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番外編:お嫁においでよ
ワルの日
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「ママぁ、マ~マ、お・き・て~」
うつらうつらとソファーで船を漕いでいたらしい俺は娘に身体を揺さぶられ目を覚ました。
「え? あれ? ルイ?」
「ママぁ、ルイ、お腹減ったぁ」
言われて慌てて時刻を確認すれば、時間は夕暮れ時、そろそろ娘に晩御飯を食べさせなければならない時間だ。
「うわっ、何も準備してねぇ……」
洗濯物をよせて畳んで一息ついて、つい眠り込んでしまったらしい自分に慌てる。
現在二人目を妊娠中のグノーはよっこらせとソファーから身を起した。少し前までつわりが酷くて、うんうん唸っていた事を思えばずいぶん楽にはなったのだが、慌てて飛び起きると少しだけ目が回った。
「あ……これ、いかんやつだ……」
立ちくらみをどうにかやり過ごし、台所に立って食材を漁る。どうにかこうにか、料理が出揃ったのがそれから一時間後で、ルイが美味しそうにその晩御飯を食べている頃、匂いを嗅ぎつけて来たかのようにナダールも家に帰ってきた。
「とても、いい匂いですね。今日はシチューですか?」
「おお、おかえり」
「ん? まだルイも食事中でしたか、今日は少し遅いのですね」
「うっかり昼寝しちまって、寝過ごした。悪い、今、準備する」
「いいです、いいです、あなたは座っていてください。体調、まだあまりよくありませんか?」
心配そうな顔で覗き込んでくるナダールに俺は「いや」と首をふる。別にそこまで体調がすぐれない訳ではないのだが、少し疲れやすくはなっているのだと思うのだ。
少し前までは何も物が食べられなくなっていたくらいの酷いつわりがずいぶん楽にはなったのだが、如何せん身体が重くてうまく動けない。ルイの時には怪我をしていた事もあって家事のほとんどをナダールが担ってくれていた。
あの頃自分は甘やかされるようにただそんな彼の姿を見ていただけだったので、妊娠と家事の両立が意外と大変なのだという事に今更ながらに気が付いたばかりなのだ。
「体調が悪い訳じゃないんだ、ただ、ルイの時はほとんど寝たきりだったからな。どう体力配分をしていいのかよく分からない」
「あぁ、そういえばあの頃、あなたは一日の半分以上寝ていましたもんね……」
「そんなだったかなぁ?」
「気が付くといつも傍らで寝ているんですよ、あれは本当に可愛らしかったです」
何かを思い出したのであろう、ナダールが弛んだ笑みでこちらを見やる。
う~ん? 確かにあの頃は本当に眠くて眠くて、今思うとなんであんなに際限もなく寝入っていたのだろう? やはり体調の変化だったのだろうか? 今となってはよく分からない。
「もしかして、子供がお腹にいると眠くなってしまう体質なのかもしれませんね。ルイと2人では昼間はろくすっぽ休む事もできないでしょうし、休みの日はルイを連れて出掛けておきましょうか?」
「え……いいの? お前だって仕事あるのに」
「ルイと過す時間は私にとってご褒美みたいなものですし、それであなたが少しでも身体を休める事が出来るのなら一石二鳥だと思いませんか?」
にっこり笑顔のナダール、確かにゆっくり休ませてくれるのならそれに越した事はない。
「ありがとう」と頷くと、ナダールは優しく俺の頬を撫でてくれた。
翌日宣言通りナダールがルイを連れて出掛けて行ったので、俺は久しぶりに一人の時間を楽しむ事にした。ルイと二人で過す事を苦だと思った事もあまりないのだが、娘がいる事で出来ない事はたくさんある。
さて、何からやろうかな? と家の中を見回したらどうにも片付ききらない室内が気になって、少しだけと始めた掃除が思いのほか楽しくて、気が付いたらルイを連れたナダールが帰ってくる時間になっており「何をしているのですか?」と、ナダールに呆れられてしまった。
「ゆっくり休めと言ったのに、何故部屋の片付けなんてしているんですか?」
「え? えっと、なんか気になって?」
「今日はそういう事をする日じゃなかったでしょう? まったく……まぁ、それでも気になってしまったものは仕方がありませんね。確かに最近あまり片付けもできていませんでしたし」
「だろ? そういうのも地味にストレスになってるかもだから、間違った時間の使い方だった訳じゃない」
「それにしてもですね……」
やはり呆れたようなナダールに「次の休みは今度こそゆっくり休むのですよ」と、釘をさされて「はぁい」と俺は苦笑した。
ナダールの次の休みにはナダールが事前に部屋の片付けも家事も一通り片付けてから出かけて行った。なんだか行動を見透かされているみたいだ。
ソファーに座って呆けていても別に眠気がやってくる事もなく、浮いた時間をどうしていいのか途方に暮れた。一人で過ごす時間がこんなに長いと感じたのは初めてだし、今まで一人の時間をどうやって過していたのか思い出せない。
「ルイとナダールに会いたいなぁ……」
1人でいてもつまらない。ゆっくり休めばいいのに、何故か全く休まらない。義足の調整でもしようか? でもなんだかやる気も起きない。退屈、退屈、退屈だぞ!
そうだ、飯の仕度をしよう! 美味しいご馳走を用意して待っていれば、きっと2人も喜ぶに違いない。
そうとなったら……と台所に足を向けて、普段はあまり手が出せない少し手の込んだレシピを漁る。美味しくできたらいいのだけど。
「なんだか、とてもいい匂いですね」
「ママ、ただいまぁ」と飛び付いてきた娘を抱き上げ頬ずりをすると、ナダールは何故かまた少し苦笑の表情だ。
「ゆっくり休めと言っているのに……」
「1人でいても休まらない、何もする事がなくて何していいか分かんねぇんだもん」
少し不貞腐れたようにそう言ったら「難儀な人ですね」と、また苦笑された。
「ですが、このご馳走は食欲をそそられますね。ルイ、ちゃんと手を洗って。みんなで晩御飯にしましょうね」
そう言って囲んだ食卓は穏やかで、やっぱり家族で一緒に居るのが一番落ち着くんだなとそう思った。ルイが寝入った後にそんな話をナダールとしていたら「だったら今度は3人で、家でのんびりしましょうね」と、頭を撫でられた。
ナダールの傍が一番落ち着く、その証拠に彼の匂いに包まれていると、どうにもこうにも眠くなる。
「眠たいですか? ルイと同じように抱いてベッドまで運びましょうか?」
くすくすと笑うように言われてしまって「お前も一緒?」と小首を傾げたら「まだ寝るには少し早いですかね」と瞳を覗き込まれて、キスされた。
「お前が寝ないなら、まだ寝ない」
「意地を張らなくてもいいのですよ?」
「そうじゃなくて、お前がいなきゃ寝られないって言ってるの。このままベッドに運ばれたって、お前がいなくなった途端目が冴えちまう、だからいい」
「私はあなた専用の眠り薬か何かなんでしょうかね?」
膝の上に俺を抱え込み、おかしそうにナダールは笑う。
「寝ていていいですよ、私も眠くなったら一緒に寝ます」
そう言って自分にもたれかからせるようにして、ナダールは子守唄を歌いだした。これ、本当にずるいと思う。何故か俺はその優しい歌声に抗えた事が一度もないのだ。
言っても抗う必要なんて今はもうなくて、俺はそんな歌声とナダールの匂いに包まれてうつらうつらと眠りに落ちた。
次のナダールの休みの日、目が覚めると朝からナダールはルイを抱っこして夫婦のベッドの上にいた。
「これはどういう状況だ?」
「今日はワルの日です」
「ワルの日?」
そんな行事があっただろうか? と首を傾げると「今日は悪い事をしても無罪放免、何をしても許されるワルの日です」と、ナダールはにっこり笑った。
「なにそれ? 意味が分かんねぇ……」
「ルイ、いい子は朝起きたらまずは何をしなければいけませんか?」
「おはよう、で、お顔あらって、おきがえ!」
「そうです、ですが、今日はワルの日なので、やりません!」
ナダールの言葉に俺も驚いたのだが、ルイも驚いたのだろう「きゃー」と歓喜の声を上げた。そうだよな、いつも寝ぐずってめっちゃ嫌がるもんな……
「いい子はベッドでお菓子を食べたらどうなりますか?」
「おこらりる!」
「そうです! ですが今日はワルの日なので怒られません!」
更にルイは歓喜の声を上げて小躍りしそうなハイテンションだ。
「おい、ナダール……いいのか、それ?」
「今日はワルの日なのでOKです。ですが、普段からやったらめっ! ですよ。ルイは約束守れますか? 守れるのなら今日はやりたい事を好きにやっていいですよ」
「ワルの日、やるぅ! ルイね、ルイね、ここでご飯食べる~」
ルイの言葉にそれは既に分かっていたかのように、サイドテーブルにはサンドウィッチが乗っていて、それを手に持ったルイがベッドに上がってぱくりとそれに齧りついた。
朝にそれほど強くない娘が、朝からぐずりもせずに朝食を食べるのも珍しい。しかも満面の笑みでもぐもぐと、驚きすぎて開いた口が塞がらない。
「今日はワルの日なのでパパもワルです」
そう言って、ナダールは大きなベッドにごろりと横になって、もぐもぐと食事を続けている娘の頭を撫でた。娘がそんなパパに食べかけのサンドウィッチを差し出すと、ナダールはそれをぱくりと食べてしまう。そんなナダールの行動に娘のテンションは更に爆上がりで、収拾がつかない。
「おい、ナダール……」
「あなたも一緒にどうです? 美味しいですよ?」
「でもこれは……」
「今日だけの特別ですよ」
それが本来とても行儀の悪い事で、やってはいけない事だと分かっている行動なだけに、幼い子供の前でそんな事をしていいものかと、とても戸惑う。だが、ナダールは気に留めた様子もなくにこにこしているので、俺は諦めてベッド脇の壁に背を預けて腹を撫でた。
ナダールとルイはベッド周りできゃっきゃきゃっきゃと遊んでいて、平和だなぁ……と、俺はベッドに横になりながらそんな2人を眺めている。
何もしなくていいと言われたので、本当に何もせずに既に一日の半分が過ぎてしまった。
「眠かったら寝ていても大丈夫ですからね」
「うん……」
子供の賑やかな笑い声は大きくて、寝られるわけがないと思ったのだが、瞳を閉じてその声を聞いていたらだんだんに眠気が襲う。やっぱりちょっと疲れてたのかな?
いつしかすっかり寝入ってしまって、ふと目を覚ましたら部屋は静かになっていた。
あれ? と思って回りを見回したら、自分の胸元にはルイが小さく丸くなって一緒に寝ている。そして身動ぎをした俺に気が付いたのだろう「目が覚めましたか?」と、俺を背後から抱きこむようにしていたナダールが穏やかに笑っていた。
「よく寝られましたか?」
「うん、なんかすごくすっきりした」
「そんなに長時間寝ていた訳ではないのですけどね」
「そうなのか?」
「えぇ、ルイもまだお昼寝を始めたばかりです」
そうか……と、俺にそっくりなそのルイの赤髪を撫でると、幼い娘は笑みを浮かべて、むにゃむにゃと寝返りを打った。未熟児で生まれた娘がずいぶん元気に育ったものだ。
「なので、もう少しゆっくりしていて大丈夫ですよ」と、今度はナダールが俺の腹を優しく撫でる。
ナダールの匂いはやはり俺には安定剤のようによく効いて、肩の力が抜けた。
「少し、気を張ってたのかな……」
「ん?」
「俺、普通の暮らしがよく分からないし、ルイは未熟児でよその子より少し小さかっただろ? 目を離したらすぐにでも死ぬかもしれないって怖かったし、段々大きくなってきて安心もしてたけど、やっぱりちょっと不安で、二人きりの時は全然気が抜けないんだよ。俺の行動ひとつでこの子は簡単に死ぬんだと思ったらそれが怖くて、でもそれはきっと親になったらみんな一度は通る道で、しっかりしなきゃ、頑張らなきゃって、そう思ってた」
ナダールは俺の言葉をただ黙って聞いている。
「俺は普通がよく分からないけど、ルイに俺の変な所を知られたくないし、ルイには普通に育って欲しくて、色々がんじがらめになってる部分もあったのかな……2人目ができて、この腹の子はルイみたいに早産にならないようにって、思うし、でもルイは最近活発になってきて目も離せない。普通の時みたいに対応難しいし、身体重くて、ただでさえ片足なくなって反応悪くなってるのに、何かあったら怖いなぁ……って」
「そういう不安は胎教にも良くないのですよ。不安があるなら小さな事でも全部私に話してください」
「うん、だけどさ……」
自分は家で家事をしながら子供の面倒を見ているだけだけれど、ナダールは外で働いて自分達の食い扶持を稼いできてくれているのだと思えば、そんな些細な不安をわざわざナダールに告げるのも煩わせるだけかと思うのだ。
「だけどもへちまもありません、私が外で安心して働けるのは、家であなたが私達の生活を支えてくれているからです。疲れて帰ればご飯があって、綺麗な家の中で心穏やかに過せるのはあなたが頑張っているからです。そんなあなたが疲れてしまったら元も子もないでしょう? だからあなたは幾らでも私に頼ればいいのです。家庭というのはそういうものです。誰が欠けても成り立たない、違いますか?」
俺はぱちくりと瞳を開いてナダールを見やる。
「なに驚いたような顔しているんですか?」
「え……だって……」
一方的に俺がナダールに縋って生きているのだと思っていた。実際それはその通りで、今となっては彼が居なければどう生活していいのかも分からない。なのに、彼はそれは違うと俺に言うのだ。
「あなたがいて、私がいて、ルイがいて、このお腹の子がいる、それでここはひとつの家庭です。誰が欠けても駄目なのですよ。誰かが無理をして家が成り立っている家庭なんてのは家庭という名の牢獄ですよ。家族皆が笑って楽しく暮らせなければ意味がないでしょう? 私はそういう家庭を望んでいるので、1人で抱え込むのは止めてください」
「家庭という名の牢獄……」
目から鱗が落ちる。ナダールと暮らしているとこんな事がたびたび起こってびっくりする。自分の常識だと思っていた事がそうではなかったと気付かされる。確かに自分の育った家族と環境はナダールの言う『家庭』とは違っていて、どちらかと言えば『牢獄』に近かったと、そう思うのだ。誰にとっても居心地のいい家庭ではなかった、だからこそ、皆ばらばらになって崩壊した。
「ううぅ……」
「え!? ちょ……なんで泣くんですか!?」
「分か……ねぇ、けど……勝手に、出てくんだも……ん」
「泣かせたかった訳ではないのに」と、ナダールが俺の身体を抱き寄せる。
「何も心配も不安もないので、安心して元気な赤ちゃん産んでくださいね」
「うん、うん……」
そんなこんなで生まれた2人目ユリウスは、ルイより遥かに大きくて、しかも超安産で、しかもよく食べ、よく寝る子だった。育てやすいことこの上ない。
「お前もパパみたいにいい男に育てよ」と、瞳を細める俺の傍らには相変わらずナダールとルイがいて、幸せ過ぎて怖いくらいだ。
うつらうつらとソファーで船を漕いでいたらしい俺は娘に身体を揺さぶられ目を覚ました。
「え? あれ? ルイ?」
「ママぁ、ルイ、お腹減ったぁ」
言われて慌てて時刻を確認すれば、時間は夕暮れ時、そろそろ娘に晩御飯を食べさせなければならない時間だ。
「うわっ、何も準備してねぇ……」
洗濯物をよせて畳んで一息ついて、つい眠り込んでしまったらしい自分に慌てる。
現在二人目を妊娠中のグノーはよっこらせとソファーから身を起した。少し前までつわりが酷くて、うんうん唸っていた事を思えばずいぶん楽にはなったのだが、慌てて飛び起きると少しだけ目が回った。
「あ……これ、いかんやつだ……」
立ちくらみをどうにかやり過ごし、台所に立って食材を漁る。どうにかこうにか、料理が出揃ったのがそれから一時間後で、ルイが美味しそうにその晩御飯を食べている頃、匂いを嗅ぎつけて来たかのようにナダールも家に帰ってきた。
「とても、いい匂いですね。今日はシチューですか?」
「おお、おかえり」
「ん? まだルイも食事中でしたか、今日は少し遅いのですね」
「うっかり昼寝しちまって、寝過ごした。悪い、今、準備する」
「いいです、いいです、あなたは座っていてください。体調、まだあまりよくありませんか?」
心配そうな顔で覗き込んでくるナダールに俺は「いや」と首をふる。別にそこまで体調がすぐれない訳ではないのだが、少し疲れやすくはなっているのだと思うのだ。
少し前までは何も物が食べられなくなっていたくらいの酷いつわりがずいぶん楽にはなったのだが、如何せん身体が重くてうまく動けない。ルイの時には怪我をしていた事もあって家事のほとんどをナダールが担ってくれていた。
あの頃自分は甘やかされるようにただそんな彼の姿を見ていただけだったので、妊娠と家事の両立が意外と大変なのだという事に今更ながらに気が付いたばかりなのだ。
「体調が悪い訳じゃないんだ、ただ、ルイの時はほとんど寝たきりだったからな。どう体力配分をしていいのかよく分からない」
「あぁ、そういえばあの頃、あなたは一日の半分以上寝ていましたもんね……」
「そんなだったかなぁ?」
「気が付くといつも傍らで寝ているんですよ、あれは本当に可愛らしかったです」
何かを思い出したのであろう、ナダールが弛んだ笑みでこちらを見やる。
う~ん? 確かにあの頃は本当に眠くて眠くて、今思うとなんであんなに際限もなく寝入っていたのだろう? やはり体調の変化だったのだろうか? 今となってはよく分からない。
「もしかして、子供がお腹にいると眠くなってしまう体質なのかもしれませんね。ルイと2人では昼間はろくすっぽ休む事もできないでしょうし、休みの日はルイを連れて出掛けておきましょうか?」
「え……いいの? お前だって仕事あるのに」
「ルイと過す時間は私にとってご褒美みたいなものですし、それであなたが少しでも身体を休める事が出来るのなら一石二鳥だと思いませんか?」
にっこり笑顔のナダール、確かにゆっくり休ませてくれるのならそれに越した事はない。
「ありがとう」と頷くと、ナダールは優しく俺の頬を撫でてくれた。
翌日宣言通りナダールがルイを連れて出掛けて行ったので、俺は久しぶりに一人の時間を楽しむ事にした。ルイと二人で過す事を苦だと思った事もあまりないのだが、娘がいる事で出来ない事はたくさんある。
さて、何からやろうかな? と家の中を見回したらどうにも片付ききらない室内が気になって、少しだけと始めた掃除が思いのほか楽しくて、気が付いたらルイを連れたナダールが帰ってくる時間になっており「何をしているのですか?」と、ナダールに呆れられてしまった。
「ゆっくり休めと言ったのに、何故部屋の片付けなんてしているんですか?」
「え? えっと、なんか気になって?」
「今日はそういう事をする日じゃなかったでしょう? まったく……まぁ、それでも気になってしまったものは仕方がありませんね。確かに最近あまり片付けもできていませんでしたし」
「だろ? そういうのも地味にストレスになってるかもだから、間違った時間の使い方だった訳じゃない」
「それにしてもですね……」
やはり呆れたようなナダールに「次の休みは今度こそゆっくり休むのですよ」と、釘をさされて「はぁい」と俺は苦笑した。
ナダールの次の休みにはナダールが事前に部屋の片付けも家事も一通り片付けてから出かけて行った。なんだか行動を見透かされているみたいだ。
ソファーに座って呆けていても別に眠気がやってくる事もなく、浮いた時間をどうしていいのか途方に暮れた。一人で過ごす時間がこんなに長いと感じたのは初めてだし、今まで一人の時間をどうやって過していたのか思い出せない。
「ルイとナダールに会いたいなぁ……」
1人でいてもつまらない。ゆっくり休めばいいのに、何故か全く休まらない。義足の調整でもしようか? でもなんだかやる気も起きない。退屈、退屈、退屈だぞ!
そうだ、飯の仕度をしよう! 美味しいご馳走を用意して待っていれば、きっと2人も喜ぶに違いない。
そうとなったら……と台所に足を向けて、普段はあまり手が出せない少し手の込んだレシピを漁る。美味しくできたらいいのだけど。
「なんだか、とてもいい匂いですね」
「ママ、ただいまぁ」と飛び付いてきた娘を抱き上げ頬ずりをすると、ナダールは何故かまた少し苦笑の表情だ。
「ゆっくり休めと言っているのに……」
「1人でいても休まらない、何もする事がなくて何していいか分かんねぇんだもん」
少し不貞腐れたようにそう言ったら「難儀な人ですね」と、また苦笑された。
「ですが、このご馳走は食欲をそそられますね。ルイ、ちゃんと手を洗って。みんなで晩御飯にしましょうね」
そう言って囲んだ食卓は穏やかで、やっぱり家族で一緒に居るのが一番落ち着くんだなとそう思った。ルイが寝入った後にそんな話をナダールとしていたら「だったら今度は3人で、家でのんびりしましょうね」と、頭を撫でられた。
ナダールの傍が一番落ち着く、その証拠に彼の匂いに包まれていると、どうにもこうにも眠くなる。
「眠たいですか? ルイと同じように抱いてベッドまで運びましょうか?」
くすくすと笑うように言われてしまって「お前も一緒?」と小首を傾げたら「まだ寝るには少し早いですかね」と瞳を覗き込まれて、キスされた。
「お前が寝ないなら、まだ寝ない」
「意地を張らなくてもいいのですよ?」
「そうじゃなくて、お前がいなきゃ寝られないって言ってるの。このままベッドに運ばれたって、お前がいなくなった途端目が冴えちまう、だからいい」
「私はあなた専用の眠り薬か何かなんでしょうかね?」
膝の上に俺を抱え込み、おかしそうにナダールは笑う。
「寝ていていいですよ、私も眠くなったら一緒に寝ます」
そう言って自分にもたれかからせるようにして、ナダールは子守唄を歌いだした。これ、本当にずるいと思う。何故か俺はその優しい歌声に抗えた事が一度もないのだ。
言っても抗う必要なんて今はもうなくて、俺はそんな歌声とナダールの匂いに包まれてうつらうつらと眠りに落ちた。
次のナダールの休みの日、目が覚めると朝からナダールはルイを抱っこして夫婦のベッドの上にいた。
「これはどういう状況だ?」
「今日はワルの日です」
「ワルの日?」
そんな行事があっただろうか? と首を傾げると「今日は悪い事をしても無罪放免、何をしても許されるワルの日です」と、ナダールはにっこり笑った。
「なにそれ? 意味が分かんねぇ……」
「ルイ、いい子は朝起きたらまずは何をしなければいけませんか?」
「おはよう、で、お顔あらって、おきがえ!」
「そうです、ですが、今日はワルの日なので、やりません!」
ナダールの言葉に俺も驚いたのだが、ルイも驚いたのだろう「きゃー」と歓喜の声を上げた。そうだよな、いつも寝ぐずってめっちゃ嫌がるもんな……
「いい子はベッドでお菓子を食べたらどうなりますか?」
「おこらりる!」
「そうです! ですが今日はワルの日なので怒られません!」
更にルイは歓喜の声を上げて小躍りしそうなハイテンションだ。
「おい、ナダール……いいのか、それ?」
「今日はワルの日なのでOKです。ですが、普段からやったらめっ! ですよ。ルイは約束守れますか? 守れるのなら今日はやりたい事を好きにやっていいですよ」
「ワルの日、やるぅ! ルイね、ルイね、ここでご飯食べる~」
ルイの言葉にそれは既に分かっていたかのように、サイドテーブルにはサンドウィッチが乗っていて、それを手に持ったルイがベッドに上がってぱくりとそれに齧りついた。
朝にそれほど強くない娘が、朝からぐずりもせずに朝食を食べるのも珍しい。しかも満面の笑みでもぐもぐと、驚きすぎて開いた口が塞がらない。
「今日はワルの日なのでパパもワルです」
そう言って、ナダールは大きなベッドにごろりと横になって、もぐもぐと食事を続けている娘の頭を撫でた。娘がそんなパパに食べかけのサンドウィッチを差し出すと、ナダールはそれをぱくりと食べてしまう。そんなナダールの行動に娘のテンションは更に爆上がりで、収拾がつかない。
「おい、ナダール……」
「あなたも一緒にどうです? 美味しいですよ?」
「でもこれは……」
「今日だけの特別ですよ」
それが本来とても行儀の悪い事で、やってはいけない事だと分かっている行動なだけに、幼い子供の前でそんな事をしていいものかと、とても戸惑う。だが、ナダールは気に留めた様子もなくにこにこしているので、俺は諦めてベッド脇の壁に背を預けて腹を撫でた。
ナダールとルイはベッド周りできゃっきゃきゃっきゃと遊んでいて、平和だなぁ……と、俺はベッドに横になりながらそんな2人を眺めている。
何もしなくていいと言われたので、本当に何もせずに既に一日の半分が過ぎてしまった。
「眠かったら寝ていても大丈夫ですからね」
「うん……」
子供の賑やかな笑い声は大きくて、寝られるわけがないと思ったのだが、瞳を閉じてその声を聞いていたらだんだんに眠気が襲う。やっぱりちょっと疲れてたのかな?
いつしかすっかり寝入ってしまって、ふと目を覚ましたら部屋は静かになっていた。
あれ? と思って回りを見回したら、自分の胸元にはルイが小さく丸くなって一緒に寝ている。そして身動ぎをした俺に気が付いたのだろう「目が覚めましたか?」と、俺を背後から抱きこむようにしていたナダールが穏やかに笑っていた。
「よく寝られましたか?」
「うん、なんかすごくすっきりした」
「そんなに長時間寝ていた訳ではないのですけどね」
「そうなのか?」
「えぇ、ルイもまだお昼寝を始めたばかりです」
そうか……と、俺にそっくりなそのルイの赤髪を撫でると、幼い娘は笑みを浮かべて、むにゃむにゃと寝返りを打った。未熟児で生まれた娘がずいぶん元気に育ったものだ。
「なので、もう少しゆっくりしていて大丈夫ですよ」と、今度はナダールが俺の腹を優しく撫でる。
ナダールの匂いはやはり俺には安定剤のようによく効いて、肩の力が抜けた。
「少し、気を張ってたのかな……」
「ん?」
「俺、普通の暮らしがよく分からないし、ルイは未熟児でよその子より少し小さかっただろ? 目を離したらすぐにでも死ぬかもしれないって怖かったし、段々大きくなってきて安心もしてたけど、やっぱりちょっと不安で、二人きりの時は全然気が抜けないんだよ。俺の行動ひとつでこの子は簡単に死ぬんだと思ったらそれが怖くて、でもそれはきっと親になったらみんな一度は通る道で、しっかりしなきゃ、頑張らなきゃって、そう思ってた」
ナダールは俺の言葉をただ黙って聞いている。
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「そういう不安は胎教にも良くないのですよ。不安があるなら小さな事でも全部私に話してください」
「うん、だけどさ……」
自分は家で家事をしながら子供の面倒を見ているだけだけれど、ナダールは外で働いて自分達の食い扶持を稼いできてくれているのだと思えば、そんな些細な不安をわざわざナダールに告げるのも煩わせるだけかと思うのだ。
「だけどもへちまもありません、私が外で安心して働けるのは、家であなたが私達の生活を支えてくれているからです。疲れて帰ればご飯があって、綺麗な家の中で心穏やかに過せるのはあなたが頑張っているからです。そんなあなたが疲れてしまったら元も子もないでしょう? だからあなたは幾らでも私に頼ればいいのです。家庭というのはそういうものです。誰が欠けても成り立たない、違いますか?」
俺はぱちくりと瞳を開いてナダールを見やる。
「なに驚いたような顔しているんですか?」
「え……だって……」
一方的に俺がナダールに縋って生きているのだと思っていた。実際それはその通りで、今となっては彼が居なければどう生活していいのかも分からない。なのに、彼はそれは違うと俺に言うのだ。
「あなたがいて、私がいて、ルイがいて、このお腹の子がいる、それでここはひとつの家庭です。誰が欠けても駄目なのですよ。誰かが無理をして家が成り立っている家庭なんてのは家庭という名の牢獄ですよ。家族皆が笑って楽しく暮らせなければ意味がないでしょう? 私はそういう家庭を望んでいるので、1人で抱え込むのは止めてください」
「家庭という名の牢獄……」
目から鱗が落ちる。ナダールと暮らしているとこんな事がたびたび起こってびっくりする。自分の常識だと思っていた事がそうではなかったと気付かされる。確かに自分の育った家族と環境はナダールの言う『家庭』とは違っていて、どちらかと言えば『牢獄』に近かったと、そう思うのだ。誰にとっても居心地のいい家庭ではなかった、だからこそ、皆ばらばらになって崩壊した。
「ううぅ……」
「え!? ちょ……なんで泣くんですか!?」
「分か……ねぇ、けど……勝手に、出てくんだも……ん」
「泣かせたかった訳ではないのに」と、ナダールが俺の身体を抱き寄せる。
「何も心配も不安もないので、安心して元気な赤ちゃん産んでくださいね」
「うん、うん……」
そんなこんなで生まれた2人目ユリウスは、ルイより遥かに大きくて、しかも超安産で、しかもよく食べ、よく寝る子だった。育てやすいことこの上ない。
「お前もパパみたいにいい男に育てよ」と、瞳を細める俺の傍らには相変わらずナダールとルイがいて、幸せ過ぎて怖いくらいだ。
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