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113.義母と義兄嫁②(怖さレベル:★★☆)
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「のど乾いていませんか? お茶買ってきたから、持ってきますよ」
大きめの声で問いかけましたが、義母はこちらに目を向けはするものの、
体を左右にゆらすばかりで、反応はありません。
「おかあさん? ……聞こえてます?」
まるで夢のなかにいるかのような、あいまいな反応です。
もしや熱中症で意識がもうろうとしているのかと、
おそるおそる目の前で手を振ってみると、
「……いっぱい、いるなぁ」
「えっ……?」
にっこり、と。
かつて見せたことのない、満面の笑みを浮かべて、
義母はとても楽しそうに、幸せそうに続けました。
「なにか、あったんか? ひぃ、ふぅ、みぃ……すごい人だなぁ。
みっしりとつまって……」
と、部屋のあちこちに視線を投げて、
ひじょうに機嫌よさそうに笑っています。
「おっ、おかあさん……? こ、ここにいるのは私だけ、ですよ……?」
夫をともなって来なかったのをいまさら後悔しつつ、
義母を正気に戻そうと、ふるえる声を張り上げました。
「だっ、誰も。誰もいませんよ。へ、へんなコト言わないでください」
「おやぁ、おかしいねぇ。だって、あっちにこっちに、いっぱい人がいるじゃないか」
義母の指が、目の前をスーッと横切り、
リビングと廊下の間のガラス扉をさしました。
「ほら……あの扉と扉の間。人が覗いてるよ」
「え……」
ガラスで透過された場所には、なんの人影もありません。
「あっちも……ほら、おもしろいところにいるねぇ。
天井に張りついているなんて」
義母はニコニコと笑顔を浮かべたまま、天井に眼球を動かします。
つられるように彼女の視線を負いますが、もちろん、なにも見えません。
しかし。
うっすらと開いた扉の隙間。
シミだらけの古い天井。
それらのなんの変哲もない日常風景の一部に、
なにか、黒いモヤのようなものが見えた――気がして。
ブルリ、と全身に寒気がかけ巡りました。
「な、なにもいないですよ。見間違いか、げ、幻覚ですって……」
ジワジワとおそい来るうす気味の悪さに血の気が引きつつ、
必死で義母の言葉を否定しました。
なにもいない、なにも見えない。
痴ほう症によくあるという幻覚なんだと、
むりやり自分を納得させていると。
「あー……あ、ぁー……」
不意に。
義母は部屋の一点を見つめ、抑揚のないうめき声をあげ始めました。
「おっ……おかあさん……?」
いっそ機械的と思うほど、感情のこもっていない声。
墓地にひそむカラスを想起させる、不気味で濃淡のない、声。
「だ……大丈夫ですか……?」
いよいよ気がふれてしまったんだろうかと、
湧きあがる恐怖を押し殺しつつ、彼女のそばへと近づきました。
「あ……お、おと……」
「え……?」
義母は、ウロウロと眼球を動かしながら、見つめたその一点――
仏壇のほうへ、両手を動かし這いずるように近寄っていきます。
「お、おかあさん……?」
「お……おと……」
おと。音?
耳をすましても、部屋のなかはエアコンと扇風機の稼働音がするばかり。
気になるような物音はありません。
今度は幻聴が始まったかと、私は義母を見つめつつため息をはきだしました。
「おと……」
彼女は、のそのそと仏壇の前に移動し、こちらを振り返りました。
「お……おとうさんが、来た」
「えっ……?」
ハッキリと。
聞き間違いを許さぬほど明瞭に、義母はそう口にしました。
おとうさん。夫の父。義母の夫。
数か月前に亡くなった、義父。
パタン。キィー……
鼓膜が、音を拾いました。
そっと、ゆっくりと、なにかの扉の開く、音。
義母のうつろな目が、今やまばたきひとつせず、
仏壇のなかを凝視しています。
「いっ、今の……音……」
彼女の視線の先に、目を向けることができません。
黒くくすぶる、なにか。
それを、見てしまいそうだから。
「いつも来てくれるのよ、おとうさん……だいぶ、形が変わってしまったけれど……」
義母は、歌うように上機嫌で笑っています。
シワの刻まれた両手をにぎり、首をわずかに揺らしながら。
「それがねぇ……うれしくってしょうがないのよ……」
死して仏になり、現世の妻に会いにくる。
それは一見、素敵な物語です。
しかし、今。
義母の正面、仏壇から感じる重々しいよどみからは、
そんな言葉通りのほほえましさなど、みじんも感じられません。
「お、おかあさん……お、おとうさんが……来るんですか……?」
「うん、うん……来るよぉ、よく……」
「それって……本当に、おとうさん、なんですか……?」
おそるおそる。
私が、ハッキリと事実を確認しようと、
目前の義母に小声で尋ねました。
「あ……あー? ……あぁ……」
すると。
あれだけニコやかに話をしていた義母は、
みるみるうちにしぼんで、うつむいてしまったのです。
「あー……おとうさん……おと……」
「お、おかあさん……?」
「おと……あー……あぁ……」
(ダメだ……会話にならない……)
ほんの一週間前までは、もうすこし会話もスムーズだったのに、
いまや言葉自体がろくに通じません。
「おと……う、うぅー……」
混乱した義母は、両手を顔に押しあてて、
ついにはさめざめと泣きだし始めました。
途端、ブワっと仏壇からの黒い圧が膨れ上がります。
負の感情を凝縮したかのような、重い恐怖と憐憫が、
もやもやと部屋全体を覆うように広がってきました。
その黒いよどみは、まるで義母にまとわりつくように、
そして、自分の方にまでじわじわと近寄ってきます。
(おかあさん……放っておくわけには……でも、いったいどうしたら……!?)
私は押しよせる恐れと戦いながら、
オロオロと手を震わせていました。
>>
大きめの声で問いかけましたが、義母はこちらに目を向けはするものの、
体を左右にゆらすばかりで、反応はありません。
「おかあさん? ……聞こえてます?」
まるで夢のなかにいるかのような、あいまいな反応です。
もしや熱中症で意識がもうろうとしているのかと、
おそるおそる目の前で手を振ってみると、
「……いっぱい、いるなぁ」
「えっ……?」
にっこり、と。
かつて見せたことのない、満面の笑みを浮かべて、
義母はとても楽しそうに、幸せそうに続けました。
「なにか、あったんか? ひぃ、ふぅ、みぃ……すごい人だなぁ。
みっしりとつまって……」
と、部屋のあちこちに視線を投げて、
ひじょうに機嫌よさそうに笑っています。
「おっ、おかあさん……? こ、ここにいるのは私だけ、ですよ……?」
夫をともなって来なかったのをいまさら後悔しつつ、
義母を正気に戻そうと、ふるえる声を張り上げました。
「だっ、誰も。誰もいませんよ。へ、へんなコト言わないでください」
「おやぁ、おかしいねぇ。だって、あっちにこっちに、いっぱい人がいるじゃないか」
義母の指が、目の前をスーッと横切り、
リビングと廊下の間のガラス扉をさしました。
「ほら……あの扉と扉の間。人が覗いてるよ」
「え……」
ガラスで透過された場所には、なんの人影もありません。
「あっちも……ほら、おもしろいところにいるねぇ。
天井に張りついているなんて」
義母はニコニコと笑顔を浮かべたまま、天井に眼球を動かします。
つられるように彼女の視線を負いますが、もちろん、なにも見えません。
しかし。
うっすらと開いた扉の隙間。
シミだらけの古い天井。
それらのなんの変哲もない日常風景の一部に、
なにか、黒いモヤのようなものが見えた――気がして。
ブルリ、と全身に寒気がかけ巡りました。
「な、なにもいないですよ。見間違いか、げ、幻覚ですって……」
ジワジワとおそい来るうす気味の悪さに血の気が引きつつ、
必死で義母の言葉を否定しました。
なにもいない、なにも見えない。
痴ほう症によくあるという幻覚なんだと、
むりやり自分を納得させていると。
「あー……あ、ぁー……」
不意に。
義母は部屋の一点を見つめ、抑揚のないうめき声をあげ始めました。
「おっ……おかあさん……?」
いっそ機械的と思うほど、感情のこもっていない声。
墓地にひそむカラスを想起させる、不気味で濃淡のない、声。
「だ……大丈夫ですか……?」
いよいよ気がふれてしまったんだろうかと、
湧きあがる恐怖を押し殺しつつ、彼女のそばへと近づきました。
「あ……お、おと……」
「え……?」
義母は、ウロウロと眼球を動かしながら、見つめたその一点――
仏壇のほうへ、両手を動かし這いずるように近寄っていきます。
「お、おかあさん……?」
「お……おと……」
おと。音?
耳をすましても、部屋のなかはエアコンと扇風機の稼働音がするばかり。
気になるような物音はありません。
今度は幻聴が始まったかと、私は義母を見つめつつため息をはきだしました。
「おと……」
彼女は、のそのそと仏壇の前に移動し、こちらを振り返りました。
「お……おとうさんが、来た」
「えっ……?」
ハッキリと。
聞き間違いを許さぬほど明瞭に、義母はそう口にしました。
おとうさん。夫の父。義母の夫。
数か月前に亡くなった、義父。
パタン。キィー……
鼓膜が、音を拾いました。
そっと、ゆっくりと、なにかの扉の開く、音。
義母のうつろな目が、今やまばたきひとつせず、
仏壇のなかを凝視しています。
「いっ、今の……音……」
彼女の視線の先に、目を向けることができません。
黒くくすぶる、なにか。
それを、見てしまいそうだから。
「いつも来てくれるのよ、おとうさん……だいぶ、形が変わってしまったけれど……」
義母は、歌うように上機嫌で笑っています。
シワの刻まれた両手をにぎり、首をわずかに揺らしながら。
「それがねぇ……うれしくってしょうがないのよ……」
死して仏になり、現世の妻に会いにくる。
それは一見、素敵な物語です。
しかし、今。
義母の正面、仏壇から感じる重々しいよどみからは、
そんな言葉通りのほほえましさなど、みじんも感じられません。
「お、おかあさん……お、おとうさんが……来るんですか……?」
「うん、うん……来るよぉ、よく……」
「それって……本当に、おとうさん、なんですか……?」
おそるおそる。
私が、ハッキリと事実を確認しようと、
目前の義母に小声で尋ねました。
「あ……あー? ……あぁ……」
すると。
あれだけニコやかに話をしていた義母は、
みるみるうちにしぼんで、うつむいてしまったのです。
「あー……おとうさん……おと……」
「お、おかあさん……?」
「おと……あー……あぁ……」
(ダメだ……会話にならない……)
ほんの一週間前までは、もうすこし会話もスムーズだったのに、
いまや言葉自体がろくに通じません。
「おと……う、うぅー……」
混乱した義母は、両手を顔に押しあてて、
ついにはさめざめと泣きだし始めました。
途端、ブワっと仏壇からの黒い圧が膨れ上がります。
負の感情を凝縮したかのような、重い恐怖と憐憫が、
もやもやと部屋全体を覆うように広がってきました。
その黒いよどみは、まるで義母にまとわりつくように、
そして、自分の方にまでじわじわと近寄ってきます。
(おかあさん……放っておくわけには……でも、いったいどうしたら……!?)
私は押しよせる恐れと戦いながら、
オロオロと手を震わせていました。
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