運命に花束を

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運命に祝福を

運命とは ③

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 俺の暮らす町、カルネ領ルーンは穏やかだった。至る所で小さな争いの火種が燻ぶっている中で、そんな事を知らない小さな町は事件から一ヵ月も経てば元の平穏な生活へと戻っていった。
 新しく町の仲間に加わったデルクマン家の子供達も少しずつ町に馴染んで、皆が元の平穏な生活を取り戻そうとしている。
 そんな中、俺は相変わらずあの黒の騎士団の人達の隠れ家のような家で時間を過す事が増えていた。なにせそこには過去何十年分かも分からない膨大な量の各国の資料があるのだ。その資料を読み漁るのは俺の知的好奇心を満足させると共に現実逃避にもうってつけだった。
 その家は町の賑わいから離れた所に建っているし、一人になりたい俺にはいい隠れ家だったのだ。
 その日も俺は隠れ家に籠り資料を読み漁っていた。家は自由に使っていいと言われているので、屋根裏から持ち出した資料を俺はリビングに積み上げて読み漁る。その時、家の扉をこんこんと叩く音、最初は風に煽られた枝か何かが壁に当たっているのかと思うほど小さな音だった。
 そもそもこの家を訪ねてくる人間というのはほぼいない。何故ならこの家自体の存在を知っている人間が少ないからだ。俺自身、生まれてから十年以上をこの町に暮らしていながら森の中にこんな一軒家があった事を知らなかったくらいで、そんな隠れ家のような家はやはり町の人の知る所ではないのだ。
 次に少し大きめにドアを叩く音、そこで俺はようやく来訪者が来たのだという事に気が付いた。続いてドアをがちゃりと開ける音、扉に鍵などかけていない。そもそも俺の町には家に鍵をかけるという習慣があまりない。
 寝静まった夜はさすがに鍵をかけるが、昼日中の田舎など、どの家も基本的に留守にしていなければ開けっ放しで、この隠れ家を訪れる人も基本的には勝手に上がってくるのが普通なので、俺は何も気に止める事もなくその扉を見やる。
 静かに玄関扉が開く、一番可能性が高いのはダニエルさんだ。大怪我を負ったダニエルさんはうちの町で療養を続けているのだが、今ではだいぶ傷も癒え、最近では剣の稽古に励むほどに心身ともに回復をしている。
 最近ではじいちゃんにいいように使われていて、よく自警団の調査に借り出されているのだけれど、あの事件にはどうやら色々な事情が複雑に絡んでいそうなので、うちの町にはいないメリア人の意見は色々と役に立っているみたいだ。
 そんなダニエルさんはうちの母さんにも何故かいいように使われていて、時間を忘れて本を読みふける俺をここまで迎えに来るのは大体彼の役目となっている。それにしてもまだ迎えに来るには早すぎる時間だと思うのだが……そう思って扉を見ていると扉から覗いたのはダニエルさんの赤髪ではなく、何故か黒髪。

「ん?」

 いや、ここは元々黒の騎士団の隠れ家なのだから、黒髪の人間が現われるのにはなんの不思議もないのだけれど、俺はその現れた人が誰だか分からなくて首を傾げる。
 向こうも向こうで、家の中に人がいるとは思わなかったのか、俺と目が合うと驚いたような表情を見せた。

「あれ? ここ、人、住んでるんだ?」
「あ……俺、ここの家の住人じゃないです。留守の間好きに使っていいって言われていて、だから……えっと、すみません、どちら様ですか?」

 男は20代半ばから30代くらい、旅装束の黒髪の男は困ったような表情で「そうなんだ」と呟いた。

「親父から好きに使えと言われていたんだけど、まさか人がいるとは思わなかった。荒れ放題じゃないだけマシだけど、この家、数日間使わせてもらっても大丈夫?」
「親父? あ、もしかしてルークさん?」

 いや、でも待って、ルークさんの息子にしては少し老けてない? でもあの人若く見えるけど、意外と歳いってるみたいだったし、俺より年上の息子いるって確か言ってたよね……?

「ルーク……あぁ、そうか、今はあの人がこの家を使っていたんだ」
「あれ? 違う?」
「私の父親はその人ではないけれど、まぁ、親戚のようなものだよ。長居はしないからしばらくこの家に宿を取らせてはもらえないかな?」
「それは……俺が口を出せることではないので何とも……一応この家の所有者は領主様みたいですし」
「あぁ……やっぱり挨拶行っておいた方がいいのかな」
「もし何ならご案内しますよ?」

 その黒髪の男性はやはり少し困ったような表情で「どうしようかな……」と髪を掻き上げた。

「ジェイ、どうしたの?」

 その時かかった小さな声に、彼の後ろにもう一人、人がいた事に気が付いた。その人も旅装束で、そのジェイと呼ばれた男の後ろに隠れるようにしてそこに居た。とても線の細い人だ、けれどその声から男性だという事が分かる。

「ここは昔私が暮らしていた家なんだが、どうやら空き家にはなっていないみたいだ。身を隠すのにも宿代を浮かせる為にもちょうどいいと思ったのだけど……」
「身を隠す……? あなた達、誰かに追われているのですか?」
「まぁ、命は狙われているみたいだな」

 男はさらりと言ってのけたが、それって大変な事なんじゃないのかな?!

「それならそうと言ってくださいよ! 早く中に入って!」
「いいのか?」
「俺の家じゃないですけど、ルークさんを知っているなら、たぶん大丈夫です。それにその黒髪ですもんね、関係者なのは間違いないと思うので」

 男は「ありがとう」と一言礼を述べると、背後にいたもう一人に「今夜はゆっくり休めそうだぞ」と、笑みを見せた。
 家の中に入ってきた二人の男、ジェイと呼ばれた黒髪の男は俺より体格もよくがっしりしていたが、もう一人の男はひょろりとしていてどこか病的だ。背も俺と然程変わらず、少し頼りなくも見える。2人共が黒髪かと思ったら、旅装束のマントを外したそちらの男の人の髪は栗色だった。

「リオ、疲れただろう、お前は少し休め」
「でも……」
「お前は休むのが仕事だといつも言っているだろう? だから疲れた時は遠慮なく休む、いいな」

 甘やかすようにジェイさんはリオさんの頭を撫でるのだけど、あれ? これなんだろう……もしかして……?

「もしかして御二人は番……なんでしょうか?」

 俺の言葉にジェイさんは驚いたように顔を上げ、リオさんは恥ずかしそうに瞳を逸らす。

「君、ベータだよね? なんで分かった?」
「え、本当にそうなんだ……ちょっと、知り合いに御二人の空気が似てたもので、もしかしてと思って。男性オメガの数は少ないって聞いているんですけど、意外とそんな事ないんですね」
「いや、本当に男性オメガの数は少ないんだよ、実際リオは後天性のオメガだしね」
「後天性……オメガ?」
「力の強いアルファは気に入った人間をオメガに変える、そうやってオメガに変わった人間を後天性オメガと言うのさ。幾つかの条件が重ならないと起きないらしいが、全くない症例ではないらしい」

 へぇ……そうなんだ、だったら俺もオメガに変えてくれたら良かったのに、そんな想いがちらりと頭を過ぎった。
 アルファの中の格付けの話は聞いている、そんな中でユリウスが抜きん出て力が強いという事も聞いていた。本当にそんな事が出来るのならば、俺の事もオメガに変えて、問答無用で攫ってくれたら良かったのに……と、小さな棘が心に刺さる。

「とは言っても、まだリオの転換は完全なモノではなくてね、その体験者に実際の話を聞きに行く所でもあるんだよ」
「体験者? それは実際にオメガに変えられた人の話、という事ですか?」
「そっちの話しはもう聞いている、私が聞きたいのはこちら側、アルファの方の実体験だ。リオを完全なオメガに変える為に私達は話を聞きに行くんだ。どうやら後天性のオメガというのには発情期がないらしい、それでどうやって子を作ったのか、私達はそれが知りたいのだよ」

 子供……そうだよね、オメガは子を孕むんだ。でも元々生めないはずの男性がオメガになったからってそう易々と子を生めるものなのだろうか? よく分からないけど難しそう。

「なにせ症例がほとんどないし、女性がオメガに変わるならともかく男性オメガなんて数も少なくて、聞ける相手もいやしない。たまたま身近に後天性オメガの人がいたのは本当に運が良かったとしか言えないよ」

 俺は「そうなんですね」と、頷く事しか出来ない。それよりも興味深いのはその『後天性オメガ』という存在だ、だけど今更考えた所でユリ兄が帰ってくる訳ではない。

「そっち、寝室です。今は誰も使っていないので綺麗だとは思いますけど、少し埃っぽいかもしれません」

 自分はこの家に出入りしているが寝泊りはしていない「ありがとう」と、笑顔を見せてジェイさんはリオさんを連れて行ってしまった。
 アルファとオメガ……運命の番、俺には一生縁のない言葉。好きになってはいけない人だと、散々止められたにも関わらずユリウスを好きになったのは俺なのだ、今更後悔しても遅いけれど、やはり幸せそうな番の2人を見ると、俺の心には小さな小さな棘が刺さって傷口を抉る。
 まだ癒えぬ傷口は血を流し続け、俺にはそれを止める術もない。

「ありがとう、少しリオの体調が気になっていたから助かったよ」

 しばらくすると、ジェイさんが1人でリビングに戻ってきた。

「いえ、俺は何も……」

 そもそもここは俺の家ではないし、勝手に宿としてこの家を提供していいモノかも分からないのだが、ジェイさんの笑顔は不思議と人の心を掴んでくる。それはユリ兄にも似て、どこか魅惑的だ。

「そういえば君の名前を聞いていなかった、私の名はジェイ、君の名前は?」
「あ……ノエルです。ノエル・カーティス」
「カーティス……もしかして君、コリーさんのお孫さん?」
「祖父をご存知なんですか?」
「あぁ、やっぱり! 武闘会での活躍、聞いているよ」

 そう言ってジェイさんはまたしてもにこやかな笑みを見せた。俺の方は彼の事を全く知らないというのに、変な名前の売れ方をしているのではないかと、俺は少し不安になる。

「別に俺なんてなにも……」
「いやいや、そんな謙遜する必要ないよ。将来有望な子が出てきたって、うちの親父も喜んでいた」

 だから、その親父さんって誰? とも思うのだけど、聞いていいのかな?

「そういえば、ジェイさん、さっき命を狙われているって言ってましたけど、一体誰に?」
「う~ん、それがよく分からないんだよね……よく分からないから対処に困った親父に家を追い出されたってのがこの旅の理由のひとつでね、なんの目的もなく病弱なリオを連れて旅をするのも酷だから、だったらいっそ国に帰ろうかって、ね」
「国に帰る……?」
「あぁ、リオは元々ランティスの生まれでね、病気療養の為にファルスに来ていたんだけど、最近は私といるせいか前ほど体調を崩す事もなくなったんだ。少し遠出にはなるのだけど、私もリオの故郷を見てみたかったし、ご両親に挨拶もしなければならないと思って、リオの体調に合わせてのんびりと旅をしているんだよ。ついでにさっきも言ったように後天性オメガを作り出したアルファはランティスに暮らしているものだから、その話も聞きたくてね」
「それって、ランティスのどの辺ですか?」
「ん? 首都のメルクードだよ」

 何故か俺はそれを天啓だと思った。母も祖父も子供が事件に首を突っ込むものではないと俺に事件の話を語ってくれない。ヒナノやルイさんも、ユリ兄の事件をあまり語りたくないようで、詳しい話を聞かせてはくれなかった。
 俺は何も出来ずにこの町で燻ぶって、こうして本を読み漁るだけの日々だ。俺はそれに少し嫌気がさしていた。

「ジェイさん、俺も連れてって!」
「え……一緒に行くのは別に構わないけど、本当に行き当たりばったりの旅で、帰りの日程とか何も決まってないんだけど大丈夫?」
「向こうに着きさえすれば、メルクードには知り合いがいるので大丈夫です!」

 実際に分かっているのはユリ兄が住んでいた寄宿舎の住所だけなのだけど、きっとそこにカイトやツキノもいるのだと思う、だったらきっとどうとでもなる!

「リオの体調を見ながらの旅だから、本当にのんびり旅だよ? それでもいい?」
「構いません、連れて行ってください! なんなら護衛も承ります!」
「あはは、それは助かる。私1人で何とかするつもりではいたけれど、リオを危険に晒すのは本意ではないからね」
「そういえば狙われているのはジェイさんの方なんですか?」
「どうだろうね? でもたぶん2人共、じゃないかな? 最初はリオの方が狙われていたんだけど、何人か撃退したら標的が私に変わったみたいだ。うちの弟も襲われたと聞いたし、物騒な世の中だよ」
「弟さんも?」
「あぁ、図太い弟だからそう簡単には死なないと信じているけど、少し心配だね」

 にこやかだったジェイさんの瞳が憂いを帯びた。簡単に話しているが、もしかしてこの2人の旅はそんなに穏やかなものではないのかもしれないとそんな思いが頭を掠める。それでも……

「俺、探している人がいるんです。その人に会わなければ俺の人生は停滞したまま動かない、だから俺は行かなきゃいけないんだ」
「そう……分かったよ、じゃあこれから宜しくね、ノエル君」

 その穏やかな笑みはユリ兄を思い出させて、俺は少し泣いてしまいそうだった。


 ジェイさんとリオさんは話を聞くと、どうやら領主様達とも顔見知りのようだったのだが、何故か彼等と顔を合わせるのにも躊躇している様子が見て取れたので、俺は彼等2人の事は誰にも言わず、リオさんの体調が整うまでの数日間を隠れ家へとこっそりと差し入れを届ける事でやり過ごした。
 そんなある日ジェイさんに頼まれた日用品を抱え俺が商店を回っていると、そこで久しぶりにヒナノと遭遇した。

「ノエル君、お久しぶりなのです」
「ヒナちゃん……そうだね、元気だった? ルーンにはもう慣れた?」
「皆さんよくしてくださいますので、はい、だいぶ慣れましたですよ」

 ツキノがルーンに居た頃には通いつめていた領主様のお屋敷だったが、最近俺は隠れ家に籠りきりで、ヒナノに会うのも本当に久しぶりだ。
 イリヤにいた頃はユリ兄と同じくにこにこと笑顔を振りまいていた彼女だったが、ここルーンへとやって来てからその笑顔はあまり見られない。
 それはユリ兄の事件が影響しているのか、それともただ単にまだ町に馴染めずにいるだけなのか分からないが、もしそうだとしたらイリヤでは彼女に散々世話になっているのだから今度は俺が彼女達の世話をするのが筋だと思う。
 けれど俺は自分の事で手一杯で彼女の前に顔を出す事もできず、もうずいぶん時が流れてしまった。

「ノエル君はお買い物ですか? ずいぶんたくさんのお買い物ですね、お店のお手伝いですか?」
「えっと、うん、そんな所……」

 俺が曖昧に笑みを見せると、ヒナノは俺の顔を下から覗きこんでくる。

「ん? どうかした……?」
「いえ、あの……もし、お時間ありましたら、少しヒナに付き合ってはもらえないでしょうか?」
「何? 何かあった?」
「……お時間がないようなら、大丈夫なのですが……」

 歯切れの悪いヒナノが視線を逸らす。その瞳は少し憂いを帯びて艶っぽい。始めて出会った頃のヒナノはとても可愛い娘だった、それは今も変わらないのだが、ルーンに来て初めての発情期を迎えたと言っていたヒナノはその可愛らしさに不思議な色香が乗って、どこか女性らしい艶やかさは大人の女性のようで俺は少し戸惑っている。

「時間、あるよ。どうしたの? 何か困った事でもあった?」
「少し2人でお話しがしたいのです、どこか、あまり人の来ない場所を知りませんですか?」

 一体なんの話なのか分からないのだが、その真剣な瞳に俺は頷き町のはずれへと彼女を連れて歩き出した。町のはずれには小さな川が流れていて、その川辺は休日となると憩いの場として賑わっている。けれど普段はそんなに人がいない事を知っていた俺が川辺へと足を向けると、思ったとおりそこにはほとんど人はおらず閑散としていた。
 俺達は並んでその川辺に腰をおろす。

「それで、どうしたの? 何か悩み事?」
「そうですね……ヒナは今、とても悩んでいるのだと思います」
「俺が聞いて解決できるような事だったらいいんだけど……」
「…………」

 ヒナノは流れる川を見つめ、何か考え込むようにぼんやりしている。けれど、しばらくすると瞳を伏せて、小さく「ノエル君は……ユリ君のこと、今はどう思っているですか……?」と、俺に問うてきた。

「どうって……」
「もう嫌いになりましたか? ユリ君はきっとノエル君を裏切ったのです、ユリ君は『運命の番』を見付けたのです、もうきっとユリ君は帰ってきません」
「そんなのっ! …………そんなの、分からないじゃないか……」

 ヒナノにそんな事を言われなくても分かっている、ユリ兄は俺を裏切った、けれど俺はまだ彼を忘れる事なんて出来ていない。

「ヒナでは、駄目でしょうか……」
「え?」
「ヒナはノエル君の事が好きなのです、ノエル君は何度もヒナを守って救ってくれた、そんなノエル君がヒナはとても好きなのです」

 真摯な告白、けれど俺はそれから瞳を逸らす。

「でもヒナちゃんはオメガじゃないか、俺はベータ……今回のことで思い知ったよ、俺みたいな人間がバース性の人間に惚れた事が間違いだったんだ、きっとヒナちゃんだってそのうち『運命』の相手を見付けるよ。俺はもうこれ以上傷付きたくなんてないんだ……」
「『運命の番』を見付けるのはバース性の人間の中でも一握りです、世の中にはアルファ同士で結婚している人もいるし、ベータの方と結婚しているオメガの方だっていらっしゃいますです」
「ヒナちゃんは俺なんかを選ぶ必要ないよ。きっとヒナちゃんなら選り取りみどり……」
「ヒナはノエル君がいいと言っているのです!」

 悲痛な声でヒナノは俺に縋りつく。

「ヒナは嫌です、見た事もない話した事もない運命の相手と何故番わなければならないのですか! ヒナは嫌です、こんなにノエル君が好きなのに、そんなヒナの気持ちを無視するようなそんな本能をヒナは認めたくない!」
「ヒナちゃん……?」
「確かに『運命の番』は出会った瞬間に惹かれ合うと言われていますです、けれどそれはどこまでも即物的でヒナはそんな動物的な本能で番相手を決めるのは嫌なのです! それが決められた相手だなんて一体誰が決めたのですか! ヒナは自分の番相手は自分で選びたいのです! ヒナは、ヒナは『運命の番』なんて信じない!」

 彼女と始めて出会った時、いずれ自分にも運命の相手は現れて幸せな家庭を築きたい、と彼女はそう俺に語っていたのだ、けれど今のヒナノは違う、瞳に涙を溜めてそんなモノは信じないとそう叫ぶのだ。

「ユリ君は運命に出会っておかしくなってしまった、それはもしかしたらヒナもそうなのかもしれません、ヒナはそれがとても恐いのです……ヒナは嫌です、ヒナがヒナでなくなってしまうのが怖くて怖くて仕方がないのです……」
「ヒナちゃん……」
「ノエル君はヒナが嫌いですか?」

 ふいに甘い匂いが辺りに広がった。この匂いには嗅ぎ覚えがある、これはヒナノのフェロモンだ。その甘い匂いはどこか人の思考を奪う魅惑的な匂いで、俺はヒナノに手を伸ばしかけたのだが、寸での所で彼女の身体をぐいっと押しやった。

「俺、ヒナちゃんの事は好きだよ、だけど、こんなやり方は駄目だ。それに、俺の心はまだユリ兄にある、そんな気持ちのままでヒナちゃんと付き合うことなんてできないよ」
「ノエル君……」
「こんな事をすれば俺達2人共が傷付くよ、それは絶対やっちゃ駄目だ。いずれ俺がユリ兄を忘れる事ができたら……その時までヒナちゃんが運命の相手と出会えずにいたら、その時また改めて考えよう」

 ヒナノはぽろぽろと涙を零しながら、それでも静かに頷いた。

「ノエル君は本当に素敵な人なのです。そんなノエル君だから、ヒナはノエル君の事が好きになったのです。ヒナのこの気持ちはきっと変わる事はありません、ヒナは待ちます、きっと待てます」

 涙を拭ってそう言ったヒナノに俺は瞳を逸らした。果たして俺はユリウスを忘れる事ができるのだろうか……今も心の大部分を占める彼が、俺の心の中から消えてなくなる日がやってくるのか、俺にはもう分からない。

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