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橘大樹の受難Ⅱ③
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昴の姿が消え、クロームさんは何処に行ったのかも分からない、俺は苛々しながら大崎家のリビングをうろうろと歩き回るのだが、こんな事をしていても事態が動く訳もなく俺は勢い余って昴の母親、由紀子さんにも電話をかけてみた。だが案の定というか何というか、仕事中であろう彼女の電話は当然繋がらず、俺はため息を零す。
「くそぅ、本当にどうすればいいんだよ……」
美鈴のスマホ、シリウスのスマホそれぞれにもかけてみたがやはり繋がらない。何か大きな事件が起こっている気がするのだが、俺だけがまるで蚊帳の外で、どうする事も出来ない俺は「だぁぁぁぁっ!!」と叫んで見悶えた。
家族の危機に何もできないもどかしさ、そして己の無力さに苛立ちが募る、これもそれも俺には魔力というモノがないから何も出来ないのか!? 結局魔物肉は昴に食べられてしまい俺は一口も口にしてはいないのだ、アレを食べていれば俺にも何かが出来ていたのだろうか? もっと本気で昴を止めておけば良かったと、後悔ばかりが募る。
そんな時だ「大樹君っ! 昴君は!?」と、突然目の前に大きな体躯の虎? 豹? が現れて、俺は一瞬腰を抜かす。
「あんた何者だ!?」
「あ、ごめん。僕だよ僕」
そう言って目の前の獣人がしゅるしゅると縮んで目の前に小さな黒猫がぽんっと現れた。
「クローム……さん?」
「そうそう、それで昴君は!?」
「なんか俺のスマホいじってて、消えた」
「消えた!? 何処に!?」
「それは俺の方が聞きたいですよっ! あんた何処行ってたんですか! なんか美鈴の方も大変な事になってるっぽいし、俺どうしようかと……」
「美鈴ちゃん? 北斗君の方でも何かあった!?」
俺は、美鈴から受け取ったメッセージをクロームさんに見せる。クロームさんは眉間に皺を刻んで踵を返す。そして俺が言葉を発する前に目の前から煙のように消えてしまった。
「ちょ……また置いてきぼりか!?」
俺が床を拳で叩くと、今度は俺のスマホの着信音が鳴った。慌ててそのスマホを取り上げて通話をタップすると聞こえてきたのは女性の声。
『もしもし、大樹君? 着信があったけど、何かあったのかい?』
電話の主は昴の母親の由紀子さん。由紀子さんに繋がったからと言って事態が変わるとも思えないのだが、俺は現在起こっている事をかいつまんで彼女に説明すると、彼女は『すぐに帰る』と言ってくれた。何も出来ずに一人でいるより多少でも分かってくれている人が傍にいるだけでも有り難い。俺は由紀子さんの帰宅を待つべく、落ち着こうと深呼吸した。
こんな事になってから毎日のように通っている大崎家、それぞれの個室に何があるかまでは把握していないが、ある程度どこに何があるのかも把握してしまった俺は勝手にコップを取り出して一息つく。今はきっと焦っても仕方がないのだ。というか、自分が焦った所で何の役にも立ちはしない。
俺は自身のスマホを撫でて皆の無事を祈る。そうやって三十分ほどが過ぎた頃だろうか、目の前に突然現れた人影に俺は悲鳴を飲み込んだ。
その人影は大きな獣人とそれに抱えられるように抱かれた小さな半獣人。
「昴!」
俺が声を上げたのと同時にその大きな獣人は先程と同じようにしゅるしゅると縮んで小さな黒猫に変わった。
「それにしても昴君っ! なんでパパに黙ってあんな事したの!? 外の世界は危ないんだよっ! なのに勝手に一人で行くってどういう事!? パパがどれだけ心配したと思ってんの! 本当に本当に心臓止まるかと思ったんだからっっ!!」
「だって、シリウスさんと美鈴に連絡取れなくなったって聞いたから、僕にも何かできるかもと思って……」
「確かに昴君はパパの子で、ものすごく優秀だからやろうと思えばできちゃう子だよ! だけどね、危ない事はしちゃ駄目っ、なんでパパを待てなかったの!?」
「だってパパ、連絡手段何も持ってないじゃん……もしかしたら一刻を争う事態なのかもで、パパの帰りを待ってたら二人がどうなるかって……」
頭ごなしのクロームさんの説教、あ……これまたしても俺、蚊帳の外だわ。
「パパはね、昴君が呼べばいつでもどこでも駆けつけるよっ! それは北斗君も同じ、大丈夫、二人は無事だよ」
「え……?」
「二人とも僕の仲間が救助済み、怪我もしてないから安心して」
え? そうなのか!? そう思った瞬間に俺のスマホが振動と着信音を伝えてくる。俺は慌てて電話を取った。
「もしもし?」
『ちっ、親父は?』
声の主は明らかに不機嫌声で、それが今まで恐らく着信拒否されていたシリウスからの着信であったのだと俺は気付く。
「お前、シリウスか!? 美鈴は!? 美鈴は無事なのか?」
『あぁ、オレもあいつも無傷だよ、えらい目にあったがな……親父に変わってくれ、そこにいるんだろう?』
シリウスの言葉に、俺は親子の説教大会に割って入り、シリウスからの着信を告げる。クロームさんがそんな俺のスマホを両手で受け取り、シリウスの名前を呼び掛けた所で電話の向こうから聞こえてきたのは大音響……
『こんの、ハゲ親父っっ!! どういう事か説明しやがれっ!!』
あぁ、何ていうか俺の気持ちを代弁してくれてありがとう。その通話はスピーカーフォンにしている訳でもないのにシリウスの怒声が直に俺の耳にも伝わってくる。耳をつんざくその怒鳴り声にクロームさんも驚いたのだろう、尻尾が二倍くらいに膨れていて猫の尻尾ってのは驚くと本当に膨らむんだな……と変な所で感心した。
『ふざけんなよっ、あいつ一体何者だ!? あんたは何かを知ってんだろうっ!!』
「ほ・北斗君、落ち着いて。そんなに叫ばれたら僕の耳の鼓膜が破れちゃうよ」
『これが落ち着いていられるかぁっ! こちとら貞操の危機で、危うく変な触手に孕まされるところだったんだぞっっ! アレは一体何なんだっ、大賢者ヨセフってのは人間なんじゃなかったのか!?』
大賢者ヨセフに触手? 全く意味が分からない。しかも触手に孕まされるってどこのエロゲーの話だよ?
「あぁ、アレね、別に孕ませようとした訳じゃないと思うよ。そもそもヨセフには生殖能力なんかないんだから」
『あぁん!? そんじゃあアレは一体何だったんだ! 身体中撫で回されて胸糞悪いし気分が悪い、思い出しただけでも吐き気がするわ!』
シリウスの怒声は止まらない。そして話も全く見えてこない、誰か俺に詳しい説明をだな……そう思って昴を見やるとどうも昴の顔色が良くない。
「おい、昴……?」
焦点が定まらない瞳でゆらりゆらりとしていた昴がおもむろにクロームさんの尻尾を引っ張り噛り付いた。クロームさんはそれに驚いたのだろう、盛大に悲鳴をあげて、体毛を二倍に膨らませている。猫ってのは驚くと身体も膨らむんだ……
「パパ、僕、お腹が空いた……」
「昴君!? あぁ、そうだよねっ、あれだけ魔力使ったら足りなくなるよね、だけど駄目、パパは食べても美味しくないよっ!」
ん? これはアレか? この間の魔力不足ってやつか? 昴はクロームさんの尻尾を齧り続け放そうとしない。
「昴君お座りっ! 今、魔力あげるから尻尾齧らないでっ!」
「でも……」
「でもじゃない! あぁもう、本当に困った子だよ」
そう言ってクロームさんはおもむろに片手を昴の口の中に突っ込んだ。口いっぱいに猫の手を突っ込まれ、恍惚とそれを咥える昴の絵面がヤバいのだが、俺は一体何を見させられているのだろう。こくりこくりと何かを嚥下するように上下する白い喉ぼとけ、いかん、これはけしからん。あらぬ妄想が捗って仕方がない。
しばらくしてクロームさんが昴の口から片腕を抜き出し零れ落ちた唾液に、これもう完全にAVだろ? と俺はいたたまれずに瞳を逸らした。そして瞳を逸らした先、そこには俺のスマホが転がっていて、俺がそれを拾い上げると『何があった!』とシリウスに怒鳴りつけられた。
「んん? どうやら昴が魔力切れを起こしたみたいで、クロームさんが何かやってる」
『魔力切れ? ったく、こっちはそれどころじゃねぇって言うのに……』
舌打ちを打つようなシリウスの言葉に苦笑する。そっちもそっちで大変だったみたいだもんな。
「ちょっと待って、今クロームさんに代わるから……って、おい、昴、何処に行く?」
クロームさんと喋っていた昴がふらりと立ち上がり部屋を出て行こうとするのを、俺が思わず腕を取って引き止めたら「離してっ!」と思い切り手を振り払われた。
昴はクロームさんの魔力を貰って落ち着いたように見えたのに、何故だか敵でも見るような瞳で睨まれて狼狽える。俺、何か悪いことしたか?
「昴、一体どうしたんだ?」
「早くしないと産まれちゃう……」
「……え?」
産まれちゃうって何が? え? 子供!?
「!! 昴君、もしかしてもう産気づいてるの!? ちょっと早すぎない? さすがに早すぎでしょう!? いや、でもちょっと待って、もしかして最初の時にもう子供が出来てたとしたら……」
「パパ……僕、お腹が空いた」
「今はもう無理だよっ! これ以上あげたら僕の身体が維持できない! 待っててすぐに調達してくる!」
クロームさんの姿が現れた時と同様の唐突さでかき消えた。昴はふらりふらりとリビングを出て自室へと向かって行く。引き留めようと思うのだが、先程手を振り払われた事を思うとそれをするのは憚られて、俺は昴の後をついて部屋の中を覗き込んだ。
「昴、大丈夫か……?」
「近寄らないでっ!」
ベッドの上に倒れ込んでいた昴が少しだけ身を起こして、背中を丸めてこちらを威嚇する。その瞳は野生の獣のそれで、俺はそれ以上彼に近付けず、だが、昴の体調が悪そうなのは一目瞭然で放っておく事も出来なくて、扉の前で立ち往生だ。
呼気が荒くなり身を丸くするようにしてベッドの上に蹲った昴に、もう一度おずおずと声をかけたら、またしても近寄るなと怒鳴られた。今はそっとしておいた方がいいのだろうと、気が気ではなかったのだが、俺はそっと扉を閉める。その閉ざされた扉に耳を付けると、中からは喘ぎのような吐息ばかりが聞こえてきてもどかしい。
早く誰か帰ってきてくれよ! 俺、どうしていいか分かんねぇよっ!!
『おおい! そっちで何があった?! 誰かいるなら返事しろ!』
片手に持っていたスマホのスピーカーから声がする。
「シリウス、なんかもう、俺どうすればいいだよ!!」
『何がだよっ! こっちはそっちで何が起こってんのかさっぱり分かんねぇってのに、何をどうすればいいかなんて分かるわけねぇだろう!』
「昴がたぶん産気づいた、もうじき産まれる」
『はぁ!?』
「これどうすればいいんだよ!」
『親父は?』
「なんか魔力調達してくるってどっか消えた」
スマホの向こう側でシリウスの大きなため息が聞こえる。
『とりあえず今のうちに湯を沸かせ、熱湯じゃねぇぞ、人肌でいい。あとは、産着……なんてねぇんだろうから、とりあえず綺麗な布かタオルでも用意しろ!』
「わ、分かった! 他には!?」
『状況次第だろ! お前はとりあえず落ち着け!』
「これが落ち着いていられるかぁぁぁ!!」
俺の絶叫にシリウスがまたしても大きなため息を零す。
『子の父親でもない、お前が焦ってどうなるもんでもないだろう?』
「それはそうだけどなぁ」
『ったく、あの駄犬は子だけ作って父親らしい事は何もしてねぇのにご苦労なこった』
あ……そういえば、昴の腹の子の父親というのは元々シリウスの婚約者なんだった。シリウスは昴の妊娠が気にくわないのではないかと美鈴は言っていたが、なんというか意外と普通……だな? いや、もしかして平静を装っているだけなのか?
『安心しろ、獣人の子供は生まれちまえば後はほっといても勝手に育つ』
「いや、そんな犬猫の仔じゃないんだから……」
ん? そういえば「獣」人の子なのだから犬猫と同じなのか? だけど半分動物でも半分は人な訳で……んん? 獣人の生態なんて俺がいくら考えた所で分かるわけないか。
そんな事を思っていたら、玄関でがちゃがちゃと鍵を回す音に、誰かが来たのだと、俺は察する。クロームさんは単独行動で玄関を使う事はないだろう、だとしたら残るはあと一人……
「大樹君、その後何か変わった事は!?」
ばたばたとリビングに駆け込んできた由紀子さんに俺は心底ほっとして、彼女に現在の状況を説明する。
「それで昴は? 自分の部屋?」
「はい、俺はどうやら敵認定で威嚇されて近寄れません」
「あの子の本能の部分がそうさせるんだろうね、番以外の雄が近くにいたら我が子を殺されるとでも思っているんだろう」
あぁ、なんか野生動物の世界ではそういう事もあるって聞いた事があるな。自分以外の種は全て排除するというのは野生動物の雄の本能なのだろう。そして昴はそれを警戒しているという事か。
「とりあえず湯を沸かせって言われたのでそれと、タオルも勝手に風呂場から引っ張り出してきちゃいましたけど……」
「ありがとう、助かる。ところでクロームは?」
「魔力が足りないとかで回収に」
由紀子さんが「使えん奴だ」と、ちっと舌打ちを打った。
「私はとりあえず昴の様子を見てくる、大樹君はこれに湯を張っておいて」
そう言って由紀子さんは俺に少し大きなたらいを手渡しタオルを抱えてぱたぱたと昴の部屋へと駆けて行った。俺は湯を沸かすのに専念しようと思ったのだが、昴の部屋の扉が開いたと同時に苦し気な昴のうめき声が聞こえてきて、俺はやはり気が気ではない。
世の父親達はこんな時に一体どうやって待っているんだろうな? 自分の妻が産みの苦しみに悶えている時に昴の相手は一体何をしているのだろう?
時間だけが刻々と過ぎていく、自分に出来る事が何もないのはもどかしい。部屋の扉が開け放しになっているのか、昴の呻き声と、それに応える由紀子さんの声が聞こえてくる。
まだか? まだ生まれないのか? そういえば自分はどのくらいの時間をかけて子供が生まれてくるのかも知りやしない。
いつの間にかシリウスとの通話は切れていた。こちらがそれ所ではない事を向こうも察してくれたのだろう。スマホで出産にかかる時間を調べてみると大体数時間から、場合によっては数十時間かかることもあるらしい。命を生み出すってのは本当に大変な事なんだな……
遠くからなら大丈夫だろうか? と、そろりと部屋の扉を覗き込むと、いっそう大きな昴のうめき声が聞こえて、俺はびくっと身を強張らせた。
「よし、そのまま……いいぞ、上手だ」
「も、無理っ、苦し……助け……っつあぁ」
「お前がこの子を産むと言ったんだ、最後まで頑張れ。赤ん坊も頑張ってる!」
「んぅ……うう」
「あと少し……もう一息」
由紀子さんが励ます声と昴のうめき声、由紀子さんの背でその様子は見えないのだが、子供の誕生は近いのだろう。
「っああぁぁぁぁ!」
絶叫のような昴の叫びと「よしっ!」と由紀子さんが何かを触っている様子を固唾を飲んで見守る、そして次の瞬間小さな小さな鳴き声が「みぁぁぁ」と俺の耳に届いたのだ。
ヤバい、何だこれ、俺ものすごく泣きそうなんだけど!
「大樹君、お湯!」
「っあ、はいっ!」
俺は慌てて台所に取って返し湯の入ったたらいを運ぶ、人肌には気を付けたつもりだが大丈夫だろうか?
部屋に入るのは憚られて、俺は扉の外からずいっと中へとたらいを押し込んだ。ベッドの上で昴はぐったりと荒い息を吐いている、そして由紀子さんの両手の掌の上にはそれはもう小さな小さな獣の子が乗っていた。あまりの小ささにこれが昴の産んだ子か? と不思議なモノでも見るように眺めていたら、由紀子さんが険しい表情で「呼気が浅い」とぽつりと呟いた。
「鳴け、もっとちゃんと息をしろ!」
由紀子さんが小さな獣の身体を撫でる、だが最初の一声から鳴き声が聞こえてこない。
「くっ、おい、頑張れ。頼むから……」
「……赤ちゃん……」
昴が微かな声をあげて赤ん坊を見やった。
「僕の……赤ちゃん」
「昴……」
由紀子さんの掌の小さな獣は動かない。昴が赤ん坊に手を伸ばし、由紀子さんがそんな昴の胸の上に小さな赤子を乗せると、昴は赤子の毛並みを確認するようにその身体を撫でた。
「ごめんね、やっぱり足りなかったみたい……でも、あげる。全部あげるから頑張って……」
赤子を撫でる昴の手がほんのり明るく発光して虹色の光が赤子の身体を包み込む。すると不思議な事にその光の中で獣の子の身体は人の赤ん坊の姿に変容し、小さく「ほにゃあ」と泣き出したのだ。
「これは、なんで……?」
由紀子さんにもその現象がどういう事なのか分からなかったのだろう、戸惑いながら不思議そうに首を傾げた。
「いい子、いい子だねぇ……可愛い……子」
昴の手がぱたりと落ちた。その顔色は蒼白でまるで死人のように血の気は失せている。
「昴!? おい、昴っ!!」
慌てたように由紀子さんが昴の脈を取り呼吸の確認をすると更に顔を青褪めさせて、昴の胸の上の子供をこちらへぽいっと渡して寄こした。
「ちょ……! え!?」
「産湯、あとはタオルで包んどいて!」
そんな事急に言われてもっ!!
けれど、由紀子さんはそれ所ではない様子で昴の胸を押し人工呼吸を始めてしまったので、今は一時を争うのだと俺にも切迫した状況がすぐに理解できた。
「救急車!」
「駄目だ! 昴を通常の病院にかからせる事は出来ない!」
ああ、そうか……昴の姿は半獣人、人間ではない昴を病院に連れて行く事は昴を衆人の目に晒すという事だ、確かにそんな事をすれば昴の今後の人生は異形の化け物として生きていく事しかできなくなってしまう。
俺の手の中には生まれたての小さな赤ん坊、先程までの事を思うと元気に泣いているのに、その母親が危篤状態だなんてあんまりだろう?
「昴、親より先に逝く事ほど親不孝はないんだからなっ!」
人工呼吸を繰り返す由紀子さんの瞳に涙が浮かんでいる、けれど昴はぴくりとも動かない。
俺はとりあえず言われた通りに赤ん坊の血を洗い流してタオルで包み、やはり見守る事しか出来ないのがどうにもやるせない。
死ぬなよ、昴! お前が死んだらこの子はどうなる!? 死ぬな、死ぬなと涙目で祈っていたら、目の前にしゅるりと何者かが現れて「遅くなった!」と大きな声を上げた。
「クロームっ、この役立たずっっ!!」
目の前に現れたのは大きな白い獣人だ。由紀子さんがその姿を見やって罵りの声を上げた。
「ごめん! でもこれだけあれば……」
「もう遅い……」
由紀子さんが項垂れた。やはりぴくりとも動かない昴の顔は蒼白のまま、クロームさんが硬直した。だが、その後すぐに「まだだ……」と呟き何やら詠唱を唱え始める。
先程昴が赤ん坊にやったのと同じように大きな獣人の掌が輝き始め、その光は昴の身体を包み込む。
「昴君は死なないっ! 僕がっ、死なせない!!」
昴を包み込む光が先程より発光を強めた。長い静寂、俺と由紀子さんはベッドに横たわる昴を見つめる。微かに昴の頬に赤味がさした。
「っん……」
昴の口から吐息のように声が零れた。
「昴っ!」
「母……さん、赤ちゃん……は?」
「元気だよ、ちゃんと生きてる」
「そう……良かったぁ……」
そう言って笑った昴は瞳を閉じて、寝息を立て始めた。
「由紀子さん、クロームさん!」
「あぁ、もう大丈夫だ」
クロームさんが大きく息を吐き「間に合って良かった……」とぽつりと零すと、涙を拭った由紀子さんが「全然良くない! そもそもお前という奴はこの大事な時に一体どこで何をしていたんだ!!」とクロームさんを怒鳴りつけた。
「何って魔力の調達だよ。今の昴君は完全に魔力切れで命を削って魔力変換している状態だったんだ。言っただろ? 生まれたての赤ん坊には魔力の保護が必要なんだよ、今その子は昴君の魔力で保護されてる、正直そこまで昴君に魔力が残ってると思わなかったから、逆にびっくりだよ。でも、赤ん坊も昴君も無事で本当に良かったよ」
規則的な寝息が聞こえる、完全に昴の危機は脱したのだろう。本当に出産ってのは命懸けだな、世の母親には頭が下がるよ。
俺はタオルに包んでみたものの、どうしていいか分からなかった小さな赤ん坊を由紀子さんに手渡す。なんかもう、小さすぎて壊しそうで怖かったんだよ……その赤ん坊は普通の人の子のサイズではない、まるで人形のように小さいその赤ん坊が正常なのかそうでないのか、それすらも俺には分からないのだ。
「あぁ……小さいな、懐かしい」
由紀子さんが赤ん坊の頬を指でつつく。おばあちゃんになりたくないと言い切っていた由紀子さんが愛おしそうに赤ん坊を見ている。子供を堕ろす事を説得していたクロームさんですら、その赤ん坊を覗き込みちょっと緩んだ顔をしているのだから、赤ん坊の魅力ってのは本当に抗いがたいものがある。
こうして、昴の出産はドタバタの中で命懸けで行われた訳なのだが、この後始まった子育てもそれはそれで大変なこと続きだったりしたんだよな。なにせ向こうの世界の獣人の子の子育ては何をおいても魔力が必要で、しかもこの赤ん坊は小さな見た目に反して大食漢だったものだから授乳と共に昴の魔力を奪っていく。この世界に存在する為には赤ん坊を魔力で包み込む事が必要で、クロームさんも頑張っているのだが、頑張っても追い付かない状況が続いて数日、大崎家の面々はそれはもうへとへとにへばっていた。
そんな時にシリウス達から届いた報告は昴の番相手が捕縛されたという報告で、その後無事に助け出されはしたのだが、クロームさんはそんな番相手と昴がコンタクトを取る事に難色を示した。
クロームさん曰く「澪ちゃんは可愛いけど、あいつは別! 僕は昴君を守り切れないような奴に昴君をお嫁に出す気はないよ!」と聞く耳を持たなかったのだ。
そして昴がクロームさんに隠れて赤ん坊の父親にコンタクトを取ろうとしたのが今日の事。この一連の出来事で昴の番相手がその赤ん坊を「誰の子だ!」と言い放ったのに、俺がキレた理由も分かってもらえたと思う。
正直俺はこの昴の番相手のシロウとかいう狼の獣人が大嫌いだ。
「くそぅ、本当にどうすればいいんだよ……」
美鈴のスマホ、シリウスのスマホそれぞれにもかけてみたがやはり繋がらない。何か大きな事件が起こっている気がするのだが、俺だけがまるで蚊帳の外で、どうする事も出来ない俺は「だぁぁぁぁっ!!」と叫んで見悶えた。
家族の危機に何もできないもどかしさ、そして己の無力さに苛立ちが募る、これもそれも俺には魔力というモノがないから何も出来ないのか!? 結局魔物肉は昴に食べられてしまい俺は一口も口にしてはいないのだ、アレを食べていれば俺にも何かが出来ていたのだろうか? もっと本気で昴を止めておけば良かったと、後悔ばかりが募る。
そんな時だ「大樹君っ! 昴君は!?」と、突然目の前に大きな体躯の虎? 豹? が現れて、俺は一瞬腰を抜かす。
「あんた何者だ!?」
「あ、ごめん。僕だよ僕」
そう言って目の前の獣人がしゅるしゅると縮んで目の前に小さな黒猫がぽんっと現れた。
「クローム……さん?」
「そうそう、それで昴君は!?」
「なんか俺のスマホいじってて、消えた」
「消えた!? 何処に!?」
「それは俺の方が聞きたいですよっ! あんた何処行ってたんですか! なんか美鈴の方も大変な事になってるっぽいし、俺どうしようかと……」
「美鈴ちゃん? 北斗君の方でも何かあった!?」
俺は、美鈴から受け取ったメッセージをクロームさんに見せる。クロームさんは眉間に皺を刻んで踵を返す。そして俺が言葉を発する前に目の前から煙のように消えてしまった。
「ちょ……また置いてきぼりか!?」
俺が床を拳で叩くと、今度は俺のスマホの着信音が鳴った。慌ててそのスマホを取り上げて通話をタップすると聞こえてきたのは女性の声。
『もしもし、大樹君? 着信があったけど、何かあったのかい?』
電話の主は昴の母親の由紀子さん。由紀子さんに繋がったからと言って事態が変わるとも思えないのだが、俺は現在起こっている事をかいつまんで彼女に説明すると、彼女は『すぐに帰る』と言ってくれた。何も出来ずに一人でいるより多少でも分かってくれている人が傍にいるだけでも有り難い。俺は由紀子さんの帰宅を待つべく、落ち着こうと深呼吸した。
こんな事になってから毎日のように通っている大崎家、それぞれの個室に何があるかまでは把握していないが、ある程度どこに何があるのかも把握してしまった俺は勝手にコップを取り出して一息つく。今はきっと焦っても仕方がないのだ。というか、自分が焦った所で何の役にも立ちはしない。
俺は自身のスマホを撫でて皆の無事を祈る。そうやって三十分ほどが過ぎた頃だろうか、目の前に突然現れた人影に俺は悲鳴を飲み込んだ。
その人影は大きな獣人とそれに抱えられるように抱かれた小さな半獣人。
「昴!」
俺が声を上げたのと同時にその大きな獣人は先程と同じようにしゅるしゅると縮んで小さな黒猫に変わった。
「それにしても昴君っ! なんでパパに黙ってあんな事したの!? 外の世界は危ないんだよっ! なのに勝手に一人で行くってどういう事!? パパがどれだけ心配したと思ってんの! 本当に本当に心臓止まるかと思ったんだからっっ!!」
「だって、シリウスさんと美鈴に連絡取れなくなったって聞いたから、僕にも何かできるかもと思って……」
「確かに昴君はパパの子で、ものすごく優秀だからやろうと思えばできちゃう子だよ! だけどね、危ない事はしちゃ駄目っ、なんでパパを待てなかったの!?」
「だってパパ、連絡手段何も持ってないじゃん……もしかしたら一刻を争う事態なのかもで、パパの帰りを待ってたら二人がどうなるかって……」
頭ごなしのクロームさんの説教、あ……これまたしても俺、蚊帳の外だわ。
「パパはね、昴君が呼べばいつでもどこでも駆けつけるよっ! それは北斗君も同じ、大丈夫、二人は無事だよ」
「え……?」
「二人とも僕の仲間が救助済み、怪我もしてないから安心して」
え? そうなのか!? そう思った瞬間に俺のスマホが振動と着信音を伝えてくる。俺は慌てて電話を取った。
「もしもし?」
『ちっ、親父は?』
声の主は明らかに不機嫌声で、それが今まで恐らく着信拒否されていたシリウスからの着信であったのだと俺は気付く。
「お前、シリウスか!? 美鈴は!? 美鈴は無事なのか?」
『あぁ、オレもあいつも無傷だよ、えらい目にあったがな……親父に変わってくれ、そこにいるんだろう?』
シリウスの言葉に、俺は親子の説教大会に割って入り、シリウスからの着信を告げる。クロームさんがそんな俺のスマホを両手で受け取り、シリウスの名前を呼び掛けた所で電話の向こうから聞こえてきたのは大音響……
『こんの、ハゲ親父っっ!! どういう事か説明しやがれっ!!』
あぁ、何ていうか俺の気持ちを代弁してくれてありがとう。その通話はスピーカーフォンにしている訳でもないのにシリウスの怒声が直に俺の耳にも伝わってくる。耳をつんざくその怒鳴り声にクロームさんも驚いたのだろう、尻尾が二倍くらいに膨れていて猫の尻尾ってのは驚くと本当に膨らむんだな……と変な所で感心した。
『ふざけんなよっ、あいつ一体何者だ!? あんたは何かを知ってんだろうっ!!』
「ほ・北斗君、落ち着いて。そんなに叫ばれたら僕の耳の鼓膜が破れちゃうよ」
『これが落ち着いていられるかぁっ! こちとら貞操の危機で、危うく変な触手に孕まされるところだったんだぞっっ! アレは一体何なんだっ、大賢者ヨセフってのは人間なんじゃなかったのか!?』
大賢者ヨセフに触手? 全く意味が分からない。しかも触手に孕まされるってどこのエロゲーの話だよ?
「あぁ、アレね、別に孕ませようとした訳じゃないと思うよ。そもそもヨセフには生殖能力なんかないんだから」
『あぁん!? そんじゃあアレは一体何だったんだ! 身体中撫で回されて胸糞悪いし気分が悪い、思い出しただけでも吐き気がするわ!』
シリウスの怒声は止まらない。そして話も全く見えてこない、誰か俺に詳しい説明をだな……そう思って昴を見やるとどうも昴の顔色が良くない。
「おい、昴……?」
焦点が定まらない瞳でゆらりゆらりとしていた昴がおもむろにクロームさんの尻尾を引っ張り噛り付いた。クロームさんはそれに驚いたのだろう、盛大に悲鳴をあげて、体毛を二倍に膨らませている。猫ってのは驚くと身体も膨らむんだ……
「パパ、僕、お腹が空いた……」
「昴君!? あぁ、そうだよねっ、あれだけ魔力使ったら足りなくなるよね、だけど駄目、パパは食べても美味しくないよっ!」
ん? これはアレか? この間の魔力不足ってやつか? 昴はクロームさんの尻尾を齧り続け放そうとしない。
「昴君お座りっ! 今、魔力あげるから尻尾齧らないでっ!」
「でも……」
「でもじゃない! あぁもう、本当に困った子だよ」
そう言ってクロームさんはおもむろに片手を昴の口の中に突っ込んだ。口いっぱいに猫の手を突っ込まれ、恍惚とそれを咥える昴の絵面がヤバいのだが、俺は一体何を見させられているのだろう。こくりこくりと何かを嚥下するように上下する白い喉ぼとけ、いかん、これはけしからん。あらぬ妄想が捗って仕方がない。
しばらくしてクロームさんが昴の口から片腕を抜き出し零れ落ちた唾液に、これもう完全にAVだろ? と俺はいたたまれずに瞳を逸らした。そして瞳を逸らした先、そこには俺のスマホが転がっていて、俺がそれを拾い上げると『何があった!』とシリウスに怒鳴りつけられた。
「んん? どうやら昴が魔力切れを起こしたみたいで、クロームさんが何かやってる」
『魔力切れ? ったく、こっちはそれどころじゃねぇって言うのに……』
舌打ちを打つようなシリウスの言葉に苦笑する。そっちもそっちで大変だったみたいだもんな。
「ちょっと待って、今クロームさんに代わるから……って、おい、昴、何処に行く?」
クロームさんと喋っていた昴がふらりと立ち上がり部屋を出て行こうとするのを、俺が思わず腕を取って引き止めたら「離してっ!」と思い切り手を振り払われた。
昴はクロームさんの魔力を貰って落ち着いたように見えたのに、何故だか敵でも見るような瞳で睨まれて狼狽える。俺、何か悪いことしたか?
「昴、一体どうしたんだ?」
「早くしないと産まれちゃう……」
「……え?」
産まれちゃうって何が? え? 子供!?
「!! 昴君、もしかしてもう産気づいてるの!? ちょっと早すぎない? さすがに早すぎでしょう!? いや、でもちょっと待って、もしかして最初の時にもう子供が出来てたとしたら……」
「パパ……僕、お腹が空いた」
「今はもう無理だよっ! これ以上あげたら僕の身体が維持できない! 待っててすぐに調達してくる!」
クロームさんの姿が現れた時と同様の唐突さでかき消えた。昴はふらりふらりとリビングを出て自室へと向かって行く。引き留めようと思うのだが、先程手を振り払われた事を思うとそれをするのは憚られて、俺は昴の後をついて部屋の中を覗き込んだ。
「昴、大丈夫か……?」
「近寄らないでっ!」
ベッドの上に倒れ込んでいた昴が少しだけ身を起こして、背中を丸めてこちらを威嚇する。その瞳は野生の獣のそれで、俺はそれ以上彼に近付けず、だが、昴の体調が悪そうなのは一目瞭然で放っておく事も出来なくて、扉の前で立ち往生だ。
呼気が荒くなり身を丸くするようにしてベッドの上に蹲った昴に、もう一度おずおずと声をかけたら、またしても近寄るなと怒鳴られた。今はそっとしておいた方がいいのだろうと、気が気ではなかったのだが、俺はそっと扉を閉める。その閉ざされた扉に耳を付けると、中からは喘ぎのような吐息ばかりが聞こえてきてもどかしい。
早く誰か帰ってきてくれよ! 俺、どうしていいか分かんねぇよっ!!
『おおい! そっちで何があった?! 誰かいるなら返事しろ!』
片手に持っていたスマホのスピーカーから声がする。
「シリウス、なんかもう、俺どうすればいいだよ!!」
『何がだよっ! こっちはそっちで何が起こってんのかさっぱり分かんねぇってのに、何をどうすればいいかなんて分かるわけねぇだろう!』
「昴がたぶん産気づいた、もうじき産まれる」
『はぁ!?』
「これどうすればいいんだよ!」
『親父は?』
「なんか魔力調達してくるってどっか消えた」
スマホの向こう側でシリウスの大きなため息が聞こえる。
『とりあえず今のうちに湯を沸かせ、熱湯じゃねぇぞ、人肌でいい。あとは、産着……なんてねぇんだろうから、とりあえず綺麗な布かタオルでも用意しろ!』
「わ、分かった! 他には!?」
『状況次第だろ! お前はとりあえず落ち着け!』
「これが落ち着いていられるかぁぁぁ!!」
俺の絶叫にシリウスがまたしても大きなため息を零す。
『子の父親でもない、お前が焦ってどうなるもんでもないだろう?』
「それはそうだけどなぁ」
『ったく、あの駄犬は子だけ作って父親らしい事は何もしてねぇのにご苦労なこった』
あ……そういえば、昴の腹の子の父親というのは元々シリウスの婚約者なんだった。シリウスは昴の妊娠が気にくわないのではないかと美鈴は言っていたが、なんというか意外と普通……だな? いや、もしかして平静を装っているだけなのか?
『安心しろ、獣人の子供は生まれちまえば後はほっといても勝手に育つ』
「いや、そんな犬猫の仔じゃないんだから……」
ん? そういえば「獣」人の子なのだから犬猫と同じなのか? だけど半分動物でも半分は人な訳で……んん? 獣人の生態なんて俺がいくら考えた所で分かるわけないか。
そんな事を思っていたら、玄関でがちゃがちゃと鍵を回す音に、誰かが来たのだと、俺は察する。クロームさんは単独行動で玄関を使う事はないだろう、だとしたら残るはあと一人……
「大樹君、その後何か変わった事は!?」
ばたばたとリビングに駆け込んできた由紀子さんに俺は心底ほっとして、彼女に現在の状況を説明する。
「それで昴は? 自分の部屋?」
「はい、俺はどうやら敵認定で威嚇されて近寄れません」
「あの子の本能の部分がそうさせるんだろうね、番以外の雄が近くにいたら我が子を殺されるとでも思っているんだろう」
あぁ、なんか野生動物の世界ではそういう事もあるって聞いた事があるな。自分以外の種は全て排除するというのは野生動物の雄の本能なのだろう。そして昴はそれを警戒しているという事か。
「とりあえず湯を沸かせって言われたのでそれと、タオルも勝手に風呂場から引っ張り出してきちゃいましたけど……」
「ありがとう、助かる。ところでクロームは?」
「魔力が足りないとかで回収に」
由紀子さんが「使えん奴だ」と、ちっと舌打ちを打った。
「私はとりあえず昴の様子を見てくる、大樹君はこれに湯を張っておいて」
そう言って由紀子さんは俺に少し大きなたらいを手渡しタオルを抱えてぱたぱたと昴の部屋へと駆けて行った。俺は湯を沸かすのに専念しようと思ったのだが、昴の部屋の扉が開いたと同時に苦し気な昴のうめき声が聞こえてきて、俺はやはり気が気ではない。
世の父親達はこんな時に一体どうやって待っているんだろうな? 自分の妻が産みの苦しみに悶えている時に昴の相手は一体何をしているのだろう?
時間だけが刻々と過ぎていく、自分に出来る事が何もないのはもどかしい。部屋の扉が開け放しになっているのか、昴の呻き声と、それに応える由紀子さんの声が聞こえてくる。
まだか? まだ生まれないのか? そういえば自分はどのくらいの時間をかけて子供が生まれてくるのかも知りやしない。
いつの間にかシリウスとの通話は切れていた。こちらがそれ所ではない事を向こうも察してくれたのだろう。スマホで出産にかかる時間を調べてみると大体数時間から、場合によっては数十時間かかることもあるらしい。命を生み出すってのは本当に大変な事なんだな……
遠くからなら大丈夫だろうか? と、そろりと部屋の扉を覗き込むと、いっそう大きな昴のうめき声が聞こえて、俺はびくっと身を強張らせた。
「よし、そのまま……いいぞ、上手だ」
「も、無理っ、苦し……助け……っつあぁ」
「お前がこの子を産むと言ったんだ、最後まで頑張れ。赤ん坊も頑張ってる!」
「んぅ……うう」
「あと少し……もう一息」
由紀子さんが励ます声と昴のうめき声、由紀子さんの背でその様子は見えないのだが、子供の誕生は近いのだろう。
「っああぁぁぁぁ!」
絶叫のような昴の叫びと「よしっ!」と由紀子さんが何かを触っている様子を固唾を飲んで見守る、そして次の瞬間小さな小さな鳴き声が「みぁぁぁ」と俺の耳に届いたのだ。
ヤバい、何だこれ、俺ものすごく泣きそうなんだけど!
「大樹君、お湯!」
「っあ、はいっ!」
俺は慌てて台所に取って返し湯の入ったたらいを運ぶ、人肌には気を付けたつもりだが大丈夫だろうか?
部屋に入るのは憚られて、俺は扉の外からずいっと中へとたらいを押し込んだ。ベッドの上で昴はぐったりと荒い息を吐いている、そして由紀子さんの両手の掌の上にはそれはもう小さな小さな獣の子が乗っていた。あまりの小ささにこれが昴の産んだ子か? と不思議なモノでも見るように眺めていたら、由紀子さんが険しい表情で「呼気が浅い」とぽつりと呟いた。
「鳴け、もっとちゃんと息をしろ!」
由紀子さんが小さな獣の身体を撫でる、だが最初の一声から鳴き声が聞こえてこない。
「くっ、おい、頑張れ。頼むから……」
「……赤ちゃん……」
昴が微かな声をあげて赤ん坊を見やった。
「僕の……赤ちゃん」
「昴……」
由紀子さんの掌の小さな獣は動かない。昴が赤ん坊に手を伸ばし、由紀子さんがそんな昴の胸の上に小さな赤子を乗せると、昴は赤子の毛並みを確認するようにその身体を撫でた。
「ごめんね、やっぱり足りなかったみたい……でも、あげる。全部あげるから頑張って……」
赤子を撫でる昴の手がほんのり明るく発光して虹色の光が赤子の身体を包み込む。すると不思議な事にその光の中で獣の子の身体は人の赤ん坊の姿に変容し、小さく「ほにゃあ」と泣き出したのだ。
「これは、なんで……?」
由紀子さんにもその現象がどういう事なのか分からなかったのだろう、戸惑いながら不思議そうに首を傾げた。
「いい子、いい子だねぇ……可愛い……子」
昴の手がぱたりと落ちた。その顔色は蒼白でまるで死人のように血の気は失せている。
「昴!? おい、昴っ!!」
慌てたように由紀子さんが昴の脈を取り呼吸の確認をすると更に顔を青褪めさせて、昴の胸の上の子供をこちらへぽいっと渡して寄こした。
「ちょ……! え!?」
「産湯、あとはタオルで包んどいて!」
そんな事急に言われてもっ!!
けれど、由紀子さんはそれ所ではない様子で昴の胸を押し人工呼吸を始めてしまったので、今は一時を争うのだと俺にも切迫した状況がすぐに理解できた。
「救急車!」
「駄目だ! 昴を通常の病院にかからせる事は出来ない!」
ああ、そうか……昴の姿は半獣人、人間ではない昴を病院に連れて行く事は昴を衆人の目に晒すという事だ、確かにそんな事をすれば昴の今後の人生は異形の化け物として生きていく事しかできなくなってしまう。
俺の手の中には生まれたての小さな赤ん坊、先程までの事を思うと元気に泣いているのに、その母親が危篤状態だなんてあんまりだろう?
「昴、親より先に逝く事ほど親不孝はないんだからなっ!」
人工呼吸を繰り返す由紀子さんの瞳に涙が浮かんでいる、けれど昴はぴくりとも動かない。
俺はとりあえず言われた通りに赤ん坊の血を洗い流してタオルで包み、やはり見守る事しか出来ないのがどうにもやるせない。
死ぬなよ、昴! お前が死んだらこの子はどうなる!? 死ぬな、死ぬなと涙目で祈っていたら、目の前にしゅるりと何者かが現れて「遅くなった!」と大きな声を上げた。
「クロームっ、この役立たずっっ!!」
目の前に現れたのは大きな白い獣人だ。由紀子さんがその姿を見やって罵りの声を上げた。
「ごめん! でもこれだけあれば……」
「もう遅い……」
由紀子さんが項垂れた。やはりぴくりとも動かない昴の顔は蒼白のまま、クロームさんが硬直した。だが、その後すぐに「まだだ……」と呟き何やら詠唱を唱え始める。
先程昴が赤ん坊にやったのと同じように大きな獣人の掌が輝き始め、その光は昴の身体を包み込む。
「昴君は死なないっ! 僕がっ、死なせない!!」
昴を包み込む光が先程より発光を強めた。長い静寂、俺と由紀子さんはベッドに横たわる昴を見つめる。微かに昴の頬に赤味がさした。
「っん……」
昴の口から吐息のように声が零れた。
「昴っ!」
「母……さん、赤ちゃん……は?」
「元気だよ、ちゃんと生きてる」
「そう……良かったぁ……」
そう言って笑った昴は瞳を閉じて、寝息を立て始めた。
「由紀子さん、クロームさん!」
「あぁ、もう大丈夫だ」
クロームさんが大きく息を吐き「間に合って良かった……」とぽつりと零すと、涙を拭った由紀子さんが「全然良くない! そもそもお前という奴はこの大事な時に一体どこで何をしていたんだ!!」とクロームさんを怒鳴りつけた。
「何って魔力の調達だよ。今の昴君は完全に魔力切れで命を削って魔力変換している状態だったんだ。言っただろ? 生まれたての赤ん坊には魔力の保護が必要なんだよ、今その子は昴君の魔力で保護されてる、正直そこまで昴君に魔力が残ってると思わなかったから、逆にびっくりだよ。でも、赤ん坊も昴君も無事で本当に良かったよ」
規則的な寝息が聞こえる、完全に昴の危機は脱したのだろう。本当に出産ってのは命懸けだな、世の母親には頭が下がるよ。
俺はタオルに包んでみたものの、どうしていいか分からなかった小さな赤ん坊を由紀子さんに手渡す。なんかもう、小さすぎて壊しそうで怖かったんだよ……その赤ん坊は普通の人の子のサイズではない、まるで人形のように小さいその赤ん坊が正常なのかそうでないのか、それすらも俺には分からないのだ。
「あぁ……小さいな、懐かしい」
由紀子さんが赤ん坊の頬を指でつつく。おばあちゃんになりたくないと言い切っていた由紀子さんが愛おしそうに赤ん坊を見ている。子供を堕ろす事を説得していたクロームさんですら、その赤ん坊を覗き込みちょっと緩んだ顔をしているのだから、赤ん坊の魅力ってのは本当に抗いがたいものがある。
こうして、昴の出産はドタバタの中で命懸けで行われた訳なのだが、この後始まった子育てもそれはそれで大変なこと続きだったりしたんだよな。なにせ向こうの世界の獣人の子の子育ては何をおいても魔力が必要で、しかもこの赤ん坊は小さな見た目に反して大食漢だったものだから授乳と共に昴の魔力を奪っていく。この世界に存在する為には赤ん坊を魔力で包み込む事が必要で、クロームさんも頑張っているのだが、頑張っても追い付かない状況が続いて数日、大崎家の面々はそれはもうへとへとにへばっていた。
そんな時にシリウス達から届いた報告は昴の番相手が捕縛されたという報告で、その後無事に助け出されはしたのだが、クロームさんはそんな番相手と昴がコンタクトを取る事に難色を示した。
クロームさん曰く「澪ちゃんは可愛いけど、あいつは別! 僕は昴君を守り切れないような奴に昴君をお嫁に出す気はないよ!」と聞く耳を持たなかったのだ。
そして昴がクロームさんに隠れて赤ん坊の父親にコンタクトを取ろうとしたのが今日の事。この一連の出来事で昴の番相手がその赤ん坊を「誰の子だ!」と言い放ったのに、俺がキレた理由も分かってもらえたと思う。
正直俺はこの昴の番相手のシロウとかいう狼の獣人が大嫌いだ。
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