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運命に祝福を
想いの行き先 ⑥
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私達が向かったのはお屋敷の中庭だった。そこそこ広さのあるその中庭では子供達が遊んでいる姿を何度か見かけたりしていたのだが、まさかここで勉強をする気なのだろうか? 確かに天気は良いけれど、せめて室内でやったらいいのにと思わなくもない。
「皆さま、ごきげんよう」
「ローズ先生、ごきげんよう! 待ちくたびれたよ!」
小さな子供達がわらわらとローズに向かって駆けてくる。その子供の数が明らかにいつも中庭で遊んでいる子供の数より多くて、恐らくセカンドの子供だけではなく町の子供達もいるのだろうとそう思った。
ほとんどの子供達は小さな黒板を抱えているのだが、中にはそれを持っていない者もいる、けれどローズはそんな事を気にした様子もなく中庭の一本の木の木陰に座り、その周りを囲むように子供達も座り込んだ。
ローズは今日は何を学ぶか子供達に口頭で説明しつつ、持っていた黒板に板書をしていく。どうやら本日の勉強は算術のようだ。
年齢の様々な子供達、当然出来る計算レベルも個人で違っていてローズは一人一人に問題を出していく。黒板を持っている子には数字を書かせながら、持っていない子には指を使って一人一人に丁寧に教えていく。けれど一人で多人数から一度に話しかけられても返事の出来ないローズはルイに目配せをして、ルイはそれに応えるように黒板に書かれた答えが合っている者には〇を付けていった。
そうすると答えの合っていた子供達は間違っていた者を囲むようにヒントを出しあったりして、お互いがお互いにどうやって答えにたどり着くのか教え合い始めた。それはまるで子供同士遊んでいるかのようにも見えるのだが、見ている限り、ここにいる子供達の学習能力は低くはないのが分かった。
子供達の着ている服や持ち物から貧富の差は多少透けて見えるのだが、それでもそこにはなんの隔てもなく、子供達は楽しそうに笑っている。それは赤髪のセカンドの養子だと紹介されたメリアの子供達も一緒になって楽し気で、私はまた何故か胸の内がざわりとした。
何故こんなに胸の内がざわつくのかが分からない。けれど、私はその子供たちの楽しげな姿が不快で仕方がないのだ。
そんな私と目が合った子供の一人が顔を青褪めさせてルイの背後に逃げ込んだ。その様子にこちらを見やったルイがまた顔強張らせてこちらへと歩いてきて、小さな声で私に告げる。
「姫様、何が気に入らないのか知らないけど子供達の前でその顔はやめてくれる? 子供達が脅えてしまうわ」
その顔って一体どんな顔よ? 私は特に何をしたつもりもないのに一方的に怖がられるのは心外だ。
「私は何も……」
「うちの弟妹には親から虐待されてた子もいるの。子供というのは大人が考えるよりよほど周りを見ているわ、せめて子供の前では笑顔を見せて」
笑顔? 何も面白くもないのに何故私が笑わなければならないのだろうか。全く持って理不尽な要求に私は笑みなど作れない。
「人の顔に難癖を付けるのはやめていただけるかしら? 笑いたくもないのに笑える訳がないじゃない。不愉快だわ」
「そんなに不愉快なら、早くここを立ち去って。私と私の両親があなたに嫌われている事は承知しているわ、だけどあの子達は元はメリアの民よ、メリアの姫であるあなたにとってはあの子達は庇護すべき民だったはずよね、そんな子供達を怖がらせるのはやめてちょうだい」
「まぁ! 私に立ち去れですって? 私は招かれてここに居るの、なのになんて言い草かしら。私の事が気に入らないのなら早々に立ち去るべきは貴女達の方じゃない」
先程まで笑っていた子供達が不安そうにこちらを見ている。それはまるで私を責めているかのようで気分が悪い。
私が一体何をした? ただ黙って彼等を見ていただけで脅えられるなんて意味が分からない。
「確かにあなたの言う通りね」
ルイが一言そう言って、くるりと子供達の方へと向き直る。
「皆、今日の勉強会はここまでよ。後は各自で復習しましょう」
まだ学び足りないと不満を述べる子供達を促すようにルイが弟妹を連れ去って行く。残された子供達も勉強会がお開きならばと帰り支度を始め、そしてその場に残された私はやはりどうにも気分が晴れない。これでは完全に私が悪者ではないか、私は何もしていないのに!
「もしかして、レイシア姫はルイちゃんとはあまり仲が宜しくないのですか?」
中庭に残った最後の生徒を見送ってから、まだ中庭に居残っていた私にローズが声をかけてきた。
そんな事は見れば分かるだろうと思ったのだが、彼女は私とルイの関係を知らないのだから不思議がるのも仕方がない。
「私は嫌われているもの」
「では、姫様がルイちゃんの事を嫌っておいでなのですね」
私の言葉に何故か私の方に非があるような返答が返ってきて私はむっとする。
「向こうが私を嫌っているのよ」
「あら、それはあり得ませんわ。ルイちゃんは他人を嫌ったりはしませんもの、ルイちゃんが相手を嫌うのは自分が嫌われていると悟った時だけで、自分から誰かを嫌うほど他人に興味なんてありませんもの」
あまりにもバッサリと私の言葉を否定されて私は憮然とする。
「貴女、随分と彼女と仲がよろしいようね」
「一方的な私の片想いですわ。ルイちゃんは誰にでも好かれる魅力的な人なので、私はそのたくさんいる取り巻きの一人に過ぎないのですもの」
魅力的? 彼女のどこが人を惹きつけるというのだろうか? 私にはそんなルイの魅力など欠片も理解が出来ない。
確かに顔立ちは美しいと思うが、顔が綺麗なだけなら目の前にいるローズだって引けを取らない、そんなモノは人間の魅力の一片でしかなく万民に通用するものではないと思う。
「時間が空いてしまいましたので、宜しければ少し私とお話いたしませんか?」
ローズの言葉に話す事などないと思いつつも私は頷いた。私は話す事に飢えていた。今まではアレクセイを筆頭に私を肯定してくれる者達ばかりが傍に居て私は何不自由なく生きてきたのだが、ここにきて私は自分を否定される事ばかりが続いている。
ローズはこの町の町民にしては珍しく今まで私が接してきた上流階級の空気を感じる。上流階級の付き合いは化かしあいとマウントの取り合いがほとんどだが、私の肩書である「姫」はそういう場所でこそ本領を発揮する。
誰もが私を敬い跪く、私はそういう立場の人間だという事をこの町では忘れてしまいそうだが、私はその生き方を捨てる事はできない。
「そういえば、私、思い出しましたわよ、貴女の姓『マイラー』はファルスでは名の通った公爵家のお名前ですわよね。何か関係がおありなのかしら?」
「ええ、マイラー公爵家の現当主は私の父の兄で私の伯父にあたりますわ」
やはりだ。田舎に不似合いな空気を醸し出していると思ったら、案の定ローズは貴族の子女だったのだ。けれど、ここで不思議に感じるのは何故そんな貴族の娘がここで家庭教師などをしているのかという事だ。
カルネ領主が辺境伯だとしても公爵家より位は下、ローズは直系ではなく傍系にはなるがそれでも父親が直系の一族である以上それ相応の身分は保証されているはず、なのに何故彼女はこんな市井に混じって生活をしているのだろうか?
「姫様は公爵家の人間が何故こんな田舎で市井に混じって生活をしているのかとお思いでしょうね、実はうちの両親駆け落ちで、こんな辺鄙な田舎まで二人で逃げてきたという経緯があるのですよ」
「あら、それは素敵なお話ね」
自分の恋愛には一切興味のない私だが、物語としての恋愛話は嫌いではない。自分にはそんな恋愛はできないと分かっていても興味本位で覗いてしまうくらいには好きだと言ってもいい。
ただ直情的に愛だ恋だと騒いでいる物語は読んでいてとても滑稽だし、楽しいと思う、けれどその先の未来を考えた時「ないな」とも思うのだ。
身分のある者が恋した庶民の恋人と駆け落ちするというお話は恋物語の定番ではあるが、その先には貧乏な生活が待っている。物語は二人が結ばれてめでたしめでたしで終わってしまうが、その先の生活を考えると大丈夫なのかしら? と考えてしまうのだ。
愛さえあればどんな苦難も乗り越えられる、物語はそう締めくくられる事がほとんどだが、愛があっても金がなければ生活は困窮するという所に思い至れない人間は愚かであると思うのだ。
「ただ素敵で終われば良いのですけれどね……」
ローズが微かに苦笑した。両親の駆け落ちの先に生まれた愛娘であるローズにはやはり思う所があるのだろう。
「何かご苦労がおありかしら?」
恋愛話も悪くはないが、他人の不幸話はおかずとしては最高だ。自分はそうはなるまいと教訓にもなるし、馬鹿な人間を笑う事も出来る。下世話であるとは思うけれど、そんな下世話な話はどこにでも転がっていて、話のタネにはうってつけだ。
こういう話は自分が巻き込まれさえしなければ面白おかしく吹聴されるのが世の常で、私はゴシップも大好きなのだ。
「現時点では特にございませんが、もし不安があるとすれば当主が代替わりをした後ですかしらね。伯父は末の弟である父を溺愛していて現在も父への援助を惜しむ事はありませんけれど、代が変わればその援助も打ち切られてしまうでしょうし、父はあまり甲斐性のある方ではないのでそれまでには自分達で生活できる基盤を作らないと……私自身が本家に嫁ぎ援助を継続してもらうという手もなくはないですが、やはりどうせ嫁ぐのであれば自分の好いた相手の所の方が幸福ですしね」
貴族の婚姻など打算と妥協、ローズはそれを分かっているが両親が恋愛結婚であるせいか、それに踏み込むには躊躇もあると見える。
それにしても駆け落ちした弟のために援助をしているという公爵家も相当に愚かであると私は思う。貴族にとって使えない駒など厄介者でしかない、実際甲斐性がないと言われているローズの父親は一人で家族を支える事も出来なかったのであろう、そんな愚弟はお荷物以外の何者でもない。
大方公爵家にとって体裁が悪いからとかそんな理由で飼い殺されているのだろう。けれど、それも代が変わればそれまでだ。
「それにしても、私は父を見ていると、過剰な愛情は毒にしかならないとしみじみ感じてしまうのですわ」
「? それは両親が駆け落ちした事に対して仰っているの?」
「いいえ、父は駆け落ちをして幸福であったと思いますわ、けれどそんな父を独り立ちさせようとしない本家の人間の愛が重すぎるのです」
言っている事の意味が分からない。彼女の父親は世間体を気にする伯父から飼い殺しにされているという私の想像は間違っていたのだろうか?
「お恥ずかしい話ですが、私達家族は伯父の援助のお陰で何不自由のない生活を送らせていただいております。確かに父にはあまり甲斐性はないのですが、それでも庶民として慎ましやかに暮らしていく程度の甲斐性は持っております、けれど伯父はそれを許さない……というか、そんな庶民の生活をする父を不憫に思うのか過剰な援助を申し入れてくるのです。一般的な庶民の家庭には執事やメイドなどの使用人はおりません、けれど我が家には私が物心つく前から使用人がおりました。私はそれをずっと不思議とも思いませんでしたわ、我が家の家計事情を知るまでは……」
そう言ってローズはひとつ溜息を零した。
「ある時ふと気付いたのです、我が家の家計を支えているのは父一人、けれどその稼ぎは我が家のすべてを賄うにはほど遠い。それに気付き両親に尋ねてみれば使用人の給金は伯父から支払われている事と、その派遣元も伯父である事を知りました。使用人の方々はとても良い方々でそんな事はおくびにも出しませんし、父に誠心誠意仕えてくださっております。けれど彼等は私達が自分で覚えなければならない家事や家の中の細々した仕事を全て片付けてしまいます、これでは私達は市井に混じる事ができません。彼等の仕事を奪ってはいけない、それは分かっているのです、けれどそんな風に甘やかされていては私達兄弟は自立することも出来ませんわ」
予想外なローズの言葉に私は言葉が返せない。一体彼女はその生活に一体何の不満があるというのか、何不自由のない生活なんてそれは誰もが望むものであろうに、ローズはそれは困るとそう言うのだ。
「伯父は事あるごとに父に妻子を連れて戻ってこいと言っているようですが父はそれを望みません。過度の愛情は愛する者をも苦しめるだなんて、愛を注いでいる方は気付きもしないのでしょうね。それは愛情という名の自己満足でしかありませんし、それは優しい虐待でしかないと私は思うのです」
「でしたら、そんなモノは望まないと拒めば宜しいのではなくて?」
「確かにその通りですわ、けれど拒めば角が立ちますし、場合によっては相手が傷付きます。それに父の場合は伯父からの援助を拒んだところで別方向から援助の手が伸びてくるだけですから……愛されるのも一種の天賦の才なのでしょうね、それを本人が望むかは別問題ですけれど」
傍から聞いている分には何とも羨ましい才ではあるのだが、ローズは心底困っている様子だ。そしてその父親の才は子供達の将来にまでは及ばない事も分かっている。
父親がいなくなるまでの間、その才に縋って生きることも出来るのだろうが、彼女はそれを望んではいない。いや、望んではいけないとそう思っているのだろう。
「やりたい人にはやらせておけばいいのよ、それが貴女達にとって得であり、向こうも満足しているのならばそれを拒絶するのは傲慢でしかないわ」
「ええ、本当にそうなのですけれど……」
ローズが言葉を濁し、私は首を傾げる。無条件に与えられる幸福を何故素直に受け取らないのか、私はそんな心境を理解しかねる。そんな幸福な生活を受け取りたくても受け取れない者がこの世界には幾らもいるのだ、逆に言えばこれはローズの幸せ自慢だとしか思えない。
けれど私はそこではたと気付く、私もそんな幸福な生活を送るために与えられた選択肢に「少し考えさせてくれ」と告げたばかりではなかったか?
何故私はあの時その言葉を二人に告げたのか、未だによく分からない。けれど、愛に縋って生きるなど愚か者のする事だと豪語していた自分が、アレクセイの愛に縋って生きてきた事に気付いて急に怖くなったのだ。
今まではそんなものには気付いていなかった、気付いていなかったからこそソレは私に無条件に与えられている権利だと疑いもしなかったのだ。
けれど違う、それは私に無条件に与えられた権利などではなかった、私は紛れもなく今まで私が散々無意味だと蔑んでいた「愛」に生かされていたのだと気付いてしまったのだ。
やりたい人にはやらせておけばいい、アレクセイは好きでそうしているのだ、勝手にやらせておけばいい、なのに私はそれが怖くなった。
アレクセイはグレンを通して私の一生を守ろうとしてくれている、けれどその根源はなんだ? アレクセイの愛情? そんなモノはしょせん砂上の楼閣であると豪語してきたのは自分自身なのに、それに縋ってしかお前は生きられないのだと言外に現実を突き付けられた気がした。
人と人との関係は利害関係があるから信じられる、愛などという不確かなものなど信じられない。
私とアレクセイの間にも何処かに利害関係があるはずなのだ、だけど私はそれが見つけられない。アレクセイが私に与える分に対して私は一体何を返せばいい? 今までは王家の執事という立場を私が与えてやっているつもりでいた、けれど違う、与えられていたのは私の方、アレクセイがいたから私は今も「姫」でいられるのだ。その立場が無くなった時、一体私に何が残る?
私はこれほどまでに何も持っていなかったのか? 私は一体何者なのだ?
「あの……レイシア姫?」
急に黙りこんだ私の機嫌を損ねたとでも思ったのか、ローズが窺うように私の顔を覗き込んだ。
「少し陽にあたり過ぎたみたい、体調がすぐれないので失礼しますわ」
私はそれだけ言うと逃げるように踵を返して与えられた自室へと逃げ込んだ。今まで散々周りに言われてきた言葉が思い出される。
お前はお前のままに好きに生きろと言われてきた、けれど私に残された道など、好きに歩ける道など私の前には用意されていない。目の前にあるのはアレクセイの引いた一本道、そしてそれは私が尤も忌み嫌っていた「愛情」という名の薄い板切れ一枚で谷を渡るような細い道だけ。
「アハハ……何よコレ、私馬鹿みたいじゃないの! いいえ、馬鹿みたいではなくて馬鹿そのものよっ!」
コレが私が望んだ未来だとアレクセイはそう思っている、そんなモノ私は望んでなどいないのに!
『君のお父さんは言っていた、自分は娘を縛らない、娘の前に道を敷いたりしない、それは自分が親として唯一娘にしてやれる事だからって彼は僕にそう言ったんだ』
私の名目上の父である先代のメリア国王陛下は過去にそんな言葉を漏らしていたとアジェ様は私にそう言った。
『君のおじいさんは、君のお父さんをまるで自分の身代わりであるかのように育てたんだよ。人はいずれ歳を取る、それでも自分の手足として動く傀儡だ。お父さんには自我というものがほとんどなかった、唯一執着していたのがセカンドの存在、それを失った彼には何も残っていなかった。だから彼は死を選んだんだ。僕には彼を止められなかった。君は子供にそんな人生を歩ませたいの? いいや、君自身そんな人生を歩みたいの?』
言われた時にはピンとこなかったアジェ様の言葉が思い出されて胸に刺さった。私は自分の意思で自分の足でここまで歩いてきたと思っていた、それが周到に用意された道である事にも気付かずに我が物顔でここまで歩いて来てしまった事に今更気が付いた。
父王は私の前に道を敷かぬ事で私を自由に自分の人生を歩かせようとしていたのだと、アレクセイは私の後ろから私が躓かぬように周囲を警戒して望んだ道を歩かせようと腐心していたのだと、愚かな私は気付きもせずにここまで生きてきてしまった……
そんな事に今更気付いてどうしろというのだ、私の生き方はもう変えられない。どうしようもなく自分が愛されていた事に何故気付けなかったのか、己の愚かさに笑いが込み上げる。
私には過去たくさんの選択肢が目の前に提示されてきたはずだ、けれど私はその選択を誤り続けてきた事に気付いてしまった。
頬に感じた微かな違和感、手で触れてみたら頬が濡れていた。何故自分が泣いているのかが分からない、あまりにも自分が滑稽過ぎて涙が止まらなくなってしまったのだろうか。
私は訳も分からずその日いつまでも涙を零し笑い続けた。
「皆さま、ごきげんよう」
「ローズ先生、ごきげんよう! 待ちくたびれたよ!」
小さな子供達がわらわらとローズに向かって駆けてくる。その子供の数が明らかにいつも中庭で遊んでいる子供の数より多くて、恐らくセカンドの子供だけではなく町の子供達もいるのだろうとそう思った。
ほとんどの子供達は小さな黒板を抱えているのだが、中にはそれを持っていない者もいる、けれどローズはそんな事を気にした様子もなく中庭の一本の木の木陰に座り、その周りを囲むように子供達も座り込んだ。
ローズは今日は何を学ぶか子供達に口頭で説明しつつ、持っていた黒板に板書をしていく。どうやら本日の勉強は算術のようだ。
年齢の様々な子供達、当然出来る計算レベルも個人で違っていてローズは一人一人に問題を出していく。黒板を持っている子には数字を書かせながら、持っていない子には指を使って一人一人に丁寧に教えていく。けれど一人で多人数から一度に話しかけられても返事の出来ないローズはルイに目配せをして、ルイはそれに応えるように黒板に書かれた答えが合っている者には〇を付けていった。
そうすると答えの合っていた子供達は間違っていた者を囲むようにヒントを出しあったりして、お互いがお互いにどうやって答えにたどり着くのか教え合い始めた。それはまるで子供同士遊んでいるかのようにも見えるのだが、見ている限り、ここにいる子供達の学習能力は低くはないのが分かった。
子供達の着ている服や持ち物から貧富の差は多少透けて見えるのだが、それでもそこにはなんの隔てもなく、子供達は楽しそうに笑っている。それは赤髪のセカンドの養子だと紹介されたメリアの子供達も一緒になって楽し気で、私はまた何故か胸の内がざわりとした。
何故こんなに胸の内がざわつくのかが分からない。けれど、私はその子供たちの楽しげな姿が不快で仕方がないのだ。
そんな私と目が合った子供の一人が顔を青褪めさせてルイの背後に逃げ込んだ。その様子にこちらを見やったルイがまた顔強張らせてこちらへと歩いてきて、小さな声で私に告げる。
「姫様、何が気に入らないのか知らないけど子供達の前でその顔はやめてくれる? 子供達が脅えてしまうわ」
その顔って一体どんな顔よ? 私は特に何をしたつもりもないのに一方的に怖がられるのは心外だ。
「私は何も……」
「うちの弟妹には親から虐待されてた子もいるの。子供というのは大人が考えるよりよほど周りを見ているわ、せめて子供の前では笑顔を見せて」
笑顔? 何も面白くもないのに何故私が笑わなければならないのだろうか。全く持って理不尽な要求に私は笑みなど作れない。
「人の顔に難癖を付けるのはやめていただけるかしら? 笑いたくもないのに笑える訳がないじゃない。不愉快だわ」
「そんなに不愉快なら、早くここを立ち去って。私と私の両親があなたに嫌われている事は承知しているわ、だけどあの子達は元はメリアの民よ、メリアの姫であるあなたにとってはあの子達は庇護すべき民だったはずよね、そんな子供達を怖がらせるのはやめてちょうだい」
「まぁ! 私に立ち去れですって? 私は招かれてここに居るの、なのになんて言い草かしら。私の事が気に入らないのなら早々に立ち去るべきは貴女達の方じゃない」
先程まで笑っていた子供達が不安そうにこちらを見ている。それはまるで私を責めているかのようで気分が悪い。
私が一体何をした? ただ黙って彼等を見ていただけで脅えられるなんて意味が分からない。
「確かにあなたの言う通りね」
ルイが一言そう言って、くるりと子供達の方へと向き直る。
「皆、今日の勉強会はここまでよ。後は各自で復習しましょう」
まだ学び足りないと不満を述べる子供達を促すようにルイが弟妹を連れ去って行く。残された子供達も勉強会がお開きならばと帰り支度を始め、そしてその場に残された私はやはりどうにも気分が晴れない。これでは完全に私が悪者ではないか、私は何もしていないのに!
「もしかして、レイシア姫はルイちゃんとはあまり仲が宜しくないのですか?」
中庭に残った最後の生徒を見送ってから、まだ中庭に居残っていた私にローズが声をかけてきた。
そんな事は見れば分かるだろうと思ったのだが、彼女は私とルイの関係を知らないのだから不思議がるのも仕方がない。
「私は嫌われているもの」
「では、姫様がルイちゃんの事を嫌っておいでなのですね」
私の言葉に何故か私の方に非があるような返答が返ってきて私はむっとする。
「向こうが私を嫌っているのよ」
「あら、それはあり得ませんわ。ルイちゃんは他人を嫌ったりはしませんもの、ルイちゃんが相手を嫌うのは自分が嫌われていると悟った時だけで、自分から誰かを嫌うほど他人に興味なんてありませんもの」
あまりにもバッサリと私の言葉を否定されて私は憮然とする。
「貴女、随分と彼女と仲がよろしいようね」
「一方的な私の片想いですわ。ルイちゃんは誰にでも好かれる魅力的な人なので、私はそのたくさんいる取り巻きの一人に過ぎないのですもの」
魅力的? 彼女のどこが人を惹きつけるというのだろうか? 私にはそんなルイの魅力など欠片も理解が出来ない。
確かに顔立ちは美しいと思うが、顔が綺麗なだけなら目の前にいるローズだって引けを取らない、そんなモノは人間の魅力の一片でしかなく万民に通用するものではないと思う。
「時間が空いてしまいましたので、宜しければ少し私とお話いたしませんか?」
ローズの言葉に話す事などないと思いつつも私は頷いた。私は話す事に飢えていた。今まではアレクセイを筆頭に私を肯定してくれる者達ばかりが傍に居て私は何不自由なく生きてきたのだが、ここにきて私は自分を否定される事ばかりが続いている。
ローズはこの町の町民にしては珍しく今まで私が接してきた上流階級の空気を感じる。上流階級の付き合いは化かしあいとマウントの取り合いがほとんどだが、私の肩書である「姫」はそういう場所でこそ本領を発揮する。
誰もが私を敬い跪く、私はそういう立場の人間だという事をこの町では忘れてしまいそうだが、私はその生き方を捨てる事はできない。
「そういえば、私、思い出しましたわよ、貴女の姓『マイラー』はファルスでは名の通った公爵家のお名前ですわよね。何か関係がおありなのかしら?」
「ええ、マイラー公爵家の現当主は私の父の兄で私の伯父にあたりますわ」
やはりだ。田舎に不似合いな空気を醸し出していると思ったら、案の定ローズは貴族の子女だったのだ。けれど、ここで不思議に感じるのは何故そんな貴族の娘がここで家庭教師などをしているのかという事だ。
カルネ領主が辺境伯だとしても公爵家より位は下、ローズは直系ではなく傍系にはなるがそれでも父親が直系の一族である以上それ相応の身分は保証されているはず、なのに何故彼女はこんな市井に混じって生活をしているのだろうか?
「姫様は公爵家の人間が何故こんな田舎で市井に混じって生活をしているのかとお思いでしょうね、実はうちの両親駆け落ちで、こんな辺鄙な田舎まで二人で逃げてきたという経緯があるのですよ」
「あら、それは素敵なお話ね」
自分の恋愛には一切興味のない私だが、物語としての恋愛話は嫌いではない。自分にはそんな恋愛はできないと分かっていても興味本位で覗いてしまうくらいには好きだと言ってもいい。
ただ直情的に愛だ恋だと騒いでいる物語は読んでいてとても滑稽だし、楽しいと思う、けれどその先の未来を考えた時「ないな」とも思うのだ。
身分のある者が恋した庶民の恋人と駆け落ちするというお話は恋物語の定番ではあるが、その先には貧乏な生活が待っている。物語は二人が結ばれてめでたしめでたしで終わってしまうが、その先の生活を考えると大丈夫なのかしら? と考えてしまうのだ。
愛さえあればどんな苦難も乗り越えられる、物語はそう締めくくられる事がほとんどだが、愛があっても金がなければ生活は困窮するという所に思い至れない人間は愚かであると思うのだ。
「ただ素敵で終われば良いのですけれどね……」
ローズが微かに苦笑した。両親の駆け落ちの先に生まれた愛娘であるローズにはやはり思う所があるのだろう。
「何かご苦労がおありかしら?」
恋愛話も悪くはないが、他人の不幸話はおかずとしては最高だ。自分はそうはなるまいと教訓にもなるし、馬鹿な人間を笑う事も出来る。下世話であるとは思うけれど、そんな下世話な話はどこにでも転がっていて、話のタネにはうってつけだ。
こういう話は自分が巻き込まれさえしなければ面白おかしく吹聴されるのが世の常で、私はゴシップも大好きなのだ。
「現時点では特にございませんが、もし不安があるとすれば当主が代替わりをした後ですかしらね。伯父は末の弟である父を溺愛していて現在も父への援助を惜しむ事はありませんけれど、代が変わればその援助も打ち切られてしまうでしょうし、父はあまり甲斐性のある方ではないのでそれまでには自分達で生活できる基盤を作らないと……私自身が本家に嫁ぎ援助を継続してもらうという手もなくはないですが、やはりどうせ嫁ぐのであれば自分の好いた相手の所の方が幸福ですしね」
貴族の婚姻など打算と妥協、ローズはそれを分かっているが両親が恋愛結婚であるせいか、それに踏み込むには躊躇もあると見える。
それにしても駆け落ちした弟のために援助をしているという公爵家も相当に愚かであると私は思う。貴族にとって使えない駒など厄介者でしかない、実際甲斐性がないと言われているローズの父親は一人で家族を支える事も出来なかったのであろう、そんな愚弟はお荷物以外の何者でもない。
大方公爵家にとって体裁が悪いからとかそんな理由で飼い殺されているのだろう。けれど、それも代が変わればそれまでだ。
「それにしても、私は父を見ていると、過剰な愛情は毒にしかならないとしみじみ感じてしまうのですわ」
「? それは両親が駆け落ちした事に対して仰っているの?」
「いいえ、父は駆け落ちをして幸福であったと思いますわ、けれどそんな父を独り立ちさせようとしない本家の人間の愛が重すぎるのです」
言っている事の意味が分からない。彼女の父親は世間体を気にする伯父から飼い殺しにされているという私の想像は間違っていたのだろうか?
「お恥ずかしい話ですが、私達家族は伯父の援助のお陰で何不自由のない生活を送らせていただいております。確かに父にはあまり甲斐性はないのですが、それでも庶民として慎ましやかに暮らしていく程度の甲斐性は持っております、けれど伯父はそれを許さない……というか、そんな庶民の生活をする父を不憫に思うのか過剰な援助を申し入れてくるのです。一般的な庶民の家庭には執事やメイドなどの使用人はおりません、けれど我が家には私が物心つく前から使用人がおりました。私はそれをずっと不思議とも思いませんでしたわ、我が家の家計事情を知るまでは……」
そう言ってローズはひとつ溜息を零した。
「ある時ふと気付いたのです、我が家の家計を支えているのは父一人、けれどその稼ぎは我が家のすべてを賄うにはほど遠い。それに気付き両親に尋ねてみれば使用人の給金は伯父から支払われている事と、その派遣元も伯父である事を知りました。使用人の方々はとても良い方々でそんな事はおくびにも出しませんし、父に誠心誠意仕えてくださっております。けれど彼等は私達が自分で覚えなければならない家事や家の中の細々した仕事を全て片付けてしまいます、これでは私達は市井に混じる事ができません。彼等の仕事を奪ってはいけない、それは分かっているのです、けれどそんな風に甘やかされていては私達兄弟は自立することも出来ませんわ」
予想外なローズの言葉に私は言葉が返せない。一体彼女はその生活に一体何の不満があるというのか、何不自由のない生活なんてそれは誰もが望むものであろうに、ローズはそれは困るとそう言うのだ。
「伯父は事あるごとに父に妻子を連れて戻ってこいと言っているようですが父はそれを望みません。過度の愛情は愛する者をも苦しめるだなんて、愛を注いでいる方は気付きもしないのでしょうね。それは愛情という名の自己満足でしかありませんし、それは優しい虐待でしかないと私は思うのです」
「でしたら、そんなモノは望まないと拒めば宜しいのではなくて?」
「確かにその通りですわ、けれど拒めば角が立ちますし、場合によっては相手が傷付きます。それに父の場合は伯父からの援助を拒んだところで別方向から援助の手が伸びてくるだけですから……愛されるのも一種の天賦の才なのでしょうね、それを本人が望むかは別問題ですけれど」
傍から聞いている分には何とも羨ましい才ではあるのだが、ローズは心底困っている様子だ。そしてその父親の才は子供達の将来にまでは及ばない事も分かっている。
父親がいなくなるまでの間、その才に縋って生きることも出来るのだろうが、彼女はそれを望んではいない。いや、望んではいけないとそう思っているのだろう。
「やりたい人にはやらせておけばいいのよ、それが貴女達にとって得であり、向こうも満足しているのならばそれを拒絶するのは傲慢でしかないわ」
「ええ、本当にそうなのですけれど……」
ローズが言葉を濁し、私は首を傾げる。無条件に与えられる幸福を何故素直に受け取らないのか、私はそんな心境を理解しかねる。そんな幸福な生活を受け取りたくても受け取れない者がこの世界には幾らもいるのだ、逆に言えばこれはローズの幸せ自慢だとしか思えない。
けれど私はそこではたと気付く、私もそんな幸福な生活を送るために与えられた選択肢に「少し考えさせてくれ」と告げたばかりではなかったか?
何故私はあの時その言葉を二人に告げたのか、未だによく分からない。けれど、愛に縋って生きるなど愚か者のする事だと豪語していた自分が、アレクセイの愛に縋って生きてきた事に気付いて急に怖くなったのだ。
今まではそんなものには気付いていなかった、気付いていなかったからこそソレは私に無条件に与えられている権利だと疑いもしなかったのだ。
けれど違う、それは私に無条件に与えられた権利などではなかった、私は紛れもなく今まで私が散々無意味だと蔑んでいた「愛」に生かされていたのだと気付いてしまったのだ。
やりたい人にはやらせておけばいい、アレクセイは好きでそうしているのだ、勝手にやらせておけばいい、なのに私はそれが怖くなった。
アレクセイはグレンを通して私の一生を守ろうとしてくれている、けれどその根源はなんだ? アレクセイの愛情? そんなモノはしょせん砂上の楼閣であると豪語してきたのは自分自身なのに、それに縋ってしかお前は生きられないのだと言外に現実を突き付けられた気がした。
人と人との関係は利害関係があるから信じられる、愛などという不確かなものなど信じられない。
私とアレクセイの間にも何処かに利害関係があるはずなのだ、だけど私はそれが見つけられない。アレクセイが私に与える分に対して私は一体何を返せばいい? 今までは王家の執事という立場を私が与えてやっているつもりでいた、けれど違う、与えられていたのは私の方、アレクセイがいたから私は今も「姫」でいられるのだ。その立場が無くなった時、一体私に何が残る?
私はこれほどまでに何も持っていなかったのか? 私は一体何者なのだ?
「あの……レイシア姫?」
急に黙りこんだ私の機嫌を損ねたとでも思ったのか、ローズが窺うように私の顔を覗き込んだ。
「少し陽にあたり過ぎたみたい、体調がすぐれないので失礼しますわ」
私はそれだけ言うと逃げるように踵を返して与えられた自室へと逃げ込んだ。今まで散々周りに言われてきた言葉が思い出される。
お前はお前のままに好きに生きろと言われてきた、けれど私に残された道など、好きに歩ける道など私の前には用意されていない。目の前にあるのはアレクセイの引いた一本道、そしてそれは私が尤も忌み嫌っていた「愛情」という名の薄い板切れ一枚で谷を渡るような細い道だけ。
「アハハ……何よコレ、私馬鹿みたいじゃないの! いいえ、馬鹿みたいではなくて馬鹿そのものよっ!」
コレが私が望んだ未来だとアレクセイはそう思っている、そんなモノ私は望んでなどいないのに!
『君のお父さんは言っていた、自分は娘を縛らない、娘の前に道を敷いたりしない、それは自分が親として唯一娘にしてやれる事だからって彼は僕にそう言ったんだ』
私の名目上の父である先代のメリア国王陛下は過去にそんな言葉を漏らしていたとアジェ様は私にそう言った。
『君のおじいさんは、君のお父さんをまるで自分の身代わりであるかのように育てたんだよ。人はいずれ歳を取る、それでも自分の手足として動く傀儡だ。お父さんには自我というものがほとんどなかった、唯一執着していたのがセカンドの存在、それを失った彼には何も残っていなかった。だから彼は死を選んだんだ。僕には彼を止められなかった。君は子供にそんな人生を歩ませたいの? いいや、君自身そんな人生を歩みたいの?』
言われた時にはピンとこなかったアジェ様の言葉が思い出されて胸に刺さった。私は自分の意思で自分の足でここまで歩いてきたと思っていた、それが周到に用意された道である事にも気付かずに我が物顔でここまで歩いて来てしまった事に今更気が付いた。
父王は私の前に道を敷かぬ事で私を自由に自分の人生を歩かせようとしていたのだと、アレクセイは私の後ろから私が躓かぬように周囲を警戒して望んだ道を歩かせようと腐心していたのだと、愚かな私は気付きもせずにここまで生きてきてしまった……
そんな事に今更気付いてどうしろというのだ、私の生き方はもう変えられない。どうしようもなく自分が愛されていた事に何故気付けなかったのか、己の愚かさに笑いが込み上げる。
私には過去たくさんの選択肢が目の前に提示されてきたはずだ、けれど私はその選択を誤り続けてきた事に気付いてしまった。
頬に感じた微かな違和感、手で触れてみたら頬が濡れていた。何故自分が泣いているのかが分からない、あまりにも自分が滑稽過ぎて涙が止まらなくなってしまったのだろうか。
私は訳も分からずその日いつまでも涙を零し笑い続けた。
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