薬師のニケと精霊の王

神原オホカミ【書籍発売中】

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第3章 魔導競技大会

第27話 水の精霊

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「シオン、どうするの?」

 ニケの質問の意味が理解できなくて、シオンは隣を歩くニケを見つめた。

 ハミルと別れると、二人は近くの薬所《やくしょ》へと向かっていた。急患が来たから診てほしいと、ウルムとは別の精霊がとつじょ現れて告げたからだった。

「どうするって、どういうことだ?」

「だって、傷ついている人と精霊がいるなら……」

 そこまで言ってニケがシオンを見上げる。シオンは困った顔をした。

「今行って巻き込まれたらどうするんだ。救うことも大事だが、自分の命を守ることも大事だ」

「でも」

「ついたぞ。話はあとだ」

 それ以上は何も聞くなと、シオンはまるで顔に書いてあるかのように押し黙ると、運ばれてきた急患の元へと急いだ。薬所にはイグニスの薬師らが在中していたのだが、元々巡回薬師だったという所長が今は不在ということで、手出しができないということだった。

「水の精霊か」

 診察台に寝かされている、羽の生えた魚のような姿の精霊を見てシオンがつぶやくと同時に、ニケがその精霊の声をはっきりと聞き取って「早く、水を」とそこにいた薬師に告げたのが同時だった。

 その精霊が負っていたのは手ひどい傷だったが、すぐに水を入れて、ニケが村々を回るときに集めておいた精霊樹の樹液を水に溶かすと、精霊は落ち着きを取り戻した。

 横腹にできた傷口は、火の魔法で炙られたもののようだった。ニケが問診している間に、シオンがイグニスの薬師に薬があるかを確認する。

 幸いにも、この薬所が元々巡回薬師だった薬師が構えたところだけあって、様々な魔力に対応できるように潤沢な薬と器具がそろっていた。

 ニケの問診の結果を聞いて、シオンが手際よくさらに薬を指示し、夕刻までには傷口は塞がって、精霊は全快とは言わないまでも、見るからに元気になった。

 所長は戻ってくると、シオンとニケに礼を伝え、それから精霊の状態を診た。素晴らしい治療だと笑みを深く刻んだ顔の後に、その表情を曇らせた。

 人払いをすると、所長は診察台の横に座りながら、二人に向き合った。

「水の精霊がこの町に傷をつくって流れてきたってことは、上流で何かよくないことが起きているってことです」

 それに、ニケは心臓を氷の手でつかまれたかのような感覚になった。

 イグニスからほど近い精霊の森で起きている、フォッサ小国とのいざこざが、少なからず関係しているように思えた。

『――人に襲われたのだ』

 大きな目をぎょろりとさせて、今まで押し黙っていた精霊がそう言った。

『私は川を下って来れたのだが、木の精霊たちは逃げられぬ。多くの命が狩られている』

 ニケはいたたまれなくなって下唇を噛んだ。所長も、シオンも何も言えないまま重苦しい雰囲気がその場に充満した。

『われらの声が聞こえる者たちよ、我らを救ってほしい。襲ってくる人間には、われらの声が届かぬ――』

 水の精霊は、樹液の入った水の中でそう言うと、目を閉じて寝てしまった。



 夕食に誘われて、すっかりごちそうになってから小屋へと戻るころには、とうに日は傾き、紺色の夜空には目覚めたての月がひんやりと昇っていた。

「シオン、やっぱり行こうよ」

 ニケはずっと思っていたことを、小屋に着いたときにシオンに打ち明けた。

 最後に見た、水の精霊の姿が決定打だったことは間違いなかった。ニケの目の奥に、強い色が浮かんでいるのを見て、シオンは椅子へと腰かけた。

「シオン、見過ごせないってば」

 傍らに立ってシオンの袖を引っ張るニケの目は切実だった。それは、友達を見捨てておけないという瞳。傷ついている人や精霊がいるのなら、放っておけないという使命感。

 なによりも、木の精霊が焼かれているという言葉は、ニケの思い入れのある種の精霊だけあって、心の中に深く重く引っかかった。

 それは、薬師としては正しい感情だった。しかし、シオンは首を横に振った。

「なんで、シオン!」

「だめだ。俺は、争いに巻き込ませるために、ニケを連れ出したんじゃない。一人前の薬師にするために連れ出したんだ」

 でも、と言葉を紡ごうとするニケを、シオンが苦しそうな顔で見た。

「俺だってできることがあればしたい。でも、みすみす命を投げ出すようなことをするべきじゃない」

「じゃあシオンは、木の精霊が傷ついているのを見ても痛くも痒くもないっていうの!?」

「そういうことじゃない」

 シオンが珍しく語気を強めたので、ニケは言葉に詰まった。

「万が一、そんな話の分からない連中に、ニケが見つかったらどうする。その魔力を、悪用されない保証はどこにある? こないだだって……」

 シオンは、一人であれば向かっていた。しかし、それは自分の身は最低限自分で守れ、責任を負える自信があるからできることだ。

 ニケを連れている以上、彼女をいざこざに巻き込むのは避けなければならなかった。

「俺は、ニケの師匠に手紙上だとはいえ、託されたんだ。託された以上、俺にはやるべきことは一つ、ニケを無事に薬師にすることだ。分かるな?」

「助けに行けないのは、私のせいなの?」

「俺の意志だ」

 シオンは立ち上がると、暖炉に薪をくべて、お湯を沸かした。ニケはその場で立ち止まったまま、その姿をじっと見ていた。

「寝る支度をしろ。今夜は、冷える」

 ニケは口を引き結んでしばらく考えていたのだが、静かにうなずくと寝る支度を始めた。シオンは沸かしたお湯で茶を淹れると、寝る前に二人で飲んだ。

 ニケはその後もずっと押し黙ったままだったのだが、ソファに横に寝かせると、大人しく目をつぶった。



 ――夜半過ぎ、ニケは目を覚ました。

 本当は、寝ていなかった。寝ているふりをして、シオンをやり過ごそうとしていた。ゆっくりと起き上がってシオンの寝ている寝台へと近づくと、規則正しい寝息が聞こえてくる。

「今だったら……」

 イグニスの精霊に聞いて、もし傷ついている精霊がいるのであれば、その場所をこっそりと尋ねてみようと考えていたのだ。

 外は相当に冷え込んでいるようで、隙間風が肌に触れると、刃物で刺されたかのようにちりちりと痛んだ。

 たくさん着こまないとと思って、入り口にかかっている防寒具に手を伸ばした時、身体が傾いだ。

「あ、れ?」

 地面に倒れる寸前、そのニケの身体をしっかりとした手が支える。みるみる身体から力が抜けていき、立っていられなくてその手にすがる。

「なんで、シオン……?」

 ニケの身体を支えたシオンに視線だけ向けると、ぶすっとした顔をしていた。

「逃げるだろうと思って、茶に薬を入れておいた。やっぱり、けっこうな耐性があったな。その分だと、他の毒物にも耐性があるだろ? 強く入れておいたのになかなか効かないから焦ったが、動いたから身体に回ったんだ」

 死ぬような量じゃない。そう物騒なことを言いながら、ニケを抱え込んだまま自身の布団の中へと戻る。

「ちょっと、シオン」

 後ろから子どもを寝かしつけるかのように抱きしめられたまま、シオンはニケをがっちりと掴んでいた。

「俺はゆっくり寝たい。いつ逃げるか分からないニケに神経をとがらせておくくらいなら、この方が逃げられた時に分かりやすい」

 回らない呂律でニケが抗議すると、しれっとそう言ってニケを抱きかかえたまま寝てしまった。

「なに、これ。恥ずかしい…」

 そう言ったのを最後に、動かない身体のだるさに耐えかねて、ニケもすぐさま意識を手放してしまった。
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