がってきて、どうしようと不安な気持ちに襲われそうになったところで人の気配が近づいてきた。
「こんにちは。チケットはお持ちですか?」
瑠璃に気がついた女性が、入り口の受付台の奥へ回った。にこやかに微笑みかけられて、慌てて鞄からチケットを取り出して見せる。
「拝見しますね」
半分に千切られてしまうのがなんだかもったいない。
女性はチケットの半分をもぎると瑠璃を奥へ通してくれた。
やっと瑠璃の来場に気がついた長谷が、他の人との話を切り上げて手を振りながらいつものようににこやかに駆け寄ってくる。
「瑠璃ちゃんいらっしゃい! お着物で来てくれるなんて嬉しいよ。いつもきれいだけど、今日はちょっときれいすぎてドキドキするな!」
「そんな……なにを着たらいいかわからなくて」
長谷は本当に照れているのか、いつもよりもはにかんだ笑顔だ。瑠璃は恥ずかしくなってしまい、手で口元を隠しながら下を向いた。
「あの、今日はお招きくださってありがとうございます」
「むしろ来てくれてありがとう。作品もたくさん見られるよ。あっちにカクテルと飲み物、アペタイザーもたくさんあるからいっぱい食べてね」
長谷が指さした机の上には色とりどりの飲み物と食べ物が並べられていた。さすがエキシビションと、瑠璃は豪華さに驚いてしまう。
気後れしていると、長谷が瑠璃の手を引いて展示してある部屋の近くまで誘導してくれた。
「瑠璃ちゃん、後で呼びに来るから、ちょっと作品を見てくつろいでいてね」
展覧会が無事に開催できたことが嬉しいようで、誇らしげな長谷の姿がなんだか羨ましくなってしまった。
それほど混雑していないギャラリー内を一望して、なによりも見たかった龍玄の作品の前に一歩進んだ。
「――すごい……」
メインとなる二メートルを超える作品を中心に、会場の壁すべてに中規模から小規模の作品が展示されている。
このエキシビションが終われば、作品は市の美術館の本会場に搬入され一般公開される。だからじっくり鑑賞できるのは今しかなかった。
作品の持つ生命力に吸い寄せられるように、瑠璃は一つ一つの絵をじっくり覗き込んだ。
手を伸ばせば中に入れてしまうような感覚に襲われて、今ここに立っているのが夢か現実かわからなくなる。
――この世にあって、この世ならざるもの達の生きる世界。
絵から伝わってくる息遣いは、あまりに現実味を帯びている。ギャラリーを出てすぐの路地を曲がったら、そちら側に入り込んでしまいそうなほどだ。
現実と龍玄の描く世界には、ほんの一ミリもずれがない。それほどまでにリアルで鮮烈でみずみずしい。
瑠璃は呼吸をすることさえ忘れてしまいそうになっていた。なので、名前を呼ばれていることに気がつかず、肩に手を置かれてやっと振り返った。
「――瑠璃ちゃん、大丈夫?」
「あっ、長谷さん。は、はい……。ごめんなさい、集中してしまって」
「何回呼んでも聞こえていない風だったから、耳栓でもしているのかと思っちゃった!」
「す、すみません……!」
原画を販売しないため、美術館や他の場所で龍玄の絵を見ることは叶わない。だから、本物の絵を見られるのはすごく貴重だったのだ。
とはいえ、招待してくれた長谷を無視してしまい血の気が引く。しかしそんな瑠璃に、長谷は「大丈夫」と手を横に振った。
「謝ることないよ。龍玄先生だって同じようなものだから。画家の集中力って半端ないけど、瑠璃ちゃんも先生と同じ、絵を描く人なんだなって感心しちゃった!」
長谷は茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべ、辺りを気にしながら瑠璃に顔を寄せて囁いた。
「あ、それでね、今ちょっと大丈夫? 先生を紹介したいんだけど」
長谷の提案に、瑠璃の心臓が止まりかけた。
「あ……その……冗談だと思っていたんですけど」
「瑠璃ちゃんに冗談なんか言わないって! いいのいいの、遠慮しないで。ただここだと他の人もわーってなっちゃうから、後ろまで来てほしいんだけどいいかな?」
思ってもみなかった内容に、瑠璃は壊れたブリキ人形みたいに首を軋ませるような頷きを返すことしかできない。あまりの緊張っぷりに、長谷がぽんぽんと瑠璃の手を優しく叩いた。
「大丈夫、こんなおかしなもののけの絵を描いてるけど、本人はギリギリ人だから」
「ギリギリ、人……」
「そう。ちょっとあっちの世界に足を踏み入れちゃってるけどね」
長谷の冗談に瑠璃は思わず笑ってしまう。それで緊張がほぐれ、改めて大きく頷く。行こう、と連れられて、会場を抜けた奥の入り口に案内された。
バックヤードだという場所に扉はなく、足元まで届くほどの長い暖簾がかけられていた。暖簾の後ろには小さな土間があり、二階へ上がる急な階段が見える。
履物を脱いで、長谷の後をついて瑠璃も階段をゆっくり上った。二階に上がるとすぐ横の部屋が控室として用意されており、そこにも暖簾がかけられている。
すると長谷は横の壁をコンコンと叩いてから、「先生、入りますよ」と言い終わらないうちに暖簾をくぐってしまった。
「瑠璃ちゃん、おいで」
足踏みしていた瑠璃は、暖簾の先からひょこっと顔を覗かせた長谷に手を引っ張られて、敷居をまたいだ。
緊張から、瑠璃の鼓動はあり得ない速さで脈を打っている。目の前が真っ白になりそうだったのだが、長谷ののんびりした声で正気を保てた。
「先生、呼んできましたよ」
恐る恐る瑠璃が顔を上げると、部屋の奥の障子窓から外を眺めている着流し姿の男性の背中が見えた。
瑠璃の心臓が、どくどくとさらに強烈に脈を打ち始める。顔だけではなく耳まで熱くなっているのを自分自身でも感じた。
「先生、紹介しますね。この子が先生の意味不明な注文で困っているといつも助けてくれる瑠璃ちゃんです!」
緊張感に欠ける長谷の絶妙な声と紹介に、着流し姿の男性はピクリと眉毛を動かしてから、瑠璃達のいる入り口へゆっくり首を向けた。
「瑠璃ちゃん、もっと前来てってば!」
手を引かれて、瑠璃は重たい一歩を踏み出す。
「――初めまして、紹介していただいた宗野瑠璃です」
窓際にたたずむ男性の姿を見ないように、深々とお辞儀をした。そうすれば緊張が退くと思っていたのに、実際には声が震えてしまう。
「あはは、瑠璃ちゃん緊張してる。さっきも言ったけど、ギリギリ人だから大丈夫だよ。先生もほら、そんなところで突っ立っていないで、挨拶してくださいって」
長谷のお気楽な声に、瑠璃は逆に緊張が増してしまった。
「……なんだその、ギリギリ人っていうのは」
少し掠れた、深みのある声音が瑠璃の耳に届く。初めて聞く龍玄の肉声は、彼のイメージそのままだ。
その声に思わず瑠璃が顔を上げると、窓際の人物――龍玄は美しく凛々しい形の眉を持ち上げていた。
龍玄は、写真で見るよりも上背がかなりある、着流しがよく似合う人だった。
しかし長谷は眉をひそめる龍玄のことなど気にもしない。
「緊張している人に、先生をそういう風に紹介するとだいたい和むんですよ。ほら、先生ってもののけか人か妖怪かわかりませんからね」
「……」
「まあ、家はもののけが住んでいそうなくらい、めちゃくちゃひっ散らかっていますけど」
「大きなお世話だ」
龍玄が途端に不機嫌そうに眉根を寄せるが、事実です! と長谷は言い返してから、一息ついて瑠璃を見る。
瑠璃が頬を引きつらせると、長谷は龍玄のイライラなど気にも留めず、てきぱきと二枚の座布団を横から出してきた。そして顔をほころばせて瑠璃を手招きする。
あまりにも龍玄に近い距離に敷かれた座布団を見て、瑠璃は顔色を悪くした。
いきなり押しかけた上に、人嫌いだという龍玄のこんなに近くに座って大丈夫だろうか。窓際に突っ立ったままでいる龍玄の様子をそっと窺う。
顔は不機嫌そうなものの、怒っているふうでもなく、長谷の軽口を鬱陶しそうにしているだけのようだ。
ただ、一瞬だけ瑠璃を見てわずかに眉毛を動かした姿に心臓が止まりそうになる。
いきなり不躾に入ってきたから、嫌悪感を持たれてしまったかもしれない。
「瑠璃ちゃんもこっち来てってば。先生も座ってください、ただでさえ威圧感あるんですから、立っていると東大寺の仁王様みたいです」
なにかを言い返そうと龍玄が口を開くより先に、長谷がさらに付け加える。
「……っていうか、瑠璃ちゃんがいなかったら先生は絵を描けていないんですから、お礼の一つくらい言ってくださいよね」
「そんな、私はなにもしていません。滅相もないです」
相変わらずな口調で茶化した長谷を、龍玄は鬱陶しそうに半眼で見つめていた。
突っ立ったまま壁に寄りかかる龍玄が窓を閉めようと背中を向ける。その時、ふと気がついたことがあった。
「帯が……」
そこまで口走ってから、はっと口をつぐむ。
「瑠璃ちゃん、帯がどうかしたの?」
長谷が不思議そうに首をかしげて瑠璃を見た。疑問に満ちた視線から逃げようとしたものの、なんとも気まずい気持ちで口を開く。
「先生の帯の両端が揃っていなかったので。出過ぎたことを言いました、忘れてください」
瑠璃が頭を下げたところで、龍玄が大きく息を吐く。
聞こえてくるため息の深さに瑠璃は肩を震わせた。なんて余計なことを言ってしまったんだと、後悔したがもう遅い。これで龍玄の機嫌を損ねてしまったらどうしようと泣きそうになった。
「――男帯は締められるか?」
しかし。龍玄はただ、ぽつりと言葉を投げかけてきただけだった。
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