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運命に祝福を
薬物汚染 ③
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何が起こったのか分からなかった。ユリウス兄さんと僕の父親、そして兄さんの叔父さんと訪れたその施設で突然ユリウス兄さんが暴走した。施設の奥、地獄の牢獄のような場所で薬物中毒になっている人の姿を見ていたんだ、そこに囚われている人達はまるで狂人のようでとても怖くて、早く帰りたいな……と、そんな事を思っている時だった。ふらりと兄さんが牢の奥へと歩いて行った。
そんな場所に知り合いがいる訳もないし、不審に思って声をかけたけど、兄さんには聞こえていないようで、ふらふらと奥へと歩いて行く。そして何故か鉄柵の向こう側の女の人と兄さんが喋り始めた。何か事情でも聞いているのかと思って、その様子を眺めていた僕達だったんだけど、その後とった兄さんの行動はその檻の錠前の破壊で、兄さんの叔父さんが慌てたようにそれを止めようとしたら、物凄く恐ろしいほどの威圧のフェロモンを叩きつけられ僕達は立ち竦んだ。
兄さん達デルクマン家のバース性のフェロモン量が多い事は知っていた。それをきっちり扱いこなす訓練も彼等が両親から課せられていたのも、僕は一緒に暮して見て知っていた。だから本来ならば兄さんがこんな事をする人ではない事を僕は分かっている。そんな彼が示した行動に僕は驚きで声も出ない。
バース性の力はフェロモン量に左右される所もあって、一般的に発散されるそのフェロモン量が多い方がアルファの中でも上位だという暗黙の了解がある。
兄さんは「そんなのまやかしですよ」なんていつも笑っていて、これは体質的な物でアルファの強い弱いには関係ないと言っていたのだが、その圧倒的な威圧力にその場にいた僕達は身動きも取れずに立ち竦んだ。それはその場にいた恐らくベータの人達も同じだったようで、檻に入れられている彼等もつい先刻まで「薬をよこせ、自分達を外へ出せ」と大騒ぎしていたのだが、怯えるように全員檻の奥へと身を潜めた。
僕が兄さんを止めようと声を上げると、兄さんの腕の中の黒髪の女は不快そうな表情でこちらを見やり一言「うるさい」と、そう言い放つ。兄さんはそんな彼女を見やってにっこり笑ったのだ。その笑みはいつもと変わらない兄さんの笑みなのに、それが僕には怖くて仕方がなかった。
尚も止めようとした僕に、兄さんはこちらを睨んで「邪魔だ」と僕を一蹴する。彼女にはにこやかな笑みを向けるのに、まるで僕達は敵でもあるかのように、睨まれた。こんなの変だよ! こんなのおかしい!!
「彼女はオメガだ、彼は彼女に操られている……失態だ、彼は番のいないアルファだったか、ここに連れてくるべきじゃなかった。君、止めるんだ! お前も、彼を操るのは止めるんだ!」
僕達をここへ連れて来た男の人が叫ぶ。操られるってなんだ? 確かに先程からここにはオメガの甘いフェロモンの薫りが漂っている、けれどそれはそんなに強いものではなくて、デルクマン家の末娘、ヒナノの操るフェロモンとは比べ物にならない程に微量な物でしかない。
「別に操ってなんかいないわ、私にそんな力は無いもの。ただ彼が私を欲しがっているだけよ、だって彼、私の『運命』だもの」
兄さんの腕の中の女は兄さんの首に腕を回してにこりと微笑んだ。運命? 彼女が兄さんの運命の番!? でも、待って、だったらノエルはどうなるんだ!? いや、でも彼は兄さんの『運命』ではあり得ない、だってそもそも彼はバース性ですらないのだから。
「ユリウス、行きましょう。ここは嫌。私は家に帰りたいのよ」
彼女はまた兄さんに耳打ちをする。兄さんは綺麗な笑みで、彼女の言葉に頷いた。
何度も兄さんの名前を呼ぶ僕に少しだけ不快そうな表情を見せた兄さんは彼女を抱いたまま悠々と歩いて行く、それを止められる者は誰もいない。それは無言の圧力、彼には逆らってはいけないという圧倒的な威圧で兄さんは周りを退け、教会で世話をしているのだろう馬に彼女と共に乗ると、そのまま後ろも振り向かずに行ってしまった。
「親が親なら子も子だな……」
まるで嵐が去った後のようだった。特別争いがあった訳ではない、兄さんの圧倒的な力に押されて手が出せなかっただけなのに、兄さんと彼女が去った後、誰しも皆安堵の息を吐いた。そんな中でそんな言葉を吐いたのは僕の父親、エリオット王子だ。
「どういう意味ですか……」
「あの男の父親は元々ランティスの騎士団員だった。奴は職務の最中に、その職務を放り出してあいつの母親の後を追ったんだよ、まさに今目の前で起こった事そのままだろう」
そんな事があったのか……『運命』との出会いというのは、そこまで劇的なモノなのか? 確かに恋愛に欠片の興味もなかったウィルですら自身の番相手リリーと出会ってから、どこか変わってしまったと思う、けれどこれは……
自分とツキノは物心付いた頃からいつも一緒にいたのでこんな衝動とは無縁できたけれど、こんな事が起こるだなんて考えてもいなかった僕はもうどうしていいか分からない。
「あの娘の素性は? あの娘も薬物中毒なのですか?」
「この牢の中にいる子供達は大なり小なり皆そうだ。あの娘も売られてきたのを保護した娘、彼女は山の民との間に生まれた子供だ。ただあの娘は少し他の子供とは違っていて、ここにいる者はほとんどが薬を欲しがるばかりだが、彼女は時々よく分からない事を呟いている子だったな。彼女には信仰する神がいたらしい、神様がいずれ自分に迎えを寄越す、自分は神の御使いだと彼女は常々そう言っていた。それも薬物から出る妄言だとしか思っていなかったのだが……」
神の御使い? なんだそれ? 気味が悪いにも程がある。しかもユリウス兄さんはまるで操られるように彼女を攫って行ってしまった。
神様がもし本当に存在していたとして、何故そんな事を兄さんにさせなければならなかったのか、その理由も分からず憮然とする。
それに加えて、ただでさえツキノが行方不明だってのにどうすんだよ、これ!
「それにしても、薬物汚染がこんな年端のいかない子供達にまで及んでいるとはな……」
「その一端を担っていたのはお前だろう?」
リク騎士団長に、ケインさんは冷たい瞳で言い放つ。
「先程も自分ではないと言いました! 私だとて、貧しいメリア人、あまつさえランティス人の間ですら違法薬物が蔓延しているのは知っていた、私の弟夫婦は薬屋です、そんな風に薬が使われる事に彼等も憤りを覚えていた、だから私は正規の何の中毒性もない薬を安価で貧民街に流していただけです!!」
「あくまでも自分のやっていた事を正当化するのか?」
「私は自分に後ろ暗いところなどありはしない! 確かに現在この街で蔓延っているこの薬物、元を辿れば弟夫婦の店で売られていた媚薬、発情促進剤が元になったと聞いている、けれど彼等の販売していたそれは中毒性のあるものではなかった、それを麻薬に変えたのはこの街に潜む悪人だ! それを放置してきたのは他でもない、王家と歴代の騎士団長ではないですか!!」
僕の父親はリク騎士団長の言葉に不機嫌そうに眉を寄せた。
「元を辿ればその薬、お前達の店で売っていた物ならば、やはりお前達が悪いのではないか、王家に何の咎がある?」
「最初にこの薬を作ったのはエリオット王子、貴方の番相手カイル・リングスですよ! 彼が何故そんな物を作ったのか? 彼が貴方の子供を欲しがったからです! そして、その薬のレシピを売りに出した経緯は貴方の子供を生み養う為ですよ!!」
「な……」
「今まで言う機会もなかったので言わずにおこうと思っていたのですが、私達兄弟は昔から貴方の番相手、カイルから散々迷惑を被っている! この出来事はそんな番相手の暴走を止められなかった貴方にもその責任の一端があるのではないのですか!」
なんだか、もう物凄く耳が痛い。要するにそれって僕の母さんのせいで、僕が生まれた経緯でもある訳で、僕にはたぶん何の責任もないはずなんだけど物凄く居たたまれない。
「ケイン団長も! 私を疑っていたのなら、まず私に直接経緯を問うてくだされば良かったのです! 私は貴方になら何もかも包み隠さずに話す事ができた、そのくらい私は貴方に仕え支えてきたと自負していたのに、何故私に何も言ってはくださらなかったのですか! 私は貴方を尊敬し最後の最後まで支え続けたというのに……!」
リク騎士団長が怒りのやり場に困った様子で壁をがんっ! と拳で殴りつける。
「お前だとて、私に何も言いはしなかったではないか……」
「あの当時の貴方に私が一体何を言えたというのですか! 激務続きの貴方に更なる心労を増やせと!? いいえ、それでも私は何度か貴方に相談を持ちかけようとした事もあったのです、けれど貴方は仕事に忙殺されて私の話に耳を傾けてはくださらなかった!」
ケインさんが押し黙る、僕の父親もそうだし、何なんだろうね? この国の人達は本当にまるでコミュニケーションが取れてないんだね。リク騎士団長が荒ぶってる、怒りが爆発して本人も制御ができない様子だ。
「私は私の出来る範囲で自分の出来る事を精一杯やってきましたよ、その結果がこれですか!? 本当にこの国は救いようがない!」
「ねぇ、喧嘩はもう止めようよ、皆が皆疑心暗鬼になって相手を疑ってかかってる、こんなんじゃ解決するものも解決しやしない。まずは皆で腹を割って話したら?」
僕の言葉に3人は困惑顔で顔を見合わせた。でも僕、間違った事言ってないよね?
「僕はユリウス兄さんが心配だから、皆にこの事相談してくるよ。ツキノが攫われて、兄さんまでなんて……ホント、僕どうしていいか分からないよ……」
「おい待て、1人で行くな。うちの配下に送らせる」
僕の父親が慌てたようにそう言ったのだが、僕は首を横に振った。だって、王子の配下の人なんかに付いて来られたら目立って仕方がないだろ。僕がこの人の子供なのはもう覆せないけど、王家の人間になる気はないからそういうの嫌なんだよね。今までだってわりと一人でも平気だったし、そういうのはいらないと首を振って、僕は3人を置いて孤児院を出た。
孤児院は城と寄宿舎のちょうど間くらいにあって、さほど遠くもない。時間的にはもうイグサルさん達も戻って来ているはずの時間だし……と僕が歩いて行くと、寄宿舎の入り口前に見知った顔。
「げ……」
思わず眉を顰めると「そんなにあからさまに嫌そうな顔をする事ないじゃないか」と苦笑された。
「仕方がないでしょう、今までの自分の行いを顧みてくださいよ」
入り口の前にいたのはイグサルさんの従兄弟のトーマス・トールマンさん。僕のストーカーだ。
「今日はいつもの腰ぎんちゃくはいないのか?」
「そういう言い方止めてもらえます? 僕、忙しいので失礼します」
彼の脇をすり抜けて寄宿舎に入ろうと思ったのだが「そんなつれない事言うなよ」と腕を取られた。
「お前は俺の『運命』だろう?」
「僕、それ何度も何度も何度も否定しましたよね!? 僕の番相手は一人だけ、それにもう既に番になっていて、とてもラブラブなんで放っておいてください! 勝手な妄想でそういう事言われるの、ホント迷惑!!」
肩を抱かれて抱き寄せられる。顔が近くて鳥肌が立った。
ここ最近はユリウス兄さんかイグサルさんのどちらかが常に必ず傍に居てくれたおかげで、こんな事はなかったのだけれど、そういえばこの人ちょっと(いや、だいぶ?)危ない人だった!
「止めてくださいって言ってるでしょう!」
僕は彼の身体を押し退けようと腕を突っ張るのだが、トーマスさんの腕は弛まない。ある程度育ったとはいえ、僕はまだまだ若輩で、年長のしかも僕よりずいぶん体格のいい彼に力で勝つ事はできないのだ。
「本物の『運命の番』ならば、たとえ別の人間と番契約を結んでいた後だとしても、その契約は破棄、上書きできる」
そう言って、彼の指が僕の項を撫で上げた。僕の腕には更に鳥肌が立った。
「嫌ですよ! それにそんな事絶対ありえないですからっ!!」
「お前の番相手、ツキノ・デルクマンだったよな? 女みたいな顔をしたチビだろう? お前に相応しいとは思えないんだがな。それはお前だって分かっているだろう?」
「勝手な事言わないでください! 相応しいって何ですか!? 僕が分かっているのはツキノが僕にとっては唯一絶対の僕のアルファだって事だけですよ!」
勝手な言い分で彼はぐいぐいと身体を密着させてくるので、僕は本当に嫌で嫌で仕方がない。けれど、彼はまるで意に介さず僕を壁に押し付けた。
「いい加減に認めたらどうだ?」
「一体何を認めろって言うんですか!? 僕は貴方の事が嫌いだと言っているんですよ! 絶対ありえないですけど、例えもしツキノが番相手じゃなかったとしても、僕は貴方だけは絶対に選ばない!」
そもそも僕はこういう身勝手な人間が本当に嫌いなんだ。僕の両親もとても身勝手な2人で、ある意味彼等は反面教師だ。僕はナダールおじさんのような人間になりたい、そういう生き方をしていきたいと思っている、そんな僕に彼が相応しい訳がない!
トーマスさんの眉間に不機嫌そうな皺が刻まれる。そんな顔したって嫌なモノは嫌だし、これまでだって僕は散々否定してきているんだ、それを右から左に聞き流して纏わり付いてきていたのは彼の方で、今更不機嫌になられても本当に困る。
僕の腕を掴んでいた彼の指の力がきつくなった。
「だったら実力行使だな。やってみれば分かる事だ」
「な……」
性差による差別の撤回が叫ばれる昨今、それでもオメガの立ち位置はまだまだ低くて、女性と同等もしくはそれ以下の扱いをされる事も珍しい事ではない。そんな扱いは無くしていこうというのが最近の主流の流れなのに、この人はそんな時流にも乗らず古い考えのままオメガをアルファの所有物と考える輩の一人だという事が彼の態度から見て取れる。
傲慢なアルファはオメガを傷付ける、自分の周りに居たアルファが皆、僕を一人の人間として平等に扱ってくれる人ばかりだったので、すっかり忘れていたが、これが一般的なアルファのオメガへの扱いなのだ。
「絶対に! い・や・で・すっ!!」
僕は渾身の力で彼の腕を振り払う、このままでは本気で何をされるか分からない。その時、よろけたトーマスが誰かにぶつかった。人がいたんだ、いたんなら助けてくれてもいいのに……と、僕が憮然としかけた時、トーマスにぶつかった相手が無言で彼の腕をナイフで斬りつけた。
一瞬何が起こっているのか分からなくて、僕は何度もそのナイフとトーマスの顔、そして無表情で刺した相手を順繰りと見比べてしまう。トーマス自身も何が起こったのか把握できないびっくり顔だったのだが、そのうちに自分の腕から血が流れてくるのを目の当たりにして顔を紅潮させた。
その怪我は大怪我というほどの物ではなく、騎士団で訓練をしていれば嫌でも受ける程度の軽傷ではあったが、それでも怪我は怪我だ。これは間違いなく傷害だ。
「お前誰だ! そんなモノを振り回して! 危ないだろう! 頭おかしいのか!?」
「……やかましい」
無表情の男の感情は見えない、僕を助けてくれようとしたのかも? と一瞬思ったりしたのだけど、違う、全然違う。この人そんな感じではない。しいて言うなら先程孤児院の奥で見た狂人の瞳、彼の瞳はそれに近い。
「やかましいんだよ、いちゃつくなら余所でやれ、こんな公衆の面前で煩わしくて仕方がない」
「な……だからと言って、刃物で斬りつけるとはどういう了見だ! 今はかすり傷ですんだが、一歩間違えば大怪我だ!」
「ガキが色気づくからだ」
「なんだと!」
「止めてよ、いちゃついてた訳じゃないけど、悪いのはこっちだ」
喧嘩になりそうな2人を僕は止める。本当はさっさと逃げ出したかったのだけど、ここで騒いでいたのは間違いではない。気に触ったのなら謝るしかない。
「なんだ、オメガの娘かと思ったら男か」
男はぎょろりとこちらを見やる。こんな風に言われるのは慣れている、別にいいよ、さっさとどっか行ってくれないかな……そっちが動かないならこっちが移動するだけだけどさ。
「行きましょう、ここではご迷惑です。僕もそろそろ貴方とはきっちり話を付けないといけないと思っていた所なんでちょうどいいです」
「なんだ、部屋に招待でもしてくれるのか?」
「気は進みませんけどね……」
溜息を吐くように僕が言うと、怪我の事も忘れたようにトーマスさんはにこにことそんな事を言うので呆れてしまう。
僕達が踵を返して、寄宿舎に入ろうとすると、トーマスさんを襲った男は不機嫌顔で「おい!」と怒鳴る。
「こっちの話しはまだ終わっちゃいねぇ!」
「騒いでいたのは謝ります。ごめんなさい、申し訳なかったです。あとはこちらの話し合いなので、もう御用はないと思いますが?」
「俺の気分が害されたままだ! 土下座して詫びろ! そっちの小僧もだ!」
え……めっちゃ理不尽。なんなのこいつ?
「さすがにこちらがそこまでする言われはない。謝罪は済んでる、とっとと帰れ」
うわぁ、あんたは謝ってない癖にそういう事言うんだ?! どっちもどっちで頭痛い。たぶんトーマスさんを襲った男もアルファなのだろう、アルファの人間は基本的にプライドが高い、人に頭を下げるのが大嫌いでそれはツキノも同じだ。稀にユリウス兄さんみたいな例外もいるけど、一度拗れると厄介なのがアルファ同士の喧嘩なのだ。
アルファの中には暗黙の了解的な格付けがあり、それはフェロモン量に比例する。ユリウス兄さんはその圧倒的なフェロモン量でへらりと笑いながらも周りから一目置かれてきていたからこんな事にはならなかったけど、今目の前の2人はたぶん同格、譲り合う気はなさそうだ。
もうやだ! すごく面倒くさい!!
「そのオメガ、こちらに渡したら許してやる」
しかも矛先こっちにきた!
「俺の女だ、渡すかよ」
どっから突っ込めばいいのかな!? あんたのじゃないし! 女じゃないし! まるで僕を取り合っての喧嘩みたいになっててすごく不快なんだけど! 言っとくけど、2人共僕のタイプじゃないからどっちも願い下げだよ!!
男2人はぎりぎりと睨み合う、いつしか周りにはギャラリーまで集まってきていて、とてもとても居たたまれない。
誰か助けて! せめてイグサルさんかミヅキさん、この際ウィルでもいいから出てきてよ!
「ホントもう、止めてください!」
睨み合いの続く中、誰かが通報したのか警備兵が駆けて来て2人を引き離す。複数人の警備兵がそれぞれに2人を連れ出し、もちろん当事者である僕も連行された。ホント迷惑!
「だから、あの人がナイフを振り回して襲ってきたんですよ!」
僕の言葉に警備の人はふむふむと頷いてくれたけど、なかなか取り調べは進まなくて、僕が解放されたのは小一時間が経った頃、僕はもうそれだけでげっそり疲れ果てていた。
解放されたのはトーマスさんも同じだったようで、どうやら目撃証言から襲い掛かったのは男の方からだったというのがはっきりしたかららしい。見ていた人がいたんならホント助けてくれたら良かったのに……
僕とトーマスさんは連れ立って歩き出す。本当はすごく嫌なんだけど仕方ない、一緒に解放された上に帰る場所が同じなんだから無視もできない。
「怪我は大丈夫ですか?」
「かすり傷だし、手当てもしてもらったからな、大丈夫だ」
「災難でしたね」
『貴方の場合は半分自業自得ですけど』という言葉は飲み込んだ僕を自分で褒めてやりたい。
「この街はイリヤに比べてずいぶん物騒な街なんだな。あんな風に無闇やたらに刃物を振り回す人間に出てこられたら、おちおち道も歩けない」
そこの所は同意しかない僕は無言で頷く。それにしてもあの男の瞳、何度思い返してもやはりあの孤児院で見かけた薬物中毒の子供達の瞳に似ている。どこか虚ろで何を映しているのか分からない濁った瞳だ。
薬物は貧しい家庭に広まっていると聞いている、あの男はアルファだった。アルファのいる家庭は総じてそこまで貧しくはない、だから薬物ではないと思いたいのだがどうにもやはりあの虚ろな瞳が子供達にダブる。
「どうした、カイト?」
「なんでもないです。それより僕はもう疲れました。貴方の相手をする気力もない」
「なら俺の部屋に来るか?」
「今の話から何でそうなるんですかね? 僕は帰りたいって言ってるんですよ」
「優しくするぞ?」
ホント、この人疲れる……
またしても問答無用で肩を抱かれた。
「だから、こういうのは止めてくれと何度も……」
「まさかお前も一緒に釈放されているとはな、この国の警護兵の取調べはざるなのか……」
え……? と思って顔を上げると、トーマスの背後に先程の男。やはり瞳は虚ろなままで、体当たりするように彼の後ろに立っていた。
「な……」
「カイト……逃げろっっ……!」
トーマスさんに突き飛ばされて、僕はよろける。男の手に握られているのは一本の剣。その剣の先はトーマスさんの背中から腹の方へと抜けている。
非現実的な光景に目が離せない。
ゆっくり、ゆっくりトーマスさんの腹から剣が抜けていくのを、僕は呆然と見守る。だって、今目の前で起こっている事が現実だと思えない。
剣先に滴る血がはっきり見えた。
一体何が起こっている? これはなんだ? こいつはなんだ?!
トーマスさんの身体が傾いで倒れた。
「うあぁぁぁあぁぁぁ!!!」
言葉にならない悲鳴が零れる、恐怖と怒りと疑問がない混ぜになって言葉がうまく出てこない。
次から次に事件が起こる、僕の許容範囲はとうに超えている、身体が震える。恐怖よりも怒りで目の前が赤く染まった。
そんな場所に知り合いがいる訳もないし、不審に思って声をかけたけど、兄さんには聞こえていないようで、ふらふらと奥へと歩いて行く。そして何故か鉄柵の向こう側の女の人と兄さんが喋り始めた。何か事情でも聞いているのかと思って、その様子を眺めていた僕達だったんだけど、その後とった兄さんの行動はその檻の錠前の破壊で、兄さんの叔父さんが慌てたようにそれを止めようとしたら、物凄く恐ろしいほどの威圧のフェロモンを叩きつけられ僕達は立ち竦んだ。
兄さん達デルクマン家のバース性のフェロモン量が多い事は知っていた。それをきっちり扱いこなす訓練も彼等が両親から課せられていたのも、僕は一緒に暮して見て知っていた。だから本来ならば兄さんがこんな事をする人ではない事を僕は分かっている。そんな彼が示した行動に僕は驚きで声も出ない。
バース性の力はフェロモン量に左右される所もあって、一般的に発散されるそのフェロモン量が多い方がアルファの中でも上位だという暗黙の了解がある。
兄さんは「そんなのまやかしですよ」なんていつも笑っていて、これは体質的な物でアルファの強い弱いには関係ないと言っていたのだが、その圧倒的な威圧力にその場にいた僕達は身動きも取れずに立ち竦んだ。それはその場にいた恐らくベータの人達も同じだったようで、檻に入れられている彼等もつい先刻まで「薬をよこせ、自分達を外へ出せ」と大騒ぎしていたのだが、怯えるように全員檻の奥へと身を潜めた。
僕が兄さんを止めようと声を上げると、兄さんの腕の中の黒髪の女は不快そうな表情でこちらを見やり一言「うるさい」と、そう言い放つ。兄さんはそんな彼女を見やってにっこり笑ったのだ。その笑みはいつもと変わらない兄さんの笑みなのに、それが僕には怖くて仕方がなかった。
尚も止めようとした僕に、兄さんはこちらを睨んで「邪魔だ」と僕を一蹴する。彼女にはにこやかな笑みを向けるのに、まるで僕達は敵でもあるかのように、睨まれた。こんなの変だよ! こんなのおかしい!!
「彼女はオメガだ、彼は彼女に操られている……失態だ、彼は番のいないアルファだったか、ここに連れてくるべきじゃなかった。君、止めるんだ! お前も、彼を操るのは止めるんだ!」
僕達をここへ連れて来た男の人が叫ぶ。操られるってなんだ? 確かに先程からここにはオメガの甘いフェロモンの薫りが漂っている、けれどそれはそんなに強いものではなくて、デルクマン家の末娘、ヒナノの操るフェロモンとは比べ物にならない程に微量な物でしかない。
「別に操ってなんかいないわ、私にそんな力は無いもの。ただ彼が私を欲しがっているだけよ、だって彼、私の『運命』だもの」
兄さんの腕の中の女は兄さんの首に腕を回してにこりと微笑んだ。運命? 彼女が兄さんの運命の番!? でも、待って、だったらノエルはどうなるんだ!? いや、でも彼は兄さんの『運命』ではあり得ない、だってそもそも彼はバース性ですらないのだから。
「ユリウス、行きましょう。ここは嫌。私は家に帰りたいのよ」
彼女はまた兄さんに耳打ちをする。兄さんは綺麗な笑みで、彼女の言葉に頷いた。
何度も兄さんの名前を呼ぶ僕に少しだけ不快そうな表情を見せた兄さんは彼女を抱いたまま悠々と歩いて行く、それを止められる者は誰もいない。それは無言の圧力、彼には逆らってはいけないという圧倒的な威圧で兄さんは周りを退け、教会で世話をしているのだろう馬に彼女と共に乗ると、そのまま後ろも振り向かずに行ってしまった。
「親が親なら子も子だな……」
まるで嵐が去った後のようだった。特別争いがあった訳ではない、兄さんの圧倒的な力に押されて手が出せなかっただけなのに、兄さんと彼女が去った後、誰しも皆安堵の息を吐いた。そんな中でそんな言葉を吐いたのは僕の父親、エリオット王子だ。
「どういう意味ですか……」
「あの男の父親は元々ランティスの騎士団員だった。奴は職務の最中に、その職務を放り出してあいつの母親の後を追ったんだよ、まさに今目の前で起こった事そのままだろう」
そんな事があったのか……『運命』との出会いというのは、そこまで劇的なモノなのか? 確かに恋愛に欠片の興味もなかったウィルですら自身の番相手リリーと出会ってから、どこか変わってしまったと思う、けれどこれは……
自分とツキノは物心付いた頃からいつも一緒にいたのでこんな衝動とは無縁できたけれど、こんな事が起こるだなんて考えてもいなかった僕はもうどうしていいか分からない。
「あの娘の素性は? あの娘も薬物中毒なのですか?」
「この牢の中にいる子供達は大なり小なり皆そうだ。あの娘も売られてきたのを保護した娘、彼女は山の民との間に生まれた子供だ。ただあの娘は少し他の子供とは違っていて、ここにいる者はほとんどが薬を欲しがるばかりだが、彼女は時々よく分からない事を呟いている子だったな。彼女には信仰する神がいたらしい、神様がいずれ自分に迎えを寄越す、自分は神の御使いだと彼女は常々そう言っていた。それも薬物から出る妄言だとしか思っていなかったのだが……」
神の御使い? なんだそれ? 気味が悪いにも程がある。しかもユリウス兄さんはまるで操られるように彼女を攫って行ってしまった。
神様がもし本当に存在していたとして、何故そんな事を兄さんにさせなければならなかったのか、その理由も分からず憮然とする。
それに加えて、ただでさえツキノが行方不明だってのにどうすんだよ、これ!
「それにしても、薬物汚染がこんな年端のいかない子供達にまで及んでいるとはな……」
「その一端を担っていたのはお前だろう?」
リク騎士団長に、ケインさんは冷たい瞳で言い放つ。
「先程も自分ではないと言いました! 私だとて、貧しいメリア人、あまつさえランティス人の間ですら違法薬物が蔓延しているのは知っていた、私の弟夫婦は薬屋です、そんな風に薬が使われる事に彼等も憤りを覚えていた、だから私は正規の何の中毒性もない薬を安価で貧民街に流していただけです!!」
「あくまでも自分のやっていた事を正当化するのか?」
「私は自分に後ろ暗いところなどありはしない! 確かに現在この街で蔓延っているこの薬物、元を辿れば弟夫婦の店で売られていた媚薬、発情促進剤が元になったと聞いている、けれど彼等の販売していたそれは中毒性のあるものではなかった、それを麻薬に変えたのはこの街に潜む悪人だ! それを放置してきたのは他でもない、王家と歴代の騎士団長ではないですか!!」
僕の父親はリク騎士団長の言葉に不機嫌そうに眉を寄せた。
「元を辿ればその薬、お前達の店で売っていた物ならば、やはりお前達が悪いのではないか、王家に何の咎がある?」
「最初にこの薬を作ったのはエリオット王子、貴方の番相手カイル・リングスですよ! 彼が何故そんな物を作ったのか? 彼が貴方の子供を欲しがったからです! そして、その薬のレシピを売りに出した経緯は貴方の子供を生み養う為ですよ!!」
「な……」
「今まで言う機会もなかったので言わずにおこうと思っていたのですが、私達兄弟は昔から貴方の番相手、カイルから散々迷惑を被っている! この出来事はそんな番相手の暴走を止められなかった貴方にもその責任の一端があるのではないのですか!」
なんだか、もう物凄く耳が痛い。要するにそれって僕の母さんのせいで、僕が生まれた経緯でもある訳で、僕にはたぶん何の責任もないはずなんだけど物凄く居たたまれない。
「ケイン団長も! 私を疑っていたのなら、まず私に直接経緯を問うてくだされば良かったのです! 私は貴方になら何もかも包み隠さずに話す事ができた、そのくらい私は貴方に仕え支えてきたと自負していたのに、何故私に何も言ってはくださらなかったのですか! 私は貴方を尊敬し最後の最後まで支え続けたというのに……!」
リク騎士団長が怒りのやり場に困った様子で壁をがんっ! と拳で殴りつける。
「お前だとて、私に何も言いはしなかったではないか……」
「あの当時の貴方に私が一体何を言えたというのですか! 激務続きの貴方に更なる心労を増やせと!? いいえ、それでも私は何度か貴方に相談を持ちかけようとした事もあったのです、けれど貴方は仕事に忙殺されて私の話に耳を傾けてはくださらなかった!」
ケインさんが押し黙る、僕の父親もそうだし、何なんだろうね? この国の人達は本当にまるでコミュニケーションが取れてないんだね。リク騎士団長が荒ぶってる、怒りが爆発して本人も制御ができない様子だ。
「私は私の出来る範囲で自分の出来る事を精一杯やってきましたよ、その結果がこれですか!? 本当にこの国は救いようがない!」
「ねぇ、喧嘩はもう止めようよ、皆が皆疑心暗鬼になって相手を疑ってかかってる、こんなんじゃ解決するものも解決しやしない。まずは皆で腹を割って話したら?」
僕の言葉に3人は困惑顔で顔を見合わせた。でも僕、間違った事言ってないよね?
「僕はユリウス兄さんが心配だから、皆にこの事相談してくるよ。ツキノが攫われて、兄さんまでなんて……ホント、僕どうしていいか分からないよ……」
「おい待て、1人で行くな。うちの配下に送らせる」
僕の父親が慌てたようにそう言ったのだが、僕は首を横に振った。だって、王子の配下の人なんかに付いて来られたら目立って仕方がないだろ。僕がこの人の子供なのはもう覆せないけど、王家の人間になる気はないからそういうの嫌なんだよね。今までだってわりと一人でも平気だったし、そういうのはいらないと首を振って、僕は3人を置いて孤児院を出た。
孤児院は城と寄宿舎のちょうど間くらいにあって、さほど遠くもない。時間的にはもうイグサルさん達も戻って来ているはずの時間だし……と僕が歩いて行くと、寄宿舎の入り口前に見知った顔。
「げ……」
思わず眉を顰めると「そんなにあからさまに嫌そうな顔をする事ないじゃないか」と苦笑された。
「仕方がないでしょう、今までの自分の行いを顧みてくださいよ」
入り口の前にいたのはイグサルさんの従兄弟のトーマス・トールマンさん。僕のストーカーだ。
「今日はいつもの腰ぎんちゃくはいないのか?」
「そういう言い方止めてもらえます? 僕、忙しいので失礼します」
彼の脇をすり抜けて寄宿舎に入ろうと思ったのだが「そんなつれない事言うなよ」と腕を取られた。
「お前は俺の『運命』だろう?」
「僕、それ何度も何度も何度も否定しましたよね!? 僕の番相手は一人だけ、それにもう既に番になっていて、とてもラブラブなんで放っておいてください! 勝手な妄想でそういう事言われるの、ホント迷惑!!」
肩を抱かれて抱き寄せられる。顔が近くて鳥肌が立った。
ここ最近はユリウス兄さんかイグサルさんのどちらかが常に必ず傍に居てくれたおかげで、こんな事はなかったのだけれど、そういえばこの人ちょっと(いや、だいぶ?)危ない人だった!
「止めてくださいって言ってるでしょう!」
僕は彼の身体を押し退けようと腕を突っ張るのだが、トーマスさんの腕は弛まない。ある程度育ったとはいえ、僕はまだまだ若輩で、年長のしかも僕よりずいぶん体格のいい彼に力で勝つ事はできないのだ。
「本物の『運命の番』ならば、たとえ別の人間と番契約を結んでいた後だとしても、その契約は破棄、上書きできる」
そう言って、彼の指が僕の項を撫で上げた。僕の腕には更に鳥肌が立った。
「嫌ですよ! それにそんな事絶対ありえないですからっ!!」
「お前の番相手、ツキノ・デルクマンだったよな? 女みたいな顔をしたチビだろう? お前に相応しいとは思えないんだがな。それはお前だって分かっているだろう?」
「勝手な事言わないでください! 相応しいって何ですか!? 僕が分かっているのはツキノが僕にとっては唯一絶対の僕のアルファだって事だけですよ!」
勝手な言い分で彼はぐいぐいと身体を密着させてくるので、僕は本当に嫌で嫌で仕方がない。けれど、彼はまるで意に介さず僕を壁に押し付けた。
「いい加減に認めたらどうだ?」
「一体何を認めろって言うんですか!? 僕は貴方の事が嫌いだと言っているんですよ! 絶対ありえないですけど、例えもしツキノが番相手じゃなかったとしても、僕は貴方だけは絶対に選ばない!」
そもそも僕はこういう身勝手な人間が本当に嫌いなんだ。僕の両親もとても身勝手な2人で、ある意味彼等は反面教師だ。僕はナダールおじさんのような人間になりたい、そういう生き方をしていきたいと思っている、そんな僕に彼が相応しい訳がない!
トーマスさんの眉間に不機嫌そうな皺が刻まれる。そんな顔したって嫌なモノは嫌だし、これまでだって僕は散々否定してきているんだ、それを右から左に聞き流して纏わり付いてきていたのは彼の方で、今更不機嫌になられても本当に困る。
僕の腕を掴んでいた彼の指の力がきつくなった。
「だったら実力行使だな。やってみれば分かる事だ」
「な……」
性差による差別の撤回が叫ばれる昨今、それでもオメガの立ち位置はまだまだ低くて、女性と同等もしくはそれ以下の扱いをされる事も珍しい事ではない。そんな扱いは無くしていこうというのが最近の主流の流れなのに、この人はそんな時流にも乗らず古い考えのままオメガをアルファの所有物と考える輩の一人だという事が彼の態度から見て取れる。
傲慢なアルファはオメガを傷付ける、自分の周りに居たアルファが皆、僕を一人の人間として平等に扱ってくれる人ばかりだったので、すっかり忘れていたが、これが一般的なアルファのオメガへの扱いなのだ。
「絶対に! い・や・で・すっ!!」
僕は渾身の力で彼の腕を振り払う、このままでは本気で何をされるか分からない。その時、よろけたトーマスが誰かにぶつかった。人がいたんだ、いたんなら助けてくれてもいいのに……と、僕が憮然としかけた時、トーマスにぶつかった相手が無言で彼の腕をナイフで斬りつけた。
一瞬何が起こっているのか分からなくて、僕は何度もそのナイフとトーマスの顔、そして無表情で刺した相手を順繰りと見比べてしまう。トーマス自身も何が起こったのか把握できないびっくり顔だったのだが、そのうちに自分の腕から血が流れてくるのを目の当たりにして顔を紅潮させた。
その怪我は大怪我というほどの物ではなく、騎士団で訓練をしていれば嫌でも受ける程度の軽傷ではあったが、それでも怪我は怪我だ。これは間違いなく傷害だ。
「お前誰だ! そんなモノを振り回して! 危ないだろう! 頭おかしいのか!?」
「……やかましい」
無表情の男の感情は見えない、僕を助けてくれようとしたのかも? と一瞬思ったりしたのだけど、違う、全然違う。この人そんな感じではない。しいて言うなら先程孤児院の奥で見た狂人の瞳、彼の瞳はそれに近い。
「やかましいんだよ、いちゃつくなら余所でやれ、こんな公衆の面前で煩わしくて仕方がない」
「な……だからと言って、刃物で斬りつけるとはどういう了見だ! 今はかすり傷ですんだが、一歩間違えば大怪我だ!」
「ガキが色気づくからだ」
「なんだと!」
「止めてよ、いちゃついてた訳じゃないけど、悪いのはこっちだ」
喧嘩になりそうな2人を僕は止める。本当はさっさと逃げ出したかったのだけど、ここで騒いでいたのは間違いではない。気に触ったのなら謝るしかない。
「なんだ、オメガの娘かと思ったら男か」
男はぎょろりとこちらを見やる。こんな風に言われるのは慣れている、別にいいよ、さっさとどっか行ってくれないかな……そっちが動かないならこっちが移動するだけだけどさ。
「行きましょう、ここではご迷惑です。僕もそろそろ貴方とはきっちり話を付けないといけないと思っていた所なんでちょうどいいです」
「なんだ、部屋に招待でもしてくれるのか?」
「気は進みませんけどね……」
溜息を吐くように僕が言うと、怪我の事も忘れたようにトーマスさんはにこにことそんな事を言うので呆れてしまう。
僕達が踵を返して、寄宿舎に入ろうとすると、トーマスさんを襲った男は不機嫌顔で「おい!」と怒鳴る。
「こっちの話しはまだ終わっちゃいねぇ!」
「騒いでいたのは謝ります。ごめんなさい、申し訳なかったです。あとはこちらの話し合いなので、もう御用はないと思いますが?」
「俺の気分が害されたままだ! 土下座して詫びろ! そっちの小僧もだ!」
え……めっちゃ理不尽。なんなのこいつ?
「さすがにこちらがそこまでする言われはない。謝罪は済んでる、とっとと帰れ」
うわぁ、あんたは謝ってない癖にそういう事言うんだ?! どっちもどっちで頭痛い。たぶんトーマスさんを襲った男もアルファなのだろう、アルファの人間は基本的にプライドが高い、人に頭を下げるのが大嫌いでそれはツキノも同じだ。稀にユリウス兄さんみたいな例外もいるけど、一度拗れると厄介なのがアルファ同士の喧嘩なのだ。
アルファの中には暗黙の了解的な格付けがあり、それはフェロモン量に比例する。ユリウス兄さんはその圧倒的なフェロモン量でへらりと笑いながらも周りから一目置かれてきていたからこんな事にはならなかったけど、今目の前の2人はたぶん同格、譲り合う気はなさそうだ。
もうやだ! すごく面倒くさい!!
「そのオメガ、こちらに渡したら許してやる」
しかも矛先こっちにきた!
「俺の女だ、渡すかよ」
どっから突っ込めばいいのかな!? あんたのじゃないし! 女じゃないし! まるで僕を取り合っての喧嘩みたいになっててすごく不快なんだけど! 言っとくけど、2人共僕のタイプじゃないからどっちも願い下げだよ!!
男2人はぎりぎりと睨み合う、いつしか周りにはギャラリーまで集まってきていて、とてもとても居たたまれない。
誰か助けて! せめてイグサルさんかミヅキさん、この際ウィルでもいいから出てきてよ!
「ホントもう、止めてください!」
睨み合いの続く中、誰かが通報したのか警備兵が駆けて来て2人を引き離す。複数人の警備兵がそれぞれに2人を連れ出し、もちろん当事者である僕も連行された。ホント迷惑!
「だから、あの人がナイフを振り回して襲ってきたんですよ!」
僕の言葉に警備の人はふむふむと頷いてくれたけど、なかなか取り調べは進まなくて、僕が解放されたのは小一時間が経った頃、僕はもうそれだけでげっそり疲れ果てていた。
解放されたのはトーマスさんも同じだったようで、どうやら目撃証言から襲い掛かったのは男の方からだったというのがはっきりしたかららしい。見ていた人がいたんならホント助けてくれたら良かったのに……
僕とトーマスさんは連れ立って歩き出す。本当はすごく嫌なんだけど仕方ない、一緒に解放された上に帰る場所が同じなんだから無視もできない。
「怪我は大丈夫ですか?」
「かすり傷だし、手当てもしてもらったからな、大丈夫だ」
「災難でしたね」
『貴方の場合は半分自業自得ですけど』という言葉は飲み込んだ僕を自分で褒めてやりたい。
「この街はイリヤに比べてずいぶん物騒な街なんだな。あんな風に無闇やたらに刃物を振り回す人間に出てこられたら、おちおち道も歩けない」
そこの所は同意しかない僕は無言で頷く。それにしてもあの男の瞳、何度思い返してもやはりあの孤児院で見かけた薬物中毒の子供達の瞳に似ている。どこか虚ろで何を映しているのか分からない濁った瞳だ。
薬物は貧しい家庭に広まっていると聞いている、あの男はアルファだった。アルファのいる家庭は総じてそこまで貧しくはない、だから薬物ではないと思いたいのだがどうにもやはりあの虚ろな瞳が子供達にダブる。
「どうした、カイト?」
「なんでもないです。それより僕はもう疲れました。貴方の相手をする気力もない」
「なら俺の部屋に来るか?」
「今の話から何でそうなるんですかね? 僕は帰りたいって言ってるんですよ」
「優しくするぞ?」
ホント、この人疲れる……
またしても問答無用で肩を抱かれた。
「だから、こういうのは止めてくれと何度も……」
「まさかお前も一緒に釈放されているとはな、この国の警護兵の取調べはざるなのか……」
え……? と思って顔を上げると、トーマスの背後に先程の男。やはり瞳は虚ろなままで、体当たりするように彼の後ろに立っていた。
「な……」
「カイト……逃げろっっ……!」
トーマスさんに突き飛ばされて、僕はよろける。男の手に握られているのは一本の剣。その剣の先はトーマスさんの背中から腹の方へと抜けている。
非現実的な光景に目が離せない。
ゆっくり、ゆっくりトーマスさんの腹から剣が抜けていくのを、僕は呆然と見守る。だって、今目の前で起こっている事が現実だと思えない。
剣先に滴る血がはっきり見えた。
一体何が起こっている? これはなんだ? こいつはなんだ?!
トーマスさんの身体が傾いで倒れた。
「うあぁぁぁあぁぁぁ!!!」
言葉にならない悲鳴が零れる、恐怖と怒りと疑問がない混ぜになって言葉がうまく出てこない。
次から次に事件が起こる、僕の許容範囲はとうに超えている、身体が震える。恐怖よりも怒りで目の前が赤く染まった。
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