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番外編:お嫁においでよ
グロリアの独白
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物心付いた頃には私はもういわゆる「売春宿」という場所で暮らしていた。私を産んだ母親は私が幼い頃に死に、私を育てたのは母の同僚でもあった売春婦達だった。
彼女達は私をそこまで無碍にもしなかったが、決して優しい訳でもなかった。何故なら彼女達も自分達が食べていくのでいっぱいいっぱいで他人の子供に構っていられるほど裕福ではなかったからだ。
それでも私がその場所でなんとか死なずに生き延びられたのは、私が女でΩだったから。
女ならばそこである程度育てば客を取れる、Ωならば尚更に、αの客は金持ちが多い、私に優しくしておけば少しでもそのおこぼれに預かれるかもしれない、そんな打算の優しさの中で私は育っていった。
その頃の私には名前がなかった、母の付けた名前はあったと思うのだが、私はそれを覚えていない。
売春婦達は皆私を勝手な名前で呼んだ、それはまるでペットの相手でもしているように、その度ごとに名前が違った。だから私はそんな物はこの世の中でそんなに大した意味はないのだとそう思っていた。
初めてのヒートで客を取らされ、それはずいぶん高値で取り引きされたようで、しばらくの間お姉さん達の機嫌はすこぶる良かった。私の初めてを買った男を私はあまり覚えていないのだが、ずいぶん羽振りのいい男だったらしい。
転機が訪れたのはそれからしばらくしてから、私は何故か売春宿から連れ出された。どうやら私は誰かの専属で売りに出されたのだと気が付いたのは着の身着のまま売春宿から追い出され、馬車に乗せられた後だった。
身請けは売春婦にとっては地獄から救い出される唯一の手段だが、それが一概に地獄からの脱出とはいかない事を私も売春宿の女達も知っていた。それでも店を出る時には馴染みの姉さん達は「幸せにおなり」と私の頬を撫でた。
幸せ、私にはそれがどんなモノかが分からない。男に抱かれて貢がれて、それがあの世界の幸せだったのだが、たった一人を見つめて暮らさなければならない身請け後の生活は果たして幸せと言えるのだろうか? 私にはそれがどんな暮らしなのかも分かりはしなかった。
馬車に乗せられまず連れて行かれたのは、そこまで大きくもない一軒の屋敷だった。私を買った男はずいぶん金持ちだと聞いていたので私は些か驚いた。
男は私を連れ出す時も、馬車の中でも家に着いても私に興味があるようには見えなかった。
屋敷の中に連れ込まれ、まず最初にされたのは風呂に浸けられ洗われて、綺麗な服に着替えさせられた。そして次にされたのが、私が唯一誇っていられた長く綺麗な髪を切る事だった。
買われた身分で否やを言う事してはいけないと分かっていても、私はとても悲しかった。
髪は女の命だと売春宿のお姉さん達にも言われていた、短く髪を切り揃えられた私はまるで少年のようで、女としての尊厳も踏みにじられた。
『お前の名前は今日からグノーシスだ』
私を買った男は私に向かってそう言った。『グノーシス』その名は女性名だっただろうか? けれど自分は己を顧みて、自分は男として買われたのだとそう悟った。
確かに私は貧弱な体つきではあったが、少年として身請けをされたとは思いもせず、私は酷く傷付いた。
そして私を買った男もまたずいぶん特殊な性癖の持ち主なのだな、と今後の生活を憂えた。
別に普通に生活をさせてもらえれば文句を言う筋合いもない、だって私は金で買われたのだ、私を好きにする権利が主人にはある、だから私はそれに一言の文句も言わずに頷いたのだ。
男はその後、私に一通りの行儀作法を叩き込んだ。何の為にそんな事をされているのか私にはさっぱり分からなかったのだが、それでも私はやはり黙って彼の言う事に従った。
酷い事をされる訳ではない、ご飯もちゃんと三食食べさせてくれる、寝床もふかふかのベッドで、部屋も個室を用意してくれた、私には否を言う理由がなかった。
売春宿の娼婦を買ったのだ、夜にはそういう事もあるのだろうと思っていたのだが、彼は私には一切手を出さなかった、それは娼婦の身としてはずいぶんプライドを傷付けられたが、1人の人間としては安堵もしていた。私は抱かれるのが好きではない、股を開けば金を貰えた、生活の為にそれはしていた事で、好き好んで男に抱かれていたわけではないのだ。
『グノーシス、今日からお前は城に奉公に上がる』
それを言われた時、私は言葉も出なかった? お城? 奉公? 私が? 何の為に?
少年のような格好をさせられ、少年の立ち居振る舞いを覚えさせられた、それは彼の性癖にそったものでそれ以外の意味などないと思っていたのに、まさかの奉公に私は困惑する。
『お前は黙って私の言う通りに行動すればいい、大丈夫だ、命を取られる事はない』
男は淡々とそう言った。
私を買った男。名前をリーフ・スフラウトという。別段特別変わった男ではない、けれど私は彼が何をしようとしているのかさっぱり分からなかった。
私はしばらくして城に連れて行かれた。リーフは言う、今から私が会う男はお前の兄になる男だ、と。
「兄?」
「あぁ、彼はお前をグノーシスと呼ぶだろう、だから君は彼を『兄さま』と呼べばいい」
全く意味が分からない。けれどリーフはそれ以上の事は何も語らず、私は城に連れて行かれ、引き合わされたのは1人の不機嫌顔の男だった。
背ばかり高いその男の顔色は悪く、瞳はぎらぎらとこちらを睨み付ける、私はその男を怖いと思ったのだが、彼は私を見ると驚いたような表情を見せ、リーフの言う通り私の事を『グノーシス』と呼んだ。
「グノーシス、我が最愛の弟、何処へ行っていた? 心配していたのだぞ?」
「兄さま、僕は……」
なんと言っていいのか分からなかった私はリーフの顔を見上げる、リーフは彼に幾つかの嘘を並べ、後は適当に話を合わせろと私を彼の前に差し出した。
どうやら私が身請けされたのは娼婦としてではなくこの男の弟である本物の『グノーシス』の身代わりであったのだと、その時私は初めて気が付いた。
けれど、嘘を重ね、その男と共に過すうちに、自分は娼婦としての役割も買われていたのだという事にも気が付いた。グノーシスの兄、レリックは弟であるグノーシスをどうやら本気で愛していたようなのだ。
その頃には私は男の名前もさる事ながら、男の肩書きも知る事となる。
彼の名はファースト・メリア、この国の国王陛下だった。彼は私に自分の事を『レリック』と呼べとそう言った。それは他の誰にも呼ばせない、私だけが呼ぶ事を許された彼の名前だった。
「レリック兄さま、お忙しいですか? お体辛くないですか? 少し休憩されては如何ですか?」
彼は私の言う事をよく聞いた。リーフは何事か彼に進言したい時には必ず私の口を通した。そして彼は私から発せられた進言には否もなく大概の事は受け入れた。
私は、彼は国王陛下だと聞いていたし分かっていたのだが、まるで彼は傀儡のようだとそう思った。自分では何も決める事ができないあやつり人形、それは私にも似て、その意味もない舞台で私達は数年の日々を過した。
そして私はその傀儡のような国王陛下の傍らで過し続け、私は彼を愛してしまった。
レリック兄さまはとても優しい人だった。厳しい顔を見せる時もあったが、私の前では常に穏やかに微笑む心の優しい人だった。
彼は私をひたすらに愛してくれた。数年の歳月を城で過す間に私は彼に纏わるある程度の事情を理解した、彼は愛する弟『グノーシス』に逃げられたのだ。彼の弟は行方が知れない、私はその後釜に据えられた偽者の弟。
どうやら私の容姿は彼に似ているのだとそう聞いた。ここメリアで赤髪はそう珍しいものではないのだが、私のような紅眼は珍しいのだそうだ。彼の弟もそんな紅眼を持っていて、そして彼もまた私と同じΩだったと聞いた。
私は偽者の『グノーシス』それでも彼は私を愛してくれた。
売春宿育ちの私は常に飢えてもいたし、欲しい物が手に入らない生活は当たり前だった、けれど彼は私が望めば何でも私に与えてくれた。見た事もない玩具、食べた事もない美味しいお菓子、見たいと言えばどんな珍しい動物でも見せてくれた。
私はレリックに甘え、そんな私を諌めるのはいつもリーフだった。彼は私に言う『お前は所詮偽者で本物ではない、弁えろ』そんな事は分かっている、それでもレリックは私に望みを言えという、だから私は彼に甘え、そしてレリックも私を甘やかした。
ただひとつ、レリックは弟グノーシスを愛していたが、私を彼の変わりに抱こうとはしなかった。本物のグノーシスは彼の寵愛を欲しいままに愛されていたと聞いているのに、彼はそれだけは決してしなかった。私はそれが少し悲しかった。所詮やはり私は偽者なのだとそう言われている気がしたのだ。
私に更なる転機が訪れたのはもうすっかり私が城の暮らしに馴染んだ頃だった。
ある時から急に兄さまの態度が冷たくなった。いや、最初はそれほどでもなかったのだが、心ここにあらずといった風体でぼんやりする事が増え、少し心配していたらある時急に言われたのだ『偽者などもういらぬ』と。
まさに青天の霹靂、本物のグノーシスが見付かったと聞かされたのはその直後の事だった。
レリック兄さまは私を見なくなった、私の心は乱れ荒んでいった。
同時に現れたのが隣国からの客人、彼は本物のグノーシスの行方を知る人物として城に呼び寄せられたのだ。彼はいつしかそれまで私がいた場所を奪い、何故か彼の横で笑っていた。平凡な少年だった、なのにレリックは彼の前でそれまで私にしか見せなかった穏やかな笑みで彼の話に耳を傾けていた。
激しい焦燥、憤り、やり場のない悲しみ、色々なものがない混ぜになった感情、私はそんな気持ちを抱えたまま、城から連れ出された。私の役目は全て終わった。私は所詮偽者でしかない人間、何者にもなれない私はグノーシスという名前まで奪われて、そこには空っぽの私だけが残った。
私はリーフの家に連れ戻され、日々をただ無為に過していた。偽者のグノーシスという役目すら奪われた私にはもう何も残ってはいなかったから。
こんな事ならこの名を与えられた時に拒んでおけば良かった、そもそも身請けを断ればよかったのだ、こんな幸せな感情を知って苦しむくらいなら、幸せを知らぬままただ春を売っていた方が余程マシだった!
そんな時に私の前に現れたのが本物の『グノーシス』だった。まさか会う事があるとは思っていなかった、彼は何故かリーフと知り合いであったようで、ヒートを起し部屋に籠る私の前に現れたのだ。
初めて対面した彼は言うほど私には似ていなかった、彼の首を絞める私に彼は「その程度じゃ人は死ねない」と悲しい顔でそう言った。
彼は何故兄を捨てたのか、私には分からない、レリックはとても優しい人だった、私を大事にしてくれた、それはそのまま全部貴方の物だったのに、それを全部捨て去って彼の元から逃げ出したグノーシスを私は理解できなかった。
「今日から君をグロリアと呼ぶ事にする」
突然リーフにそんな事を言われて驚いた。私は何者でもない、与えられた名前は全てが私の物ではなかった、そんな私に彼は名前を与えたのだ。
「なんで……?」
「お気に召さないかな? 私にはあまりセンスがない、もしもっと他にいい名前があるならそれでもいいのだけど……」
躊躇うように彼は言う。何故この人は私に名を付けようと思ったのだろう? 利用するだけ利用して、王に捨てられたのなら私はもうお払い箱のはずだ。近いうちに私はまた売春宿に戻されるのかと思っていたのに、そんな彼の提案に私は困惑を隠せずに「なんでもいい」とそう言った。
そして私はその日から「グロリア」という名前になったのだ。
リーフは何も言わなかった。彼の家で私はただ無為に過していた。
彼の家族は私に干渉しなかった、何の役にも立たない1人の女、本来ならば捨てられてその辺で野たれ死んでも仕方のない身の上なのに、彼等は私に衣食住を与え、何をせずとも養ってくれた。
彼の母親は殊の外私を可愛がってくれた。リーフと彼の父親は仕事で出ている事が多かったので家でただぼんやりと過している私と接点が一番多かったのが彼の母親だったからだ。
「私ね、娘も欲しかったの」
そう言って、彼女は私に可愛らしい服を着せ、髪を梳かして綺麗に結い上げてくれる。私の髪は城を追い出されてからは伸び放題のぼさぼさで、そんな私の髪を彼女は「綺麗な髪ね」と褒めてくれた。
そんな事を他人から言われた事などなかった私は戸惑った。
売春宿では女らしさは武器でしかなく、人より秀でた所を褒めあう事などなかった、むしろ劣った所を罵りあうのが日常で、私はそれに驚いたのだ。
「そんなの初めて言われた……」
「あら、そうなの? こんなに綺麗で可愛いのに、誰も言わなかったの? うちの子はそういう褒め言葉も出てこない無骨者でごめんなさいね」
何故謝られるのか分からない、彼女が何故私に優しくしてくれるのかも分からない。
けれど私はそんな彼女の優しさに泣いてしまいそうだった。
「グロリアちゃん、良かったらおばさんとお出かけしない? 私、娘とお買い物ってしてみたかったの、駄目かしら?」
彼女は笑顔でそう言った。私みたいな娼婦相手に何故そんな笑みを見せるのか、私はそれにも戸惑った。
「僕なんかといたら、おばさんが変な目で見られるよ……」
「あらなんで? グロリアちゃんは可愛いもの、羨ましがられはしても、そんな変な目で見られる事なんてないわよ」
「でも僕は……おばさんだって知ってるだろ?」
私はグノーシスとして過した期間が長くて、その頃話し方も少年のようだった。直した方がいいとも思ったのだが、そんな気にならなかったのだ。その当時私はまだグノーシスという存在に未練があった。
「誰もそんな事気にしないわよ。それに誰も知りはしない。グロリアちゃんはここで生まれた私の娘、昔の事なんて忘れてしまえばいいのよ」
「……娘?」
「そうよぉ、おばさんはグロリアちゃんのお母さんになったの、だからグロリアちゃんは私の娘」
そんな話しは聞いていない私は戸惑った。
「なんで……?」
「グロリアちゃんはここにいるでしょ、息子が連れてきて今日から家族だと言ったから、グロリアちゃんはうちの家族なのよ」
「家族……」
そんな物、私は知りもしない。母の存在ですらおぼろげで、家族なんて存在すらしていなかったのに。
「家に籠りきりなんて勿体ないわ、ね、行きましょう」
そう言っておばさんは私を外に連れ出した。売春宿育ちの私は外の世界をほとんど知らない、身請けをされて城に召し上げられ、結局そこを出てからも外の世界には触れられなかった。
「奥さんその娘は? 見ない娘だけど、偉い別嬪だね」
「うふふ、うちの娘、可愛いでしょ」
「あれ、そうだったのかい、こりゃ驚いた」
馴染みの店なのだろう気さくに声をかけられたおばさんは何の躊躇もなくそう答え、店の住人も何の疑問も持たずに笑みを見せた。
「嬢ちゃん、名前は?」
「え、あ……グロリア……」
「はぁ、名前まで別嬪だね、別嬪さんにはこれも付けるよ、どうだい安いよ、買ってきな」
「あらあらおじさん商売上手ね、でもいいわ、今日の晩御飯にしましょうね」
店の店主からお世辞の言葉をかけられたのだと、ようやくその時気が付いた。
蔑まれる事も、嫌悪の目を向けられる事もなく普通の客として対応して貰えた。幾つかの店を回って買い物を終える。家に帰ると「もしまだ疲れていないようなら料理を手伝って」とおばさんに声をかけられた。
本来下働きとしてこき使われていても仕方のない身で、そういえば今までそんな事を一言も言われた事がない事に気が付いた。私は慌てて頷いた。
「あら、グロリアちゃん、上手ねぇ」
売春宿でも料理はさせられていた、やって当たり前の家事だったのに褒められた事に驚いた。帰ってきた彼女の夫と息子に、彼女は「今日はグロリアちゃんの手料理よ」と食事を出してくれて、そんな事言わなくてもいいのにと思う私は身を小さくしていたのだけど、彼等は一様に「美味しい」とそれを食べてくれた。
日々は淡々と過ぎていく、リーフの母親は本当にまるで私を娘であるかのように扱ってくれた。私はいつしか、彼女を真似て少年グノーシスから元の女の自分へと戻っていった。
「グロリア、少し話しがあるんだが」
そんな風に数年を過したある日リーフに言われて私は彼の部屋へと赴いた。
「何の話です?」
私はリーフが少し苦手だ。寡黙で多くを語らない、そこにいても害にはならないが、2人きりだと居心地が悪い。
「うむ、もしお前がいいと言えばの話なのだがな、うちの両親も大概歳だし、そろそろ孫の顔を見せてやりたい。物は相談なのだが、グロリア、私の子を産んではくれまいか?」
まさに晴天の霹靂、何を言っているのか理解するのにずいぶん時間がかかった。
だって彼はそれまでそんな事は一言も言いはしなかったのだ、勿論そういう行為に及ぼうとした事もそれまで一度もなかったのだ。
「それは……どういう……?」
「ふむ、嫌でなければ結婚してくれないか、というプロポーズなのだが……」
けれど私はそれに素直に頷けない。彼等家族は大好きだ、私に居場所をくれた彼等を私は本当の家族のように思っている、けれどそこに恋愛感情的なものは一切なかった。リーフもまるで私を妹のように扱って、そんな事今まで一度だって言った事はなかったではないか!
「あ! もし他に好いた男がいるのなら、無理強いはしない。お前はうちの娘で、嫁にいきたい先があるのならスフラウト家としても必要な物は用意するしちゃんと嫁に出す覚悟はある、けれどもし……」
「……私が邪魔になりましたか?」
「え?」
「何の役にも立たない娼婦が我が物顔で家に居座り、せめて子を生むくらいの役に立てと、そうでなければ家を出ていけと、そういう意味ですか」
「なっ! なんでそうなるっ!! そんな訳あるかっ!」
「だったらなんで今そんな事を……」
「いや、本当に単純に両親に孫の顔を見せてやりたくてな……私はお前が好きなのだが、私は今のままでも構いはしないと思っていた。私はお前の一生を金で買った酷い男だが、買ったからにはお前の望む事をしてやりたいとも思っている。私のできる事は限りなく少ないが、それでもお前のいいようにと……」
私は彼の胸を叩いた。
「貴方は言葉が足りなさ過ぎる!」
城に上がっている間、私の配下のように付き従い続けたリーフ、この家に戻ってからは私の事を兄のように見守り続けたリーフ、そんな事今まで一度も言わなかった!
「私は貴方に金で買われた身です、貴方の好きにすればいい」
「いや、そういう訳にもいかないだろう、お前はお前で幸せになる権利はある」
「私は幸せでしたよ、この家に来てからずっと幸せです!」
一人ぼっちの私に家族をくれた、愛とはどんな物かを教えてくれた、途中辛い事もあるにはあったが彼等の温かさが私を救ってくれた。
「私を嫁になどして、貴方に後悔はないのですか? 私は娼婦なのですよ!」
「もう過去の事だ、お前が良いと言うのなら私の嫁になって欲しい」
私に否の言葉はない、買われた身でそれは分不相応だと知っているし、断る理由がない。
私達の結婚を彼等の両親はとても喜んでくれた、特におばさんは「これで本当にグロリアちゃんは私の娘ね」と私を抱き締めてくれた。
そして月日が流れ、今、私の腕の中には可愛らしい男の子がすやすやと眠っている。
「寝たか?」
「ふふ、ようやっと」
夫になったリーフは我が子の頬を優しく撫でる。まだ生まれてそれほど経ってはいない小さな小さな命の塊。
「あなた、私の我がままを聞いてくれて、ありがとうございます」
「ん? 何の事だ?」
「この子の名前、貴方にとってはそう嬉しくもないでしょうに……」
「あぁ、別に構いやしない、それに私にとってもその名は特別だ、私も思っていたのだよ、彼には幸せになって欲しかった」
生まれた我が子に私が付けた名前は「レリック」
夫は驚いたような顔はしたものの、何も言わずに頷いた。
私を初めて愛してくれた人、最後まで本当の愛を知らないままに亡くなった可哀想な人。
私はこの子を誰よりも愛すると誓っている。あの可哀想な人の身代わりという訳ではないけれど、それでもこの世界の中で幸せな「レリック」を私は育てたいとそう思ったのだ。
「愛しい、レリック、健やかに大きくなるんだよ」
最愛の夫は笑顔で我が子の頬を撫でる。
これは祈り、誰よりも愛される、幸せな子に。私はそれを願っている。
彼女達は私をそこまで無碍にもしなかったが、決して優しい訳でもなかった。何故なら彼女達も自分達が食べていくのでいっぱいいっぱいで他人の子供に構っていられるほど裕福ではなかったからだ。
それでも私がその場所でなんとか死なずに生き延びられたのは、私が女でΩだったから。
女ならばそこである程度育てば客を取れる、Ωならば尚更に、αの客は金持ちが多い、私に優しくしておけば少しでもそのおこぼれに預かれるかもしれない、そんな打算の優しさの中で私は育っていった。
その頃の私には名前がなかった、母の付けた名前はあったと思うのだが、私はそれを覚えていない。
売春婦達は皆私を勝手な名前で呼んだ、それはまるでペットの相手でもしているように、その度ごとに名前が違った。だから私はそんな物はこの世の中でそんなに大した意味はないのだとそう思っていた。
初めてのヒートで客を取らされ、それはずいぶん高値で取り引きされたようで、しばらくの間お姉さん達の機嫌はすこぶる良かった。私の初めてを買った男を私はあまり覚えていないのだが、ずいぶん羽振りのいい男だったらしい。
転機が訪れたのはそれからしばらくしてから、私は何故か売春宿から連れ出された。どうやら私は誰かの専属で売りに出されたのだと気が付いたのは着の身着のまま売春宿から追い出され、馬車に乗せられた後だった。
身請けは売春婦にとっては地獄から救い出される唯一の手段だが、それが一概に地獄からの脱出とはいかない事を私も売春宿の女達も知っていた。それでも店を出る時には馴染みの姉さん達は「幸せにおなり」と私の頬を撫でた。
幸せ、私にはそれがどんなモノかが分からない。男に抱かれて貢がれて、それがあの世界の幸せだったのだが、たった一人を見つめて暮らさなければならない身請け後の生活は果たして幸せと言えるのだろうか? 私にはそれがどんな暮らしなのかも分かりはしなかった。
馬車に乗せられまず連れて行かれたのは、そこまで大きくもない一軒の屋敷だった。私を買った男はずいぶん金持ちだと聞いていたので私は些か驚いた。
男は私を連れ出す時も、馬車の中でも家に着いても私に興味があるようには見えなかった。
屋敷の中に連れ込まれ、まず最初にされたのは風呂に浸けられ洗われて、綺麗な服に着替えさせられた。そして次にされたのが、私が唯一誇っていられた長く綺麗な髪を切る事だった。
買われた身分で否やを言う事してはいけないと分かっていても、私はとても悲しかった。
髪は女の命だと売春宿のお姉さん達にも言われていた、短く髪を切り揃えられた私はまるで少年のようで、女としての尊厳も踏みにじられた。
『お前の名前は今日からグノーシスだ』
私を買った男は私に向かってそう言った。『グノーシス』その名は女性名だっただろうか? けれど自分は己を顧みて、自分は男として買われたのだとそう悟った。
確かに私は貧弱な体つきではあったが、少年として身請けをされたとは思いもせず、私は酷く傷付いた。
そして私を買った男もまたずいぶん特殊な性癖の持ち主なのだな、と今後の生活を憂えた。
別に普通に生活をさせてもらえれば文句を言う筋合いもない、だって私は金で買われたのだ、私を好きにする権利が主人にはある、だから私はそれに一言の文句も言わずに頷いたのだ。
男はその後、私に一通りの行儀作法を叩き込んだ。何の為にそんな事をされているのか私にはさっぱり分からなかったのだが、それでも私はやはり黙って彼の言う事に従った。
酷い事をされる訳ではない、ご飯もちゃんと三食食べさせてくれる、寝床もふかふかのベッドで、部屋も個室を用意してくれた、私には否を言う理由がなかった。
売春宿の娼婦を買ったのだ、夜にはそういう事もあるのだろうと思っていたのだが、彼は私には一切手を出さなかった、それは娼婦の身としてはずいぶんプライドを傷付けられたが、1人の人間としては安堵もしていた。私は抱かれるのが好きではない、股を開けば金を貰えた、生活の為にそれはしていた事で、好き好んで男に抱かれていたわけではないのだ。
『グノーシス、今日からお前は城に奉公に上がる』
それを言われた時、私は言葉も出なかった? お城? 奉公? 私が? 何の為に?
少年のような格好をさせられ、少年の立ち居振る舞いを覚えさせられた、それは彼の性癖にそったものでそれ以外の意味などないと思っていたのに、まさかの奉公に私は困惑する。
『お前は黙って私の言う通りに行動すればいい、大丈夫だ、命を取られる事はない』
男は淡々とそう言った。
私を買った男。名前をリーフ・スフラウトという。別段特別変わった男ではない、けれど私は彼が何をしようとしているのかさっぱり分からなかった。
私はしばらくして城に連れて行かれた。リーフは言う、今から私が会う男はお前の兄になる男だ、と。
「兄?」
「あぁ、彼はお前をグノーシスと呼ぶだろう、だから君は彼を『兄さま』と呼べばいい」
全く意味が分からない。けれどリーフはそれ以上の事は何も語らず、私は城に連れて行かれ、引き合わされたのは1人の不機嫌顔の男だった。
背ばかり高いその男の顔色は悪く、瞳はぎらぎらとこちらを睨み付ける、私はその男を怖いと思ったのだが、彼は私を見ると驚いたような表情を見せ、リーフの言う通り私の事を『グノーシス』と呼んだ。
「グノーシス、我が最愛の弟、何処へ行っていた? 心配していたのだぞ?」
「兄さま、僕は……」
なんと言っていいのか分からなかった私はリーフの顔を見上げる、リーフは彼に幾つかの嘘を並べ、後は適当に話を合わせろと私を彼の前に差し出した。
どうやら私が身請けされたのは娼婦としてではなくこの男の弟である本物の『グノーシス』の身代わりであったのだと、その時私は初めて気が付いた。
けれど、嘘を重ね、その男と共に過すうちに、自分は娼婦としての役割も買われていたのだという事にも気が付いた。グノーシスの兄、レリックは弟であるグノーシスをどうやら本気で愛していたようなのだ。
その頃には私は男の名前もさる事ながら、男の肩書きも知る事となる。
彼の名はファースト・メリア、この国の国王陛下だった。彼は私に自分の事を『レリック』と呼べとそう言った。それは他の誰にも呼ばせない、私だけが呼ぶ事を許された彼の名前だった。
「レリック兄さま、お忙しいですか? お体辛くないですか? 少し休憩されては如何ですか?」
彼は私の言う事をよく聞いた。リーフは何事か彼に進言したい時には必ず私の口を通した。そして彼は私から発せられた進言には否もなく大概の事は受け入れた。
私は、彼は国王陛下だと聞いていたし分かっていたのだが、まるで彼は傀儡のようだとそう思った。自分では何も決める事ができないあやつり人形、それは私にも似て、その意味もない舞台で私達は数年の日々を過した。
そして私はその傀儡のような国王陛下の傍らで過し続け、私は彼を愛してしまった。
レリック兄さまはとても優しい人だった。厳しい顔を見せる時もあったが、私の前では常に穏やかに微笑む心の優しい人だった。
彼は私をひたすらに愛してくれた。数年の歳月を城で過す間に私は彼に纏わるある程度の事情を理解した、彼は愛する弟『グノーシス』に逃げられたのだ。彼の弟は行方が知れない、私はその後釜に据えられた偽者の弟。
どうやら私の容姿は彼に似ているのだとそう聞いた。ここメリアで赤髪はそう珍しいものではないのだが、私のような紅眼は珍しいのだそうだ。彼の弟もそんな紅眼を持っていて、そして彼もまた私と同じΩだったと聞いた。
私は偽者の『グノーシス』それでも彼は私を愛してくれた。
売春宿育ちの私は常に飢えてもいたし、欲しい物が手に入らない生活は当たり前だった、けれど彼は私が望めば何でも私に与えてくれた。見た事もない玩具、食べた事もない美味しいお菓子、見たいと言えばどんな珍しい動物でも見せてくれた。
私はレリックに甘え、そんな私を諌めるのはいつもリーフだった。彼は私に言う『お前は所詮偽者で本物ではない、弁えろ』そんな事は分かっている、それでもレリックは私に望みを言えという、だから私は彼に甘え、そしてレリックも私を甘やかした。
ただひとつ、レリックは弟グノーシスを愛していたが、私を彼の変わりに抱こうとはしなかった。本物のグノーシスは彼の寵愛を欲しいままに愛されていたと聞いているのに、彼はそれだけは決してしなかった。私はそれが少し悲しかった。所詮やはり私は偽者なのだとそう言われている気がしたのだ。
私に更なる転機が訪れたのはもうすっかり私が城の暮らしに馴染んだ頃だった。
ある時から急に兄さまの態度が冷たくなった。いや、最初はそれほどでもなかったのだが、心ここにあらずといった風体でぼんやりする事が増え、少し心配していたらある時急に言われたのだ『偽者などもういらぬ』と。
まさに青天の霹靂、本物のグノーシスが見付かったと聞かされたのはその直後の事だった。
レリック兄さまは私を見なくなった、私の心は乱れ荒んでいった。
同時に現れたのが隣国からの客人、彼は本物のグノーシスの行方を知る人物として城に呼び寄せられたのだ。彼はいつしかそれまで私がいた場所を奪い、何故か彼の横で笑っていた。平凡な少年だった、なのにレリックは彼の前でそれまで私にしか見せなかった穏やかな笑みで彼の話に耳を傾けていた。
激しい焦燥、憤り、やり場のない悲しみ、色々なものがない混ぜになった感情、私はそんな気持ちを抱えたまま、城から連れ出された。私の役目は全て終わった。私は所詮偽者でしかない人間、何者にもなれない私はグノーシスという名前まで奪われて、そこには空っぽの私だけが残った。
私はリーフの家に連れ戻され、日々をただ無為に過していた。偽者のグノーシスという役目すら奪われた私にはもう何も残ってはいなかったから。
こんな事ならこの名を与えられた時に拒んでおけば良かった、そもそも身請けを断ればよかったのだ、こんな幸せな感情を知って苦しむくらいなら、幸せを知らぬままただ春を売っていた方が余程マシだった!
そんな時に私の前に現れたのが本物の『グノーシス』だった。まさか会う事があるとは思っていなかった、彼は何故かリーフと知り合いであったようで、ヒートを起し部屋に籠る私の前に現れたのだ。
初めて対面した彼は言うほど私には似ていなかった、彼の首を絞める私に彼は「その程度じゃ人は死ねない」と悲しい顔でそう言った。
彼は何故兄を捨てたのか、私には分からない、レリックはとても優しい人だった、私を大事にしてくれた、それはそのまま全部貴方の物だったのに、それを全部捨て去って彼の元から逃げ出したグノーシスを私は理解できなかった。
「今日から君をグロリアと呼ぶ事にする」
突然リーフにそんな事を言われて驚いた。私は何者でもない、与えられた名前は全てが私の物ではなかった、そんな私に彼は名前を与えたのだ。
「なんで……?」
「お気に召さないかな? 私にはあまりセンスがない、もしもっと他にいい名前があるならそれでもいいのだけど……」
躊躇うように彼は言う。何故この人は私に名を付けようと思ったのだろう? 利用するだけ利用して、王に捨てられたのなら私はもうお払い箱のはずだ。近いうちに私はまた売春宿に戻されるのかと思っていたのに、そんな彼の提案に私は困惑を隠せずに「なんでもいい」とそう言った。
そして私はその日から「グロリア」という名前になったのだ。
リーフは何も言わなかった。彼の家で私はただ無為に過していた。
彼の家族は私に干渉しなかった、何の役にも立たない1人の女、本来ならば捨てられてその辺で野たれ死んでも仕方のない身の上なのに、彼等は私に衣食住を与え、何をせずとも養ってくれた。
彼の母親は殊の外私を可愛がってくれた。リーフと彼の父親は仕事で出ている事が多かったので家でただぼんやりと過している私と接点が一番多かったのが彼の母親だったからだ。
「私ね、娘も欲しかったの」
そう言って、彼女は私に可愛らしい服を着せ、髪を梳かして綺麗に結い上げてくれる。私の髪は城を追い出されてからは伸び放題のぼさぼさで、そんな私の髪を彼女は「綺麗な髪ね」と褒めてくれた。
そんな事を他人から言われた事などなかった私は戸惑った。
売春宿では女らしさは武器でしかなく、人より秀でた所を褒めあう事などなかった、むしろ劣った所を罵りあうのが日常で、私はそれに驚いたのだ。
「そんなの初めて言われた……」
「あら、そうなの? こんなに綺麗で可愛いのに、誰も言わなかったの? うちの子はそういう褒め言葉も出てこない無骨者でごめんなさいね」
何故謝られるのか分からない、彼女が何故私に優しくしてくれるのかも分からない。
けれど私はそんな彼女の優しさに泣いてしまいそうだった。
「グロリアちゃん、良かったらおばさんとお出かけしない? 私、娘とお買い物ってしてみたかったの、駄目かしら?」
彼女は笑顔でそう言った。私みたいな娼婦相手に何故そんな笑みを見せるのか、私はそれにも戸惑った。
「僕なんかといたら、おばさんが変な目で見られるよ……」
「あらなんで? グロリアちゃんは可愛いもの、羨ましがられはしても、そんな変な目で見られる事なんてないわよ」
「でも僕は……おばさんだって知ってるだろ?」
私はグノーシスとして過した期間が長くて、その頃話し方も少年のようだった。直した方がいいとも思ったのだが、そんな気にならなかったのだ。その当時私はまだグノーシスという存在に未練があった。
「誰もそんな事気にしないわよ。それに誰も知りはしない。グロリアちゃんはここで生まれた私の娘、昔の事なんて忘れてしまえばいいのよ」
「……娘?」
「そうよぉ、おばさんはグロリアちゃんのお母さんになったの、だからグロリアちゃんは私の娘」
そんな話しは聞いていない私は戸惑った。
「なんで……?」
「グロリアちゃんはここにいるでしょ、息子が連れてきて今日から家族だと言ったから、グロリアちゃんはうちの家族なのよ」
「家族……」
そんな物、私は知りもしない。母の存在ですらおぼろげで、家族なんて存在すらしていなかったのに。
「家に籠りきりなんて勿体ないわ、ね、行きましょう」
そう言っておばさんは私を外に連れ出した。売春宿育ちの私は外の世界をほとんど知らない、身請けをされて城に召し上げられ、結局そこを出てからも外の世界には触れられなかった。
「奥さんその娘は? 見ない娘だけど、偉い別嬪だね」
「うふふ、うちの娘、可愛いでしょ」
「あれ、そうだったのかい、こりゃ驚いた」
馴染みの店なのだろう気さくに声をかけられたおばさんは何の躊躇もなくそう答え、店の住人も何の疑問も持たずに笑みを見せた。
「嬢ちゃん、名前は?」
「え、あ……グロリア……」
「はぁ、名前まで別嬪だね、別嬪さんにはこれも付けるよ、どうだい安いよ、買ってきな」
「あらあらおじさん商売上手ね、でもいいわ、今日の晩御飯にしましょうね」
店の店主からお世辞の言葉をかけられたのだと、ようやくその時気が付いた。
蔑まれる事も、嫌悪の目を向けられる事もなく普通の客として対応して貰えた。幾つかの店を回って買い物を終える。家に帰ると「もしまだ疲れていないようなら料理を手伝って」とおばさんに声をかけられた。
本来下働きとしてこき使われていても仕方のない身で、そういえば今までそんな事を一言も言われた事がない事に気が付いた。私は慌てて頷いた。
「あら、グロリアちゃん、上手ねぇ」
売春宿でも料理はさせられていた、やって当たり前の家事だったのに褒められた事に驚いた。帰ってきた彼女の夫と息子に、彼女は「今日はグロリアちゃんの手料理よ」と食事を出してくれて、そんな事言わなくてもいいのにと思う私は身を小さくしていたのだけど、彼等は一様に「美味しい」とそれを食べてくれた。
日々は淡々と過ぎていく、リーフの母親は本当にまるで私を娘であるかのように扱ってくれた。私はいつしか、彼女を真似て少年グノーシスから元の女の自分へと戻っていった。
「グロリア、少し話しがあるんだが」
そんな風に数年を過したある日リーフに言われて私は彼の部屋へと赴いた。
「何の話です?」
私はリーフが少し苦手だ。寡黙で多くを語らない、そこにいても害にはならないが、2人きりだと居心地が悪い。
「うむ、もしお前がいいと言えばの話なのだがな、うちの両親も大概歳だし、そろそろ孫の顔を見せてやりたい。物は相談なのだが、グロリア、私の子を産んではくれまいか?」
まさに晴天の霹靂、何を言っているのか理解するのにずいぶん時間がかかった。
だって彼はそれまでそんな事は一言も言いはしなかったのだ、勿論そういう行為に及ぼうとした事もそれまで一度もなかったのだ。
「それは……どういう……?」
「ふむ、嫌でなければ結婚してくれないか、というプロポーズなのだが……」
けれど私はそれに素直に頷けない。彼等家族は大好きだ、私に居場所をくれた彼等を私は本当の家族のように思っている、けれどそこに恋愛感情的なものは一切なかった。リーフもまるで私を妹のように扱って、そんな事今まで一度だって言った事はなかったではないか!
「あ! もし他に好いた男がいるのなら、無理強いはしない。お前はうちの娘で、嫁にいきたい先があるのならスフラウト家としても必要な物は用意するしちゃんと嫁に出す覚悟はある、けれどもし……」
「……私が邪魔になりましたか?」
「え?」
「何の役にも立たない娼婦が我が物顔で家に居座り、せめて子を生むくらいの役に立てと、そうでなければ家を出ていけと、そういう意味ですか」
「なっ! なんでそうなるっ!! そんな訳あるかっ!」
「だったらなんで今そんな事を……」
「いや、本当に単純に両親に孫の顔を見せてやりたくてな……私はお前が好きなのだが、私は今のままでも構いはしないと思っていた。私はお前の一生を金で買った酷い男だが、買ったからにはお前の望む事をしてやりたいとも思っている。私のできる事は限りなく少ないが、それでもお前のいいようにと……」
私は彼の胸を叩いた。
「貴方は言葉が足りなさ過ぎる!」
城に上がっている間、私の配下のように付き従い続けたリーフ、この家に戻ってからは私の事を兄のように見守り続けたリーフ、そんな事今まで一度も言わなかった!
「私は貴方に金で買われた身です、貴方の好きにすればいい」
「いや、そういう訳にもいかないだろう、お前はお前で幸せになる権利はある」
「私は幸せでしたよ、この家に来てからずっと幸せです!」
一人ぼっちの私に家族をくれた、愛とはどんな物かを教えてくれた、途中辛い事もあるにはあったが彼等の温かさが私を救ってくれた。
「私を嫁になどして、貴方に後悔はないのですか? 私は娼婦なのですよ!」
「もう過去の事だ、お前が良いと言うのなら私の嫁になって欲しい」
私に否の言葉はない、買われた身でそれは分不相応だと知っているし、断る理由がない。
私達の結婚を彼等の両親はとても喜んでくれた、特におばさんは「これで本当にグロリアちゃんは私の娘ね」と私を抱き締めてくれた。
そして月日が流れ、今、私の腕の中には可愛らしい男の子がすやすやと眠っている。
「寝たか?」
「ふふ、ようやっと」
夫になったリーフは我が子の頬を優しく撫でる。まだ生まれてそれほど経ってはいない小さな小さな命の塊。
「あなた、私の我がままを聞いてくれて、ありがとうございます」
「ん? 何の事だ?」
「この子の名前、貴方にとってはそう嬉しくもないでしょうに……」
「あぁ、別に構いやしない、それに私にとってもその名は特別だ、私も思っていたのだよ、彼には幸せになって欲しかった」
生まれた我が子に私が付けた名前は「レリック」
夫は驚いたような顔はしたものの、何も言わずに頷いた。
私を初めて愛してくれた人、最後まで本当の愛を知らないままに亡くなった可哀想な人。
私はこの子を誰よりも愛すると誓っている。あの可哀想な人の身代わりという訳ではないけれど、それでもこの世界の中で幸せな「レリック」を私は育てたいとそう思ったのだ。
「愛しい、レリック、健やかに大きくなるんだよ」
最愛の夫は笑顔で我が子の頬を撫でる。
これは祈り、誰よりも愛される、幸せな子に。私はそれを願っている。
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