名は体どころか運命を表す

ルイ

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帰宅してから夜中まで、刀川たちかわは一人暮らしをしている小さな部屋で、瀬踏せぶみの家へ侵入する準備をしていた。
ソファーベッドと小さな木目調のテーブル程度しか物のない、小さな和室で。

例のヤモリ手袋の点検も順調。
時刻は午前2時を回っていたが、彼に眠気などはない。
いつものように独語する。

――まず、瀬踏の家に経済確率論のノートを拝借しに参ろう。

例の服に着替えた。黒いTシャツ、黒い短パン。
もちろん、例の特殊な手袋をポケットに入れて。

――そして、も今夜決行するのが良かろうか。

――本当にできるのか? 決行したとしても、馬鹿を見ないのか?

――いや、しかし、しかし。いつかは、いつかはを実行しなければならない!

――でなければ、でなければ完全にあの子を諦める他ない! 与えられた壁を、越えず、断念して、全てを押し殺すしかない!

――脚を濡らさずに魚をとりたがる猫のような真似はできまい! 

――今日こそ、今日こそで、私の運命に決定的なことが生ずるのだ! 

――そう、あの計画…

無造作にペンライトを右ポケットに入れる。

――頼まれてはいないが、あの子に経済確率論のノートを届けるのだ。

――講義を数回欠席しているあの子のことだ、困っているに違いない。

――先月の飲み会で好きな男性のタイプについて、「さりげなーく、講義のノートを貸してくれるとか? 特に、休んじゃった講義のノート、とか何回か休んじゃったし…」と言っていたのをしっかり

――枕元にノートを置くなど、一番さりげないではないか。サンタクロースさながらではないか。

愛は、さまざまなものを通じて語られると言うが、熱い言葉でもなく、バラの花束でもなく、講義のノートを通じて語られる、というのが刀川の結論だった。


これこそが、彼がこの1か月間考え続けた、ひどく錯綜した論理に基づく計画であった。

多くの人は、こんな話を聞くと、恐らくいくつもの点からみて、こんなバカげた話はない、家に侵入など犯罪である、と言うかもしれない。
しかし、彼は熱情のあまりめくらとなっていた。
ちょっとだけ、ちょっとだけ人からどう思われるかを考えることが足りていなかった。

――そしてこの計画のためには、経済確率論の講義のノートが不可欠。

――一方で、うむ、瀬踏にバレかけたが、あの講義を受講していない私にはノートなどない。

――よって、瀬踏のノートを拝借しよう。そして、そのノートには私の名前を上書きする。話はそれからである。

彼はマジックペンと修正テープを左ポケットに突っ込んだ。

――拝借し、名前を書き換えた後、…!

――そして後日、後日、いつになるかは分からぬが、告白、うむ、これはまた深く考えるとしても、いずれ告白というわけか…。

――ということは…。

少し唐突ではあったが、を思い出した。

押し入れを開ける。

はあった。

本格的で、高価な一品だ。

しかし甘井さんといずれ付き合う可能性がわずかながらある(と信じている)手前、捨てざるを得ないと彼は思った。

仮に彼女が出来てもを持ち続けることは、もはや罪になるだろうと考えたのだ。

――うむ、そして、瀬踏の家に行く途中でを捨てよう。処分するのだ。過去の一切を清算し、未来へ向かうのだ!

刀川は腹を決めた。
を捨てた上で、瀬踏の家に忍び込み、必要なノートを拝借しようと決めた。

彼は捨てるを紐でくくり、背負った。
背中が大きくなり、目立つ格好にはなるが、幸い今は深夜2時38分。
通りに人気はないだろう。瀬踏の家も近い。

――①の処分、②瀬踏ノートの入手と名前の書き換え、③ノートをあの子の枕元に置く。この3つが重要だ。あの子に惚れてもらうための3ステップである。

――それらを今日一つ一つ順番に越えようというわけである!

――万事順調にいき、後日告白すれば、うむ、甘美な人生が待っている!

彼は熱に浮かされたような調子で、思い描く。

――まず、まずあのノートを何としても手に入れる必要がある!

彼は6号室から一歩を踏み出した。

外は昼間とは打って変わって、静かに雨がパラパラと音を立てていた。
じめっとしている。
しかしそのようなことは彼に関係ない。頭の中では熱っぽい思考が続いていた。

――瀬踏の家の窓は開いているだろう!

マンションの前の小さな道路に出た。
道路を小雨が濡らし始めているところだ。
雨が降ってから、あまり時は経っていないのだろう。
傘は邪魔になるだろうから、持たない。
 
――なぜって、彼は生計が苦しい。もやしとこんにゃくでラーメンを作るほど!

彼は、街灯もない真っ暗な道をずんずん進む。

――ならば、寝る際にクーラーなど使用していまい。

――ということは? 彼には、窓を開ける、もしくは、網戸にしておくしか選択肢はない!

こうして13分後、隣駅の近くの目的地に到着した。
刀川の住まいと同じような、3階建ての古びたアパート。

――瀬踏の部屋は301号室。3階の端。

瀬踏の部屋の電気は消えている。既に就寝しているのだろう。
彼はそれを確認した後に、アパートの脇に移動した。
垂直な壁を見上げる。
例のヤモリ手袋を装着。
これを使いこなすまでには、意外と多くの苦労が伴った。
自分のアパートの壁を登ろうとして、落下すること2回。
「変な人がいる」と通報されること4回。

しかしもう彼は、以前動画で見た外国人より、この特殊な手袋の扱いは上手くなっていた。

練習通りの動作をペタペタと繰り返すことで、刀川の体はいとも簡単に宙に浮いた。

――今日は背中が重い気がする……。

押し入れにあった等身大のを背負っているからだ。

本来、それを処分してから瀬踏の家に侵入する計画だった。
しかし、そんなことはすっかり忘れていた。
背中の重みも気にせず、クライミングよりもスイスイと登り、上を目指す。

彼はあっという間に三階の高さに到達した。
腕の疲れもない。練習の成果だろうか。

――万事順調!

唯一の懸念点としては、雨。
雨が降るとどうしても手元が滑りやすくなる。
ただし、この程度の小雨では、何も与える影響はなかった。

アパート側面の壁から、瀬踏の部屋のベランダに降り立った。

窓はやはり網戸。
鍵はかかっていない。
それらを手探りの感触で確認し、暗闇で口角を上げる刀川。

――しかし、ここからが本当の勝負。

瀬踏を起こすことなく、経済確率論のノートを見つけなければならない。

深呼吸。

カラ…カラ…カラ。

静かに網戸を引き、部屋に入ろうとした。

だが、窓が思ったより小さく、刀川の背中にひもでくくったが引っかかった。

――しまったァアアアア!
小さく叫ぶ刀川。

――あけみちゃんの処分を忘れていたァア!
本格的で高価な抱き枕(オーダーメイド)を捨てるのを忘れていたことに、ようやく気がついた。
等身大のそれは、刀川に背負われ、紐で固定されている。

――ししし、しかし、しかし、問題あるまい、しかし! 計画に狂いは、狂いは生じない!
――捨ててから、捨ててから出直すか? 否、否、ノートを回収した後に捨てれば良い! 背負ったままノートを回収するのだ! 
――それより、それより、それより落ち着くのだ!
深呼吸をもう数回。何とか落ち着きを取り戻す。

――……うむ! 体勢さえ変えれば入れるではないか!

彼は小さくかがむことで、窓から入ることができた。抱き枕を背負ったまま。

瀬踏の住処は当然、光のない場所だった。
ただ、洋室だということが足の感覚からわかった。

刀川がポケットから取り出したのは、ペンライト。
ボタンを押し、部屋の捜索を始めることとした。

まずは瀬踏のいつも使用しているリュックサックを探すことにする。

ライトで部屋をぐるっと照らすと、左にベッドで寝ている瀬踏。
右にアニメのフィギュアが散乱している勉強机。
正面に食べ終わったコンビニ弁当の容器やガラスのコップが置いてある、足の短いテーブル。

――リュックは……あれか……? あれだ!!

テーブルの奥の玄関の近くに、いつも瀬踏が使っているリュックサックが見えた。
しかもうまいことに、リュックサックの口からはあのノートが見えている。

刀川は興奮のあまり、もはや有頂天となった。

そして、ほとんど前後不覚となって、急に走り出す。

――こ、これがあれば、これさえあれば例の計画を実行できるでないか!

――ご苦労、瀬踏!

しかし、瀬踏の小さな部屋で走るとどうなるか。
特に、ガラスのコップが沢山置いてあるテーブルの近く走るとどうなるだろうか。

パリィンという音がして、コップの割れた音が響く。
彼の足がテーブルにぶつかり、コップが落ちて割れたのだ。

「図られたァアアア!!」
驚いた刀川は、大声でそう口走ってしまった。

――侵入することがまさか、まさか、瀬踏、全てお見通しで、部屋に入ると、うむ、コップが割れる仕掛けを……いや瀬踏、瀬踏にそんなことはできまい!

「ん、ん?」

ベットの中の人が動く。

――おち、おちつけ。まず、まずノートを、回収……足元に、あるではないか! いや、いや、まず、背中のあけみちゃんを捨てて…。
――落ち着くのだ、今は、今はあけみちゃんのことを考える時ではあるまい!

まず、暗闇の中ノートを手に取った。頭の中の混乱が収まらないまま。
 
ガサッ。

数十秒の静寂。

息を潜め待った。

背中にあけみちゃんを背負ったまま、刀川は動きを止めていた。

「……だ、誰かいるんですか?」

瀬踏の声が聞こえた時、刀川は行動を一つ一つ吟味することをもうとっくに忘れていた。
興奮のあまり、逃走のため、窓に向かって全速力で走り出したのだ。

ベッドから起き上がろうとする瀬踏の脇を駆け抜け、ベランダに出て、侵入時とは逆に、アパートの壁をペタペタと降りる…はずだった。

しかし、背中に背負ったあけみちゃんがそれが許さない。
あけみちゃんが、侵入時同様、窓に引っかかったのだ。
刀川はベランダに出ているが、背中のあけみちゃんが窓に引っかかり、部屋から出てくれない。

「あけみィィィイ!」
自制する力を失った刀川は、窓際で夜空に向かい咆哮する。

「だ、だ、誰ですか!」
さすがの瀬踏も、いつものにやにやした声ではない。

――こ、ここは臨機応変に!

ここから行った作戦は迅速果敢であったが、刀川の考えに、もはや脈絡はない。
彼なりに考えた窮余の策として、彼は背負っていたあけみちゃんを急いで取り外し、瀬踏に投げつけた。

「へ、へ、え、え、誰ですか、え?」
投げられた物を人間だと思い、会話をしている。

この隙にベランダへ出る。
急いでヤモリ手袋を装着する。
あわてて壁をつたって降りる。

「ここ、これって、よ、よば……、き、君が僕のさやなのか、へ、へ!」

これが今晩、瀬踏から聞いた最後の言葉だった。

複雑な思いを抱きながら、刀川は無事地上へと降りた。
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