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沸き立つ思い1 郁視点

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 翠の絵の先生兼助手として城に来ることとなった郁。
今回はその郁からの視点で物語を進めます。
郁はまだ若いのですが、評価の高い絵師です。






 昨夜から水に浸けておいたにかわを湯煎でゆっくりと溶かす。
独特の匂いがするのは牛の骨から煮出して取ったものだからだ。
膠の接着する力は強く、家具職人や細工物などにもこれが使われる。

しかし、この匂いが下賤だと言って……特に父は嫌ったものだ。

だが、これを使って顔料を紙に定着する方法で描かれる紗国の絵は、芸術性が高く世界的にも評価が高い。

私はその膠の解けた液を使い、貝殻を砕いて作られる真っ白な胡粉ごふんを練り上げていく。
これを下地としてまず塗るのが基本だ。

それが出来上がると、私は部屋を見渡しそしてこの部屋の主である王子殿下がいらっしゃるのを待った。

貴族の家に生まれて絵師を志すということが家長の逆鱗に触れてからは、心の休まる時がなかった。

私にとって絵を描かない人生など意味がないのだ。

手習いとしてはじめた絵だったが、これを将来の仕事としてと考え始めた時、家を出なければこの道を進むのは無理だろうと、子供心にわかっていた。

今では貴族の家であっても、必ずその家を継がねばならぬということでは無くなっている。
どちらかというと、子の向き不向きを考えて家業があるのならばそれに秀でたものこそを頭に置くべきだ、との考え方のほうが一般的になってきている。

だけど、うちは違った。

昔ながらの頑固な考えの父は、城に出仕し王に仕え、国の為に働くのが根白川の勤めと言ってきかない人だ。
そういう父は本家のサヌ羅様が外交を担う大役を仰せつかると、その補佐としてサヌ羅様に付いた。
それ以来ずっと、紗国の外交に力を尽くしてきた。

「おまえには本当に呆れたよ、郁……さあ、どこへでも出ていくがいい」

成人を迎える1年前……14の年に、冷たい眼差しでそう言い捨てられた私は、頭の上から降ってくる紙吹雪にハッとした。
それは、幼い頃に私が両親の姿を描いた初めての作品だ。
それがビリビリに破られて、今頭上に降ってきているのだ。

私は心の底にあるものがキンと冷えていくのを感じた。

……この家にいては、私はだめになってしまうだろう……

その予感が現実として体を覆い、震えた。

拳をぎゅっと握り込み、父がその場を去るまで我慢していたが、廊下の角を曲がり父の大きな背が見えなくなった時、一筋の涙が流れた。

今生で見る、親の最後の姿になるかもしれないのだから……

思えばあの時、まだ私は子供だった。

部屋に戻ると、使用人が私の荷物を簡単にまとめてくれていた。
父から命令されたのだろう、顔色が無く唇は震えていた。

「すまないね。面倒をかけて」
「……郁様……」
「私はこの家を出ていくことに決定したようだ。荷物をまとめてくれたんだね」
「……画材などはその……まとめて後ほどお届けできるよう、いたしますから……必ずご連絡をくださいますように……」
「……いや……おそらくその前に、父は私の持ち物を焼くだろう」
「え……」

僕は畳に正座して、静かに涙を落とす年老いた使用人の手を取った。

「子供の頃から、世話になったね、ありがとう」
「郁様!」
「母には、会わずに出ていくよ、あの人は弱い。私が出ていく挨拶などしようものなら熱を出してしまうだろう」

私はいつも困ったような顔で父のご機嫌をうかがう母を心に思い浮かべ、苦笑した。

「とりあえず、おまえのまとめてくれたものは……」
「当座の着替えなどでございますが……家紋の入ったものは……」
「もたせるなと、父が言ったか……」
「……はい……」

悔しそうに顔を歪めて俯く使用人は、一つにきれいにまとめた白髪を揺らした。

「まあ……想定の範囲内だよ」

私はなるべく明るい口調で言い、そしてその荷物を手にした。

「郁様!」

使用人はすがるような視線を私に向けた。

「これ以上長居すると、そなたの立場が悪くなりそうだ、私はもう行くよ……そのうち、母にだけは……文を送ることにするから。そう伝えてくれないか?」
「本当にお会いにならないので?」
「そうだね、合わせる顔がないよ」

私はもう振り向かずに廊下に出るとピシャリと障子を閉め、スタスタと歩いたが、ふと思い立ち、表玄関ではなく勝手口に向かった。

そして、そこにいた厨房の使用人が慌てるのに構わず、外に出た。

「世話になったね」

笑顔で言うと、切りかけた野菜を手に持ったまま呆けたようにこちらを見つめる使用人は、気が抜けたように「はぁ」と言った。

実家を最後に見たのはその時だ。
時折、師匠の使いで貴族の屋敷の立ち並ぶ地区に入ると、角から門が見えたりもしたが、ほとんど何の感情も沸かなかった。
目の端にそれをとらえても、あれが実家であったとも思えなくなっていたのだ。

それほど私にとって、絵さえあれば生きていけると思えていたのだ。

師匠のもとで日夜修行に励み指導を受ける日々で、気がつけばあれから……5年も経っていたことに驚く。

もう一度広い部屋を見渡し、そして微笑んだ。

この部屋はアトリエと呼ばれる作業室だ。
翠紗様が絵をお描きになる場所をと、両陛下がこのアトリエをこしらえた。
隅々まで使いやすく考えられ、また私の意見も聞いてくださったことに驚く。
王子殿下に対する愛情の深さに……胸を打たれたのだ。

そして、その時に、本家のカジャル様が私を翠紗様の助手にとご推薦くださったのが縁で、今ここに私はいる。

あの家とは関係無い立場になったと思っていたのだけど、結局は根白川家に繋がる男子として、この責務を任されることになったということに、人生とはわからないものだと思った。
そして、なんとも皮肉だとも。

結局、父の言うように城に仕えることになったのだから。




「もういらしてたのですか?先生」

涼やかな声がして振り向くと、侍女を従えて薫様が立っていらした。



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