運命に花束を

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番外編:お嫁においでよ

愛を育む

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 カサバラ大陸の国境線のような役割を果たしているカサバラ渓谷の中にある小さな村ムソン、そこに二人が転がり込んで二か月程が経とうとしている。
 渓谷から落下してできたナダールの怪我は完治、グノーの骨折はまだもう少し時間がかかりそうだったが、今は穏やかな時間が流れている。
 村長の家の一室に間借りをしている私とグノーの部屋は同室で、しかもグノーの腹の中には私の子が宿っているとなったら私達の扱いは夫夫同然。
 グノーが意識を取り戻してからは当然のようにシングルベッドをふたつ横並びで置かれ、ひとつの大きなダブルベッドの寝具に私達は一緒に寝ている。
 最近のグノーはよく眠る。一緒に旅をしている間、グノーはほとんど私に寝顔を見せる事はなかった。私より後に寝て、私より先に起きる生活。
 深夜に私に寄り添い寝ている事があるのに気が付いていた私は彼が全く寝ていない訳ではない事を知ってはいたが、それでもあまりの睡眠時間の短さに心配していたのだ。
 グノーは少し不眠気味なのだと自身で語っていた事もあって、いつか私の傍らで安心して眠らせてやりたいと常々思っていた私は彼のその寝顔を見て幸福を感じる。
 私の傍は落ち着くと言われ、傍に居ると眠くなると寝入ってしまう彼に構ってもらえないのを寂しく感じる時もあるのだが、私の傍らで安心しきったように眠る彼の横顔を見ているとそんな寂しさは吹き飛んでしまう。
 愛しい私の魂の片割れ、私は彼をそっと抱き寄せた。起きている時にはまだそういう事するなと怒られるので、これは彼が寝ている時だけの私のお楽しみなのだ。
 彼を胸の内に抱き込んでその背を撫でていると、ふとした拍子に彼がびくりと身を震わせて身体を捩る。

「や……」
「あ、すみません、起こしてしまいましたか?」
「うぅ……なんだ、お前か……」

 呻くように目を覚ましたグノーは強ばらせた身体から力を抜いて、ふぅっと息を吐いた。

「むやみに触んなって、俺、いつも言ってるのに……」
「私に抱かれて寝るのは嫌ですか?」
「別に嫌じゃないけど危ないから」
「? 危ない?」
「寝惚けてる時に手元に武器があったら、うっかりお前のこと殺しちまうかもしれないし……」
「それは物騒な話ですね」

 私は苦笑し改めて彼の腰を引き寄せる。

「だから止めろって、俺こういうの駄目なんだよ」
「なんで駄目なんですか? 私達はもう夫夫も同然、スキンシップは大事でしょう?」
「ふう……ふ?」

 何故かグノーが奇妙な表情をして見せる。それは何を言われているのか分からないというような表情で、私はその表情の意味の方が分からない。

「あなたのお腹の中にいる子供は私の子でしょう? 私が父親、あなたが母親、そうしたら私達は当然夫夫になりますよね? 違います?」
「いや、でも子供が出来たからって夫夫になる必要って……ある?」

 え? あれ? どういう事だ……?

「子供なんてやればできるもんだし、片親で子供育ててる親だっていくらでも……」
「ちょっと待ってください、それはさりげなく私は用無しだと? 子供に父親は必要ないと言われているのでしょうか?」
「そういう訳じゃないないけど、なんか……よく分かんねぇ……」

 戸惑い顔のグノー、たぶん言った本人も混乱しているのだ。子供ができてなし崩しに彼はもう私の伴侶だと認識していた私の自信が揺らぐ。

「この腹の子がお前の子なのは間違いない。だけど、だからと言って俺達の関係の何が変わるんだ?」
「何がって……変わるでしょう!? 私達は家族になるんですよ!?」
「俺、家族ってよく分かんねぇ……」

 ああ、そういえばそうだった。破綻家族の中で育った彼は家族の在り方をまるで理解していない。自分ではない他人が同じ家に同居している、そんな感覚で恐らく生きてきていて、親の愛情も家族の繋がりも知らずに育ってしまった、彼はそんな人なのだ。

「あの、あなたの中で私の認識って今どうなってるんですか……?」

 旅の始まりの時点では旅のツレ認定で友人にすらしてもらえなかった苦い過去が甦る。まさか未だにその認識のままだという事はないと思うのだが……

「お前は俺にとって空気みたいなもの……かな」
「まさかの空気!?」
「空気は大事だぞ?」
「それは私がいなくなったら息もできないくらい愛していると、そういう遠回しな愛の告白ですか?」

 私の返答にグノーは驚いたような表情で「それは違う」と首を振る。

「なんかそういうんじゃないんだよ、居て当たり前の存在? 傍に居ても存在が気にならないっていうか、安心できるっていうか……」
「もうそれ家族の領域ですよね?」
「……そうなのか?」

 私は起き上がり彼を抱え直して膝の中に彼を収める。存外彼がこの位置を気に入っている事を私はもう知っている。

「私達はこの子と一緒に家族になるのですよ」
「そう……なのか」

 今更驚いたようにグノーが自身の腹を撫でる。彼はこの子を一人で産んで一人で育てるつもりでいたのだろうか? だとしたら私の存在意義とは何なのだろう。

「私はまだあなたの中に住まわせてはもらえないのでしょうか……」
「俺の中に……?」
「私の事、まだ嫌いですか?」

 私はまだ彼から「好きだ」とも「愛してる」とも言われた事がない。私はただそこにいる「空気」のような存在なのだ……生活の中に私がいるのが当たり前になっているのは嬉しいが、人として認識すらされていないのは複雑な気持ちだ。

「嫌いじゃねぇよ、嫌いだったらもうとっくに逃げ出してる」
「だったらもう少し私をあなたの中に入れてくれても良くないですか?」
「意味がよく分からねぇんだけど……」

 完全に困惑顔のグノー、ここまでの彼の過去を聞いて彼が何故人付き合いを苦手としているのかも分かっている。彼はこれまでまともに人と関わってこなかったのだ、幼い頃は腫れ物のように扱われ、城を出てからは一人で孤独に旅を続けてきたと聞く。
 そんな彼を唯一構い倒していたのがブラックという男だったようだが、そんな彼も四六時中グノーと一緒にいたわけではない、必然グノーのこれまでの人生は孤独が支配していたのだと考えなくとも分かってしまう。

「あなたは私の事が好きですか?」
「え……えっと、たぶん」
「まだ断言はしてくれないのですね……」
「だって仕方ないだろう! 俺にはそんな感情分かんねぇんだから!」

 拗ねたようにぷいっとそっぽを向く彼も可愛いのだが、これは由々しき問題だ。家族の在り方が夫夫間で違っているなんて事はあってはいけない、これは子供が生まれる前に意見のすり合わせが必要だと私は彼の顔を上向けその瞳を覗き込んだ。

「質問を変えましょう」
「え? なに? なんか怖いんだけど……」
「あなたにとって私は必要ですか?」
「それはまぁ、今となってはいないと困る」
「それは何故?」
「何故って……なんでだろ?」

 彼は基本的にはなんでも一人でできるし一人で生きる事が平気な人でもある、そんな彼が私がいないと困るというのなら私は彼に必要とされているという事なのだろう。けれど、その必要とされ方が問題で、ただ怪我人の妊夫である彼の介護要員として必要だと思われているだけなのならば、怪我が治ってしまえばそこまでだ。

「私は末永くあなたと共に生きたいと考えているのですが、あなたは私とそんな未来を考えてくれていますか?」
「未来……」

 そう一言言ってグノーは何かを考え込むように黙ってしまう。

「この子が生まれたら否が応にも私達は親になります、子供は一人では生きられないのですからこの子は私達が育てるのです。あなたと私はこの子を育てるという観点から言えば運命共同体です、この子はあなただけの子供ではないのですからそこは分かっていますよね?」

 またしても驚いたような顔をされたのだが、こちらとしては何故そこで驚かれなければならないのかが分からない。自分は当たり前で当然な事しか言っていないのに。

「父親ってそういうもんなの……?」
「それはそうでしょう?」
「俺、父親と喋った事すらほとんどないんだけど……」
「それはあなたの育った家庭環境が特殊過ぎるのです、それを当たり前だと思わないでください」

 「そうか」と一言呟いてグノーはまた考え込んでしまう。

「私は夫夫にはコミュニケーションが必要だと思っています、言いたい事も言えない関係は夫夫としては失格ですよ、だからあなたはもっと私を頼ってくださいね」

 私の言葉にグノーはやはり分かっているのかいないのか分からない雰囲気ののままで頷いた。なんとなくこのまま彼と家族になれると思っていた私は先が思いやられるなと苦笑した。



  ※  ※  ※


 ナダールに自分をもっと頼れと言われてしまった。崖から転がり落ちて大怪我を負って、現在一人では生活がままならない俺は既に十分彼に頼り切った生活をしていると思うのだが、自分達は家族になるのだからもっと頼れと言われても何をどうしていいのか分からない。
 そもそも俺は「家族」という形態がよく分からない。父親は家の中での絶対君主、母親はそんな父親を恨みながらも父親に従っていたと思う。
 母は幼い頃に弟を連れて別邸に移ってしまったのでよく分からないけれど、それでも父からの要請があれば行事ごとには顔を出していた、その程度には二人の関係は切れない関係で、けれどそこに信頼関係のようなものは見えなかった。
 夫婦と言えど別個の個人、頼れと言われてもそれがどういう事なのか分からない俺は曖昧に頷く事しかできない。
 何とはなしに自身の腹を撫でる。そこにいるのは彼と俺の子供なのは間違いない、けれどだからと言って俺とナダールの関係の何が変わるのかと言われたら、やはりそれは俺にはよく分からないのだ。
 子供を育てるのは大人だ。普通は両親が子を育てるものらしいが、俺は両親の雇った者達に育てられた。そこに大人がいれば子は育つ。俺はこの子を自分の手で育てるつもりではいたけれど、そこにナダールの存在を置いた事はそういえばなかった気がする。
 もしこの子を「いらない」と彼が言ったら、いよいよもって一人で育てなければいけないなと思っていたけれど、存外子供好きな彼は子ができた事を喜んでくれた。
 俺は子育ての事は分からない事ばかりだからとても助かるけれど、だからといって彼にどう頼るべきなのか俺は未だよく分かっていない。
 最近ナダールのスキンシップがやたらと増えて、それにも俺は戸惑っている。杖を使えば歩けない訳ではないのに転んだら一大事だとばかりに抱き上げられて運ばれる事に戸惑いしかない。

「今が一番大事な時期なんです、このくらい当然です」

 そう言って何から何まで世話を焼かれて、まるで城にいた頃の俺のようだ。あの頃の俺は自分の事が何も出来なかったし、する必要がなかった。逆に言えば何の自由もない生活だったのだけれど、それが当たり前だったのだ。
 与えられたものを食べ、与えられた物を着て、与えられた時間をその通りに過ごすそんな生活。けれど、その頃と今が決定的に違っているのは、ナダールが何をするにもまず俺の意見を求めてくる事だ。
 俺が何を食べたいのか今日は何をしたいのか、問われても俺には答える事が出来ない。これは毎日をその日暮らしで生きてきた弊害なのだろう、自分は未来さきを考えて生きた事がない、だからなんと答えていいのか分からないのだ。
 好きなモノを言えと言われても答えられない、俺はそれまでそんな事を考えた事もなかったのだと改めて気付かされた。

「あなたは無欲ですね」
「そうか……?」

 死にたいと思いながらも貪欲に生きてきた。死ぬ事が怖かったから周りを犠牲に生き永らえた、そんな俺が何かを求める事などしてはいけないと思って生きてきたのに、無欲だなんてとんでもない。

「欲しい物は欲しいと言って良いのですよ?」

 これ以上を望むのは贅沢だ、俺は何もいらない。今を生きられればそれでいい、今まで経験した事のない安穏とした生活、それを与えられただけで既にもう十分過ぎるのに、そんな事を言われても困る。

「そんなに言うなら俺の傍に居て」

 ナダールの傍は安心できる、そして不思議なくらいによく寝られる。
 今までは寝入ったとしても悪夢に襲われるか、微かな物音でも飛び起きるような生活を送ってきた。けれど、彼の薫りに包まれていると悪夢に襲われる事がなくなり、神経をすり減らすような事もなくなった。だから俺はこの村にきてからは寝てばかりだ。
 誰も俺を脅かさない、それがこれほど心地良いのだと初めて知った。

「あなたは自分に触るなと言う癖に、そうやって私を誑かすのですからとんだ小悪魔ですよ」
「嫌ならいい」
「嫌な訳ないでしょう、どうぞ」

 そう言って腕を広げる彼の腕の中は俺だけの場所だ、この場所はもう誰にも譲りたくないと思っている自分の心境の変化に自分で驚く。特にこの倫理観の緩い村ではいつ誰にナダールを寝取られるかと俺は不安で仕方がないのだ、正式に番になれたらこんな不安から解放されるのに……
 そんな事を思っていたらナダールがまたさわりと俺の腕に触れる。

「触んなって言うのに……」
「腕の中に愛しい恋人がいて触るなという方が酷な話だと私は思います。それにこれくらい触るうちにも入らなくないですか?」

 ナダールの手が俺の手を包み込んで指を絡めて握り込む。そしてそのまま口元へもっていって俺の指に口付けた。

「ん……」
「ふふ、真っ赤」

 まるで揶揄うように今度は耳朶を甘噛みされた。

「そういう事すんな!」
「こういうのは嫌いですか?」
「嫌いっていうか……」

 そこではたと俺は気付く別に俺はこれを嫌だとは思っていない、ただどうにももぞもぞした感情が腹のうちから湧いてきて落ち着かないのだ。

「もし私の方から触るのが嫌なのだと言うのなら、どうぞあなたから私に好きに触っていただいて構いませんよ?」
「え……?」

 ナダールが俺から手を離してにこりと笑う。
 「どこでもお好きにどうぞ」と言われて、どうしていいか分からない俺はまたしても戸惑った。

「どうしました?」
「どうしていいか分からない、そんなの無理」

 首を振る俺にナダールは「困った人ですね」と苦笑する。

「あなたはあなたの思うままに振舞えばいいだけなのに、何にそんなに戸惑っているのですか? あなたらしくもない」
「俺らしいって何?」
「傍若無人に人を振り回す、あなたはそんな人だったでしょう?」

 確かにそうかもしれない。今までの俺はどんな人間と付き合おうとその場限りの関係だと割り切っていた。だからどんなことでも出来たし、相手を気遣うような言動もしてこなかった、そんな風に生きてきてしまったから尚更、今となっては手放したくない彼にはどう接していいのか分からないのだ。

「お前は意地悪だ」
「? 意地悪なんてしていませんよ、私はあなたの望む通りに、と言っているだけでしょう?」
「俺にはできない」

 ナダールがまた苦笑するのを見て呆れられたかと血の気がひいた。俺はこういう人間だ、彼とは何もかもが違い過ぎる。彼の望むようには動けない、彼の望むような人間にもなれはしない。

「本当にあなたは可愛い人ですね」

 ふわりと抱きしめられて泣きそうになった。俺は何も返してやれないのに、彼は俺の望む答えをくれる。それが嬉しくもあり、申し訳ない気持ちにもなって、顔があげられなくなった俺は彼の胸に顔を埋めた。


  ※  ※  ※


 最近少しグノーの様子がおかしい。何か物言いたげな雰囲気を醸し出しつつも逡巡するようにして黙り込む事が増えて、それが何故なのか分からない私は首を傾げる。

「どうかしましたか?」
「なんでもない」

 そう言って彼は首を横に振るのだが、その様子はなんでもないようには見えなくて私はまた首を傾げる。
  小さな村ムソンの冬は厳しい。高い絶壁に囲まれた位置にあるこの村は日照時間がとても短いので冬場は特に冷え込むのだと聞いた。

「寒くはないですか? 薪を増やしましょうか?」

 いつものように彼の傍らで過ごしていた私が立ち上がりかけると、くんと服の端を引っ張られる感覚。振り向いたらグノーが慌てたようにその服の端から手を離す所だった。

「毛布もあるし、平気」

 取り繕うように首を振るグノーは瞳を伏せ、言葉も少ない。最近はどうにも元気がないようにも見えて心配で仕方がない。
 今まで彼は言いたい事を平気で口にする人間だった、出会ってからこっちぽんぽんと罵りの言葉も散々聞いてきた、だからこそ最近の彼の様子には首を傾げざるを得ないのだ。

「お腹はすきませんか? 体調は? 身体は痛んだりはしませんか?」
「平気だってば、お前は過保護すぎる」
「今はもうあなた一人の身体ではないのですから当たり前でしょう?」
「それにしたって……」

 そう言って顔を上げたグノーが私と目が合った瞬間ぱっと顔を背けた。いや、グノーの前髪は彼の顔を覆い隠すように長い、正しくは実際に目が合ったのか判然としないのだが、それでも顔を背けられたのは事実だ。
 彼のこの長い前髪は彼の表情を覆い隠し、彼の心の機微も覆い隠してしまう。常々切ってはどうかと提案しているのだが彼はそれを聞き入れてはくれなかった。
 彼の顔にぐいっと顔を寄せ、その瞳を覗き込もうとしたら「近すぎっ!」と肩を押された。

「やはりその前髪切りません? 視野が狭くて危ないですよ」
「俺にはちゃんと見えてる!」
「ホントですか?」

 前髪を掬い上げるようにして瞳を覗き込むとそこにはルビーの宝玉のように美しい紅色の瞳がこちらを見やるのだが、私とばっちり目が合った瞬間その瞳は泳ぎ視線を外された。

「ん?」
「見んなって! 近いって言ってんだろ!」
「私はもっとあなたの顔が見たいです」
「俺はこの顔嫌いだって言ってんだろ! しょせんお前もただの面食いか!?」
「心外ですね、私はあなたの顔を好きになった訳ではありません。正しく言えば見たいのはあなたの表情です」
「表情……?」

 きょとんとした瞳がこちらを見やる。グノーはとても綺麗な顔立ちをしているのに彼はそれを嫌いだという、確かに男らしいとは言い難いかもしれないが別にそんな事は気に病む事でもないと思うのだ。

「笑った顔も怒った顔も驚いた顔も、愛しい人の表情は全部目に焼き付けたいと思うものなのですよ」
「っ……」

 瞬間、グノーの目元から頬が赤く染まり、甘く芳しい香りが辺りを漂い始める。常に覆い隠している彼の肌色は白く、分かりやすく赤面した彼はとても可愛らしい。

「そういう事、言うなっ!」
「言わなければ伝わらないじゃないですか、私は言葉を惜しむつもりはありません、あなたもどうぞ遠慮なく私に思いのたけをぶつけてくれていいのですよ?」
「無理っ!」

 そう言って彼はまた顔を背けてしまうのだが、表情は見えなくとも耳元から首筋まで真っ赤に染まるのを見ているだけで、心はほんのり温かい。
 彼から放たれる甘い香りも濃度を増してむせ返るようだが不快だとは思わない。

「愛していますよ、グノー」

 耳元で囁けば更に彼の首筋は赤く染まる。ああ、早くその白い項に噛り付きたいものだ。



  ※  ※  ※



 まるで太陽の恵みのように注がれ続ける愛の言葉。それは途絶えることなく毎日毎日、朝となく夜となく時間も場所も問わず、今まで欲しても得られなかった言葉を与え続けられた俺はナダールの瞳が見られなくなった。
 彼のその瞳に見つめられると俺は何も隠す事ができない、押さえこんできた感情の何もかもを暴かれていく感覚、俺はそれが怖かった。
 手に入るのかもしれないという希望、今まで諦めてきた俺の帰る場所。けれど、それを掴み取る事が俺は怖くて仕方がないのだ。
 掴んだ途端に掌から零れ落ちるのではないかという恐怖、だったら最初から掴まずにいた方が傷は浅く済むのではないかという後ろ向きな気持ちをナダールは力づくで覆していく。

「あなたはもっとわがままに、あなたの好きなようにしていたらいいのですよ」

 ただただ甘く俺を捉えて離さない彼が怖くて、けれどもう、その手を離せる気もしやしない。
 「愛している」と囁かれ、簡単に「自分も」と返せない臆病な俺はただ黙って瞳を伏せる。そんな俺を彼は穏やかな笑みで見守ってくれているが、こんな俺の一体何処を彼は愛しているというのだろう?
 何も返せない、何も与えてあげられない、ナダールにとって俺は重荷以外の何物でもないはずなのに、彼はいつでも笑っている。

「そういえば、あなたは今まで私以外で誰かを好きになった事がありますか?」
「なにを藪から棒に……というか、自分はもう好かれてるってその自信、まったく羨ましい事だな」
「そこはもう、あなたが現在私の腕の中にいるという事実だけで充分その確証は得ていますので」
「俺がお前を利用しているだけ、とか考えないのか?」

 俺の返答に「あなた、そこまで器用な人じゃないでしょう?」とナダールは笑みを浮かべる。

「もしあなたの初恋が私だったら嬉しいな、と、ふとそんな事を思ったので聞いてみました」
「初……恋」

 書物の中でその単語は見かけた事がある、けれどそれを自分と照らし合わせてみて、思い浮かぶ顔は……

「アジェ、かな」
「え……」
「だから、アジェ。俺の初恋」
「予想外です……ですが、あなたは確かにアジェ君を好いていた。あぁ! 僅差で負けた! もう少し早くあなたと出会っていれば!!」

 俺を抱き込んで心底悔しそうにそんな事を言うナダールに思わず笑ってしまう。

「こういうのに勝ち負けなんてないだろう? そもそもアジェがいなかったら俺達出会いもしなかっただろうしなぁ」
「確かに! でも、それでもやはり悔しいです」

 アジェと出会ったのはナダールと出会う一ヵ月前、恋とか愛とかそういうものとは少し違う気がしなくもないが、アジェとならこれからも二人で生きていけるとそう思ったのは事実だ。
 Ω同士だという安心感、そしてその痛みを知る同士でもある。お互い王家に振り回されているという点でもアジェと俺とはよく似ていて、同類相憐れむ関係でしかなかったのかもしれないが、それでも俺はアジェにだけは心を開く事が出来たのだ。
 いやむしろ、アジェがいたからこそナダールとの関係をゆっくりとだが受け入れられた可能性もあって、アジェはある意味俺とナダールの縁を結んでくれた大事な人だ。

「過ぎた時間は取り戻せません、初恋はアジェ君に譲りましたが、これからの人生をあなたと共に歩むのは私です」

 アジェの心の中にはずっとエディがいた。決して俺の事を一番にする事はない、そんなアジェだったから安心していた部分もあったのだ。俺は愛される事が怖かった。その愛という名の執着も束縛も今までは恐怖の対象でしかなかったから。
 けれどナダールと出会ってからそれは愛ではないと気付かされた。

「お前は本当にいい男だよ」
「ふふ、嬉しいお言葉ありがとうございます。ですが、どうせならあともう一言あってもいいのですよ?」
「ん?」
「私は言葉を惜しむつもりはないといつも言っていますが、それは同時に私に言って欲しい言葉でもあるからです。言葉は減るモノではありませんよね?」

 にこりと笑うナダールに彼の欲する言葉を察する。俺に降り注がれる愛の言葉、確かに減るモノではないけれど……

「俺の精神はすり減るから無理」
「えぇぇ……」

 俺は彼に抱きついてぽふんとその胸に頭を預ける。

「今はこれで満足しとけよ」
「今はという事は、今後があると思ってもいいのですよね?」

 ああ言えばこう言う、俺の退路はどんどん塞がれ、いずれ俺にも彼に愛を囁ける日が来るのだろうか?
 「期待はするな」そう言ってはみたけれど、きっと近い将来俺はその言葉を口にする日がくるのだろうなと、俺は彼の腕の中でぼんやり彼の愛を噛みしめている。
  
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